
松永浩美が語るアニマル・レスリー 前編
阪急ブレーブスに2年間在籍(1986、87)し、抑えのピッチャーとしてプレー。勝利したあとの派手なパフォーマンスで人気を博したアニマル・レスリー氏。破天荒なイメージが強い助っ人はいったいどんな男だったのか。
かつてスイッチヒッターとして、長らく阪急の主力として活躍した松永浩美氏に、アニマル氏の人間性やピッチングについて聞いた。
【当時の阪急に必要なピッチャーだった】
――アニマルさんの最初の印象はいかがでしたか?
松永浩美(以下:松永) 印象的だったのは入団の経緯です。ペペ(アニマルの愛称)は自ら球団に売り込んできたんですよ。彼が送ってきたビデオテープを見た上田利治監督が、「面白いやつやね」って言っていたのをよく覚えています。
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当時の阪急にいた山田久志さんや佐藤義則さん、今井雄太郎さんらはマウンドでガッツポーズなどをすることがなかったこともあってか、ペペがバッターを打ち取ったあとの派手なアクションが上田監督の目にとまったんでしょうね。
――自分をアピールすることが得意だった?
松永 ペペの現役生活はメジャーで4年、日本で2年と短かったじゃないですか。それなのに、あれだけのインパクトを与えて記憶に残る選手だったということは、やはり自己アピールがうまかったんでしょう。マウンド上で雄叫びをあげたり、試合に勝利した直後にキャッチャーの藤田浩雅のマスクをグラブで殴ったりしていましたが、あれも本人からすればパフォーマンス。殴っていた、といっても、グラブでポンポンという感じでしたしね。
抑えで出てきて、試合に勝ったらワーっと盛り上げる。大人しいタイプのピッチャーが多かった当時の阪急には、ペペみたいなピッチャーが必要だったような気がします。
――松永さんはサードを守っていて、マウンドにいるピッチャーに声をかけに行くことが多かったですが、アニマルさんにはどんな言葉をかけていましたか?
松永 「ここを抑えたら美味しいもんを食べさせるよ」とか「日本食でいいとこあるよ。次に東京へ行った時に行こうか」とか(笑)。ピンチの場面というよりも、ぺぺが下を向く回数が多くなってきた時に声をかけに行きました。キャッチャーからの返球を捕ったあと、キャッチャーを見ていればいいのですが、自信なさげに下を向く回数が多いときは、だいたい調子がよくない時なんです。あと、「ケンカを売られるんじゃないか」って思ったときもありましたよ。
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【「投げるたびにヒヤヒヤしていた」】
――どういう場面でそう思ったのですか?
松永 ペペが投げている時に、1回だけエラーしたことがあるんです。そうしたらぺぺがマウンドから降りて、私がいるサードに向かって歩み寄ってきたんですよ。ケンカを売られるのか、何か文句を言われるのかと思ったのですが、「ダイジョウブ!ダイジョウブ!」って日本語で言ってきて(笑)。
身長が2m近く(198cm)ありますし、マウンドにいるときは常にテンションが高いので、こちらに向かってきた時は圧倒されましたね。私に文句を言ってくる選手はほとんどいなかったですし、そういう意味でも驚きましたよ。
――同じように、相手バッターも圧倒していた?
松永 私がバッターボックスに立ってぺぺの球を見たことがないのでなんとも言えませんが、たぶん大したことないと思うんです(笑)。パフォーマンスが大げさだったり、大きな声で吠えてみたり、それで体も大きいですし......そういう要素で圧倒されることはあったかもしれません。真っすぐは、そこそこ速かったですね。
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――サードからアニマルさんのピッチングを見ていてどうでしたか?
松永 投げるたびにヒヤヒヤしていましたよ。基本的にランナーを出してしまいますし、3人で終わらせることがあまりなかったので。打たれてしまった時に、「気にするな!次で取り返そう」とマウンドに声をかけに行くこともありました。
打たれてもすぐに切り替えられればいいのですが、ちょっと気持ちを切り替えるのが遅いんです。試合後も引きずってしまうタイプなので、野球に関わりがない場所で発散させていましたね。天ぷらが大好きだったので、天ぷらをふたりで食べに行ったりしましたね。
――ピンチの場面や、特定のバッターに対してギアを上げることはありましたか?
松永 相手のバッターがどんな特徴があるのか、どれぐらいの成績を残しているのか、今はよくて当たっている、といった情報や先入観を持たずに投げ込んでいくタイプです。そういうことをインプットしてしまうと、いっぱいいっぱいになっちゃうんじゃないですかね。そうじゃなくてもフォアボールが多いのに(笑)。
【外国人選手のなかで「一番優しかった」】
――1年目は42試合に登板して、5勝3敗19セーブ。しかし2年目は18試合の登板にとどまり、2勝2敗5セーブと不振でした。
松永 先ほどお話したように、それほどすごい球を投げるわけではないので、やはり見切られてしまうんでしょうね。スライダーやカーブ、フォークといろいろ変化球を投げていたのですが、これといった決め球がないので見切られてしまうんでしょう。相手からすれば、「パフォーマンスは派手だけど、それほどすごい球は投げてないぞ」という感じだったんじゃないですか。
あと、ぺぺが乱調だった試合での出来事なのですが、通訳のチコ(ロベルト・バルボンの愛称。選手時代は阪急で3度の盗塁王に輝くなど活躍した)がマウンドに来るじゃないですか。みんなで集まるんですけど、チコはペペにパパっと話をしただけですぐに終わったんです。そのあとにベンチに戻ったら、上田監督が「ちゃんと伝えたのか?」と聞いていて、チコは「伝えましたよ」と答えていました。
こうじゃないか、ああじゃないかと上田監督が話していた時間はけっこう長かったはずなのに、チコがペペと話した時間が一瞬だったので「おかしいな」と思ったんでしょうね。私はチコに「上田監督が伝えようとしたことと、チコがぺぺに伝えている内容って違うんじゃない?」って聞いたことがあるんですよ。そうしたら、上田監督はペペに対して厳しいことも言っていたようで、チコも「あれは、全部は伝えられないよ」と困っていました(笑)。
――マウンド上での豪快なイメージが強いのですが、普段はどんな方なんですか?
松永 自分が関わった外国人選手のなかでは一番優しかったかな。なかには、あまり日本人と話さない外国人選手もいましたが、彼は積極的にコミュニケーションを取ってきました。ロッカーが私のふたつ横と近かったこともあると思いますが、私には「マツ!マツ!」ってよく声をかけてくれましたよ。同じくロッカーが近かったブーマー・ウェルズや、通訳のチコも交えてよく話していました。
――チームに溶け込もうという意識が強かった?
松永 チームに対してもそうですし、日本の文化に対してもそうでしたね。箸を持つことが得意でしたし、和食の店に「一緒に行きましょう」と誘われたこともありました。プライベートも含めて、私が見た外国人選手のなかでは、一番日本に溶け込もうとしていた選手じゃないかな。
日本語も、片言だけどそこそこ話せましたし、とにかく一生懸命に話すんです。基本的なコミュニケーションをとる上で通訳もほとんど必要なかったですし、あまり外国人選手という感覚がありませんでしたね。
(後編:日本好きだったアニマル・レスリーは、引退後も帰国せずにタレント活動 「やめたあとのほうが充実感はあったみたい」>>)
【プロフィール】
松永浩美(まつなが・ひろみ)
1960年9月27日生まれ、福岡県出身。高校2年時に中退し、1978年に練習生として阪急に入団。1981年に1軍初出場を果たすと、俊足のスイッチヒッターとして活躍した。その後、FA制度の導入を提案し、阪神時代の1993年に自ら日本球界初のFA移籍第1号となってダイエーに移籍。1997年に退団するまで、現役生活で盗塁王1回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞4回などさまざまなタイトルを手にした。メジャーリーグへの挑戦を経て1998年に現役引退。引退後は、小中学生を中心とした野球塾を設立し、BCリーグの群馬ダイヤモンドペガサスでもコーチを務めた。2019年にはYouTubeチャンネルも開設するなど活躍の場を広げている。