【京都・左京区発】「京都コンピュータ学院(KCG)」は、1963年創立の日本で最初のコンピューター教育機関である。創立者は長谷川繁雄・靖子ご夫妻。当初、日本の大学には情報系学科は設置されておらず、コンピューターに関する日本語の書物すらなかったという。そんな伝統ある学校を20代の若さで継承されたのが、ご子息である長谷川亘氏だ。2022年に完成した百万遍キャンパスで、長谷川氏に話をうかがった。
(本紙主幹・奥田芳恵)
その他の画像はこちら2024.11.20/京都・京都情報大学院大学 京都本校百万遍キャンパスにて
●子ども時代に気づいた大人だけがもっている世界
奥田 「お気に入りのもの」でオーディオセットを挙げていただいています。音楽がお好きでいらっしゃるのでしょうか。
長谷川 父が京都大学の音楽研究会でピアノをやっていて、家でもずっと弾いていました。蓄音機でLPもよくかかっていて、音楽はとても身近にありましたね。
奥田 お父様はKCGを創立された長谷川繁雄さんでいらっしゃいますね。ご両親の話は後ほどうかがわせていただくとして、まずは音楽の話をお願いします。
長谷川 音楽は好きなんですが、実は学校の授業のせいで嫌いになったことがありましてね。
奥田 なぜですか? 原因は?
長谷川 小学校の音楽鑑賞の授業でレコードをかけるでしょ。ステレオの質が悪いうえに、レコードにキズがついていて雑音が入ったり途中で止まったり。そして音楽の先生なのに、ろくにピアノも弾けなくて。子ども心にも「下手だなあ」と思っていました(笑)。
奥田 それは手厳しい(笑)。
長谷川 その後、私が中学生の頃にオーディオブームがあって70年代はハードロックにヘヴィメタル、80年代でレゲエ。音楽は常に近くにありましたからね。
奥田 お勉強はどうだったんでしょう。
長谷川 両親から「勉強しろ」と言われて嫌いになりました。いまだに嫌いですね(笑)。
奥田 そのご両親―長谷川繁雄さんと靖子さんが創設されたのが、日本で最初のコンピューター教育機関のKCG。もともとお母様が始められた塾が母体となっているんですね。
長谷川 そうです。母は戦後、京都大学が共学化した時の女子学生第1号で、女性初の理学部宇宙物理学専攻でした。ただ在学途中、実家の事情で故郷の和歌山に戻ることになって地元で塾を始めたんです。京都大学卒業後、父と共に中高生向けの「和歌山文化研究会」を開講し、それがKCGにつながっていきます。
奥田 お母様は長谷川さんを産まれた後、京都大学大学院に入られたとか。先進的なお母様だったんですね。
長谷川 今はそんなふうに捉えてもらえますが、当時ではとんでもないですよね。子育てはしない、家事はしない。友だちの家に遊びに行って、「お母さんが家にいてご飯をつくっている!?」と驚いたこともありました(笑)。
奥田 そんなパワフルなお母様のもとで育って、長谷川さんご自身も知的好奇心が強かったのでは?
長谷川 そうですね。小さい頃から人の教えには盲従しない子でしたね。大人は子どもには教えない何か別の世界をもっていることに、割と早く気づいていました。
奥田 納得できないと行動しないということでしょうか。
長谷川 その通りです。人におもねたり迎合したりするのも絶対にイヤでした。
奥田 小さいときの思い出を一つ挙げていただけますか。
長谷川 鮮烈に覚えているのが、小学校3〜4年生の頃、ここのすぐ近くにある百万遍の交差点で、全共闘と警察が火炎瓶と催涙弾で応酬をしていたことでしょうか。学校を遅刻して見にいったんです。機動隊は完全防備でアルミの盾を構えていて、どう見ても学生のほうが分が悪い。機動隊から水平射撃された催涙弾のガスが、ものすごい刺激臭で目が痛かったことも記憶しています。
●乗っ取られかけた学校を裁判で勝訴して守り抜く
奥田 長谷川さんは早稲田大学を卒業後、KCGを継がれたんですね。
長谷川 大学4年生の時に父が亡くなって…。長男だったし、そうすべきかなと。当時は長男が家業を継ぐという一つの倫理道徳がありましたからね。
奥田 家業を継ぐことが宿命だと…。ご自身でやりたいことはおありだったのでしょうか。
長谷川 エジプト考古学方面に行く話はありました。
奥田 エジプト考古学! コンピューターとは両極にある気がしますが。
長谷川 いやいや、当時つながりかけていたんです。当時の考古学研究室では、掘り出した土器を記録するのに手でスケッチしていたんですが、作業的に大変だし正確に記録するのも難しい。それでコンピューターグラフィックを使えないかという視点が生じていました。
奥田 そんな折りにお父様が倒れられた。
長谷川 父はむしろ学校は継がなくていいから、エジプトに行けと言っていたんですけどね。でもよく考えてみると、土器の絵を描くよりも学校を運営するほうが面白そうかなと(笑)。
奥田 その発想はどこから来るんですか。
長谷川 当時は80年代の後半だったんですが、大学生たちが時代の最先端にいて、カルチャーを生み出していたんです。成蹊大学の学生たちがつくったホイチョイ・プロダクションが『私をスキーに連れてって』を制作して話題になったりね。そんなこともあって、大学生でも学校経営はできると思える時代だったのです。
奥田 チャレンジしてみたかった。
長谷川 まあそれだけでなく、多くの優秀な卒業生を輩出したKCGをつぶしたくなかったという思いも大きかったですね。
奥田 経営に関してどこかで学ばれたのですか。
長谷川 いえ。全然です。
奥田 実際に継ぐとなると大変だったのでは?
長谷川 確かに。多額の借金もありましたしね。でも一番大変だったのは、父の時代に起きていた敵対勢力の学校破壊と乗っ取り工作への対応でした。
奥田 そんなことがあったのですか。
長谷川 その頃、学校法人の乗っ取りが横行していたんですよ。というのも、日本の学校法人は株式会社と違って所有権が曖昧で、理事会の過半数を自分の関係者で押さえて、決定権を握ってしまえば完全に自分のものになるわけです。
奥田 大変な状況だったんですね。
長谷川 うーん。私にしてはそんなでもなかったというか…。いろいろありましたが、最終的には裁判で勝ちました。戦後の日本で、敵対勢力の全員を懲戒解雇して実質全面勝訴した珍しいケースだと言われてます。
奥田 勝訴の要因は何だったんでしょうか。
長谷川 分析力と表現力ですね。そもそも裁判とは何かというと、裁判官と弁護士でやりとりされる狭い空間なんです。いわば演劇空間であり文学空間である。だからA対Bという二項対立で反論するのではなく、AならAをアウフヘーベン(止揚・揚棄)して反論すれば、先方は何も言えなくなってしまうわけです。
奥田 なるほど…。裁判でも動じませんね!
長谷川 もちろん弁護士に相談して、法律的に通るかどうかを確認しながら進めましたけどね。
奥田 長谷川さんのそうした思考はどうやって培われてきたものなのでしょう。
長谷川 どうでしょう。通っていた小中学校が公立だったので、いろいろな家庭の子どもたちがいましてね。小学校のときは班長を務めていたので、言うことを聞かない子をどうやってまとめようかと、あれこれ考えていたことが生きているのかもしれません(笑)。(つづく)
●ジャズ喫茶の定番だったアナログオーディオセット
1970年代から80年代にかけては、ジャズ喫茶の全盛時代。全国にあまた存在していて、同様のオーディオセットが置かれていたという。京都にも多くのジャズ喫茶があり、学生だった長谷川さんも常連だったそうで、「コーヒー1杯でずっとジャズを聴いてました」と懐かしむ。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
<1000分の第364回(上)>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。