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昭和初期、日米親善のため「ミス滋賀」として渡米した人形がある。米国から贈られた「友情人形(青い目の人形)」のお返しとして、日本から海を渡った市松人形58体のうちの1体だ。現地で歓待されたとの記録は残るが、その後の消息は分かっていない。日本をたってから100年となるのを前に、小さな「親善使節」の足跡をたどってみた。
58体の市松人形が米国に届けられたのは、1927(昭和2)年の11月下旬。当時、米国で排日移民法が成立するなど日米関係が悪化しており、この年には、日米友好親善の証しとして、米国から青い目の人形約1万2千体が日本各地に贈られていた。
市松人形は日本からの答礼で、「ミス東京」「ミス京都市」など都道府県や大都市の名前が付けられた。「ミス滋賀」は「近江滋賀子」とも呼ばれ、県内各地で送別会が開かれた後、他の市松人形とともに米国へ旅立った。
「ミス滋賀」はフロリダ州マイアミの「フラグラー記念図書館」に寄贈されたとの記録が残る。現地紙の「マイアミ・ヘラルド」は、29年5月に同館で式典があり、日系の少女が着物姿で贈呈役を務めたほか、人形の着物や道具類などの説明があり、日本の歌が披露されたと報じている。
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しかし、これ以降の行方が分かっていない。
同時期に海を渡った答礼の市松人形のうち、「ミス京都市」など47体は、一部は他の人形と取り違えられるなどの混乱を経つつも、米国内の博物館などが所蔵している。だが、「ミス滋賀」を含む11体は消息がつかめていないという。
答礼人形についての著作がある日本人形商のアラン・ペイトさん(61)によると、フラグラー記念図書館は60年代にほかの公共図書館に統合されて閉館したという。フロリダ州内の女性団体や博物館に引き継ぎがないかを調べたが、人形の写真や記録は見つからなかった。
ペイトさんは「答礼人形は人形芸術の重要な遺産であり、日米関係が複雑な時期に重要な役割を果たした」と強調する。戦時中の日本では、多くの青い目の人形が敵対視されて処分されたが、米国でも「多くの市松人形が展示を外されたりしたのは事実だ」という。「もし見つかれば、日本に連れて帰り、滋賀県で帰郷祝いをしてあげたい」と願っている。
(まいどなニュース/京都新聞)
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