セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
岩瀬仁紀が日本一のクローザーになるまで(後編)
通算1002試合──。日本のプロ野球史上、最も多くマウンドに上がった投手にして、まったく想像もつかない言葉が発せられた。
「常に投げたい、とは思わなかったです」
中日で20年間、現役生活を送り、11年間、抑えを務めた岩瀬仁紀はそう言った。プロのリリーフ投手なら誰しも、何らかの事情で「今日は投げたくないな」と思ったことが一度はあるかもしれない。が、岩瀬の場合、毎試合だったという。言い換えれば、1002回の「投げたくない」があったのか......。その心境を聞く。
【もうひとりの岩瀬が出てくる】
「投げたいと思わないですけど、条件的に投げなきゃいけないなと思ったら、自分のなかでのスイッチを勝手に入れていたんです。そうすると、もうひとりの岩瀬が出てくるので、『そいつがやってくれるからいいや』と思って(笑)。ただ、たとえば3点差が4点差になって、セーブがつかなくなって投げなくなるのが一番困るんですよね。スイッチを入れたら、逆に投げたいので」
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マウンド上で別人格に"変身"するなど、ほかの野球人からも「スイッチを入れる」話を筆者は聞いてきた。ゆえに、「もうひとりの岩瀬」も変身に近いかと考えられる。だが、毎試合「投げたくない」は聞いたことがない──。もしや、一番投げたくなかったのは、2007年の日本シリーズ第5戦、先発の山井大介が8回までパーフェクトに抑えていた時だったのではないか。
「それは投げたくないですよ。あの時、『山井が8回にひとりでもランナー出したら行く』って言われていて。それで8回まできた時、『とにかく山井、抑えてくれ』と思って。で、8回を抑えたはいいんだけど、『じゃあ9回、どうするんだ?』って考えた時、ウチの監督(落合博満)だったら代えかねんなあ、っていうことをまず思ったんです。だから、絶対気は抜けないなと」
岩瀬によれば、山井が右手中指のマメを潰していることは、5回頃にブルペンに伝わっていた。中日が日本ハムに対して3勝1敗とし、53年ぶりの日本一に王手をかけた一戦。相手先発はエースのダルビッシュ有だったが、中日は2回、平田良介の犠飛で1点を先制していた。一方の山井は同年、右肩の故障から復活して6勝を挙げたが、肩の違和感でCS(クライマックス・シリーズ)での登板はなかった。
「5回から山井がそうなっていて、8回まで投げられるんだったら9回も行けるだろうとも思っていました。でも、ブルペンに電話がきて、行くしかなくなって。こっちに拒否権があればよかったんですけど......(笑)。相当な覚悟を決めるしかなかったですね」
当時監督の落合博満、投手コーチの森繁和が、後年、各々の著書で継投の内情を明かした。8回終了時点、マメさえ大丈夫なら完全試合のチャンスがある、と見ていた森が「どうするんだ?」と山井に聞くと、「岩瀬さんでお願いします」との返答。7回にマメの件で報告を受けていた落合は、「山井がもう投げられないと言っています」と森から聞いて、「岩瀬で行こう」と告げた。
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「簡単に言えば、山井とダルビッシュで勝てないと思っていたところが勝てる試合になって、監督としては『絶対に勝たなきゃいけない』っていうふうになったと思います。それで9回、山井を行かせて、ランナーを出してから僕が行くほうが難しいんじゃないか、という判断があったので。
だから、代えるなら9回の頭からだし、山井を行かせるならとことん行かせなきゃいけないだろうな、っていう判断のなかでの答えですよね。で、山井が『ここまで岩瀬さんでずーっと来たんで、岩瀬さんに代えてください』って言った言葉が、すべてなんじゃないかな、と」
【四球とホームランは絶対に防げる】
ホームで日本一が決まる9回。スタンドから歓声は起きず、ざわつくなかで岩瀬はマウンドに上がった。まず、先頭打者の金子誠は外角のスライダーで三振。続く代打の高橋信二をレフトフライに打ち取り、最後は小谷野栄一をセカンドゴロ。過去にない重圧を感じながらも岩瀬は3人で抑えて1対0。史上初の継投・完全試合が達成され、中日が日本一の栄冠に輝いた。
「ひとりでもランナーを出したら、何を言われるんだろうと思ってましたよ。そういう雰囲気になってしまっていたので。で、3人で抑えても、次の日のワイドショーで何かすごい批判をされて。『代わった岩瀬が悪い』みたいな感じになっちゃって。こっちは別に、自分で行きたくて行ったわけじゃないし、っていう感情で見ていた気がします(苦笑)」
9回を3人で締め、日本一になって批判される──。抑えとして、プロとしてあり得ない経験を強いられた岩瀬だが、翌年以降も結果を残し続け、10年からのリーグ連覇に貢献する。42セーブを挙げた10年は4度目の最多セーブ賞を獲得し、被本塁打1、与四球率2.44。37セーブを挙げた11年も被本塁打1で、与四球率1.85だった。
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「フォアボールとホームランは絶対に防げるものだと思っています。結果、ヒットを打たれるとしても、打つってことはバッターがミスする可能性もあるわけです。そのミスの可能性を潰して、自らフォアボールを与えてしまうのは無駄だと。だから、少々甘くてもホームランにならないボールで勝負にいかなきゃいけない。フォアボールを出すと雰囲気が悪くなるのでね。
でも、抑えが先頭にフォアボールを出すことはよくある。やっぱり打たれたくないし、ランナーを出したくないという思いが強いほど、出してしまうんです。そういう時のピッチャーは守りに入っていて、厳しいところに投げようとか、様子を見ようとかすると、フォアボールを出しやすい一番の要素になる。だから、気持ちのなかで攻めていれば、フォアボールにはならないです」
抑えになった当初、敬遠という作戦に慣れるまで時間がかかったというほどに、岩瀬のなかで四球は無駄なものだった。では、ホームランを「絶対に防ぐ」にはどう投げればいいのか。
「バッターがよっぽど完璧にとらえないと、ホームランにならないです。自分の投げる球種のなかで、このボールをここに投げたらホームランになる、というのはだいたいわかります。じゃあ、そこに投げなきゃいいというだけの話です。これは年数が経っていくなかで覚えたことですけどね。年数が経って、衰えてくると、ピッチングがすっごく難しくなってくる」
【抑えて当たり前なんてあり得ない】
高木守道が監督に復帰した12年。岩瀬は自身5度目の最多セーブ投手賞を獲得したが、同年は8度の救援失敗があり、左ヒジの違和感で二軍調整もあった。この時38歳。以前は空振りしていた球がファウルになったり、ファウルだった球がヒットになったり。それでも結果を残し続けるため、少しずつ投球を変えていくことに難しさがあった。
「能力が落ちてきたところで同じように数字を挙げるって、どれだけ難しいか。対戦すればするほどバッターのほうが有利になるし、だんだん自分の球の質が落ちていく。そのなかで勝負していって結果を残しているのに、周りから『よくランナーを出す』とかブツブツ言われて(笑)。すごく腹立たしかったですね。そっちのほうが難しいんだって言いたかったですよ」
実績を積み上げた抑えほど、周りから「抑えて当たり前」と思われがちだが、実際は逆であり、岩瀬に言わせれば「当たり前なんてあり得ない」と。それでも岩瀬自身、40歳を過ぎた15年から左ヒジの故障で長期離脱しながら、17年に50登板と復活。すでに抑えではなくなっていたが、周りは前人未到の1000試合登板に期待した。その数字を目指すことが生きる糧になっていたのか。
「いや、目指してないです。それよりも、抑えに戻りたいなあって思ってて。やっぱり、あそこのポジションじゃないと、自分が自分でないような。何か中途半端に野球やってるなあ、っていう感じだったんです。あの、ヒリヒリする場面じゃないと生きられないみたいな」
毎試合、投げたくなかった岩瀬だが、最後まで抑えであり続けたかった。「もうひとりの岩瀬」が成し遂げた407セーブという日本記録を、どう位置づけているのだろうか。
「残ったものに過ぎないですね。僕が抑えになったのがちょうど30歳になる年、29歳からです。だから、29歳から400セーブ挙げたわけなので、いつか抜かれると思ってますよ。だって、僕がプロ入ったのは大学、社会人、出てからなので。高校から入って抑えやったら、抜きやすいですしね(笑)」
(文中敬称略)
岩瀬仁紀(いわせ・ひとき)/1974年11月10日、愛知県生まれ。西尾東高から愛知大、NTT東海に進み、98年のドラフト会議で中日ドラゴンズを逆指名し2位で入団。入団1年目の99年シーズン途中から勝ちパターンの一角を担い、最優秀中継ぎ投手賞を受賞。その後も中継ぎで起用され、2004年からは抑えとして5年ぶりの優勝に貢献。07年の日本ハムとの日本シリーズの第5戦において、8回まで完全試合ペースの好投をしていた山井大介に代わり9回に登板。三者凡退に抑えてNPB史上初の継投による完全試合を達成。12年にはセ・リーグ史上最多の5度目、また最年長記録となる最多セーブのタイトルを獲得。18年9月28日の阪神戦でNPB初の1000試合登板を達成し、同年現役を引退。19年からは野球解説者として活動。25年に野球殿堂入りを果たした