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日本拳闘史を紡いだ世界王者02:ロイヤル小林
日本ボクシング界の最強パンチャーを選ぶとしたら、ロイヤル小林(国際ジム)の名前は外せない。少なくともトップ5には入る。たくましくプレッシャーをかけながら打ち込むパンチはどれも強烈無比。とりわけ、その左フックには豪快さと切れ味がともに宿った。1976年に獲得したWBC世界ジュニアフェザー(現スーパーバンタム)級タイトルは在位47日の日本史上最も短命に終わったが、豪打の記憶はオールドファンの胸に今なお、力強く息づく。
【才能の在処は拳だけにあらず】
1972年のある日、ミュンヘン五輪ボクシング日本代表4選手の合同練習に、多くのプロ関係者が集まった。アマチュアアスリート最高峰の舞台で戦う選手たちに、違う視点からアドバイスをもらおうというアマチュア連盟(日本ボクシング連盟)のアイデアだった。
プロフェッショナルの目はひとりのボクサーに集中する。自衛隊体育学校所属の22歳、フェザー級(57kg級)代表の小林和男だ。のちのロイヤル小林である。
その豪打は、すでに広く知れ渡っていた。1年前に彗星のように出現し、全日本選手権大会を連覇した。当時のアマチュアの主力は大学生で、拓殖短期大学夜間部で学んでもいた小林は、1年間だけチーム戦で争う大学リーグ戦に参戦した。小林は全日本大学選手権を含めて4戦すべてにKO、RSC、棄権勝ち(RSC=タオル投入の棄権はプロのTKO勝ちに相当)。なおかつ、うちふたりを担架送りにした。そんな注目選手の練習に張りついたプロ関係者は、驚いた。
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「パンチだけじゃない。こちらが言ったことすべて、すぐに吸収し、実際にやってみせる。すごい才能だ」
オリンピック本番、小林は初戦で2度のダウンを奪って快勝。続いて左ボディブローを決めて初回KO勝ち。銅メダルをかけた準々決勝で惜しくも敗れたものの、プロ側の評価は高まる一方だった。
翌春、小林はプロ入りする。キャッチフレーズは『KO仕掛人』。当時人気のテレビ時代劇からつけられた。ちなみに『ロイヤル』というニックネームには海外から驚きの反応もあったが、こちらは単にスポンサー企業から拝借したものだ。
1973年2月のデビュー戦から、会場の後楽園ホールは満員札止め。初お目見えこそ、ベテラン相手に判定勝ちにとどまったが、2戦目から快進撃が始まった。11連続KO勝ち。ハードパンチは一戦ごとに凄味を加えた。期待感も爆発的に高まった。1974年6月には、かつてファイティング原田(世界フライ、バンタム級チャンピオン)をTKOに破ったこともある、"ロープ際の魔術師"ことジョー・メデル(メキシコ)をダウンさせて棄権に追い込んだ。
同年9月には、ハワイを主戦場にする世界上位ランカーのバート・ナバラタン(フィリピン)に10回判定勝ち(3ー0)を収め、世界を視野に捉える。だが、陣営はなお下準備を重ねた。日本国内のライバルと連戦して連勝。1975年5月には技巧で鳴らした前東洋太平洋フェザー級チャンピオン、歌川善介(勝又)をわずか2回で粉砕した。小林の世界アタックに待ったをかける声はどこからも聞こえなくなった。
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リングのニューヒーローは、この男しかいないと誰もが確信していた。
【史上有数の左フックを2度も浴びた】
18戦全勝16KOの小林を世界のトップ戦線で待ち受けていたのは、あまりに厚い壁だった。1975年10月、初めての世界王座への挑戦は、WBA世界フェザー級チャンピオン、アレクシス・アルゲリョ(ニカラグア)との戦いだった。ずば抜けた技巧派にして、スリムな長身から繰り出すパンチはとびきり鋭い。そのうえ、きわめて端整なマスクの持ち主で、スーパースターの香りが匂い立った。
ただし、この時点でアルゲリョは本場アメリカでは2試合だけしか戦っていなかった。スターダムの入り口付近に立っていたに過ぎない。まだまだ未完。チャンスはあると思い込んだのは、甘い予測だった。アルゲリョはすでにとてつもなく強かったのだ。
伸びのいいジャブ、右ストレートの前に、小林は打つ手がない。荒々しい突進も楽々といなされる。5ラウンド、右ストレートでひるんだところにワンツーから右アッパーを浴びて倒される。辛くも立ち上がるが、連打を集中され、最後は脇腹に突き刺さった左フック。腹を抱えて倒れ込んだ小林は、そのままカウントアウトされる。
「(最後の一撃は)胃まで届いたんじゃないかというくらい痛かった」(小林)
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1年後、新設されたばかりのジュニアフェザー級(現スーパーバンタム級)に体重を落とし、WBCチャンピオンのリゴベルト・リアスコ(パナマ)に挑む。減量に苦しんだ小林はベストの状態とは言い難かったが、それでもパワーでリアスコを圧倒。8回KO勝ちでタイトルを奪取する。
しかし、冒頭のようにわずか1カ月半後、敵地・韓国のリングで廉東均(ヨム・ドンギュン)に敗れて無冠になった。初回にスリップ気味のダウンを喫し、その後は逃げまくる挑戦者を追いかけきれずに僅差での判定負けを喫した。「もう少し条件を上げれば、日本開催も可能だった。そうすれば、負けはなかった」と悔し紛れの愚痴が周辺に広がったが、すべてはあとの祭りだった。
廉を逆転KOで破ってWBCチャンピオンになったウィルフレド・ゴメス(プエルトリコ)に挑んだのは1978年1月だった。今度は減量もうまくいってベストの状態に仕上がった。1974年のアマチュア世界選手権に17歳で出場して全試合KO勝利で優勝を飾ったゴメスは天才と呼ばれた。小林と戦ったころは、まだ頼りない一面も見えたのだが、これまたとんでもない怪物だった。
滑らかな攻防技術に、小林の攻めはがむしゃらにしか映らなかった。カリビアンの小さなステップ、体のしなりにすべてのパンチが空転させられた。さらに3ラウンド、罠が仕掛けられた。
「打っても、打っても、当たらない。あのときだけ、一瞬、(ゴメスの)ガードが下がったように見えた」(小林)
次の瞬間、小林の視界は漆黒に塗りたくられる。左フックのカウンターを食らったのだ。試合は実質的にここで終わった。顔面からキャンバスに突っ伏した小林はふらふらになって立ちあがり、レフェリーはあと2度倒れるまで、戦闘を続けさせたが、あまりに残酷な続編に思えた。
1979年1月、小林はWBA世界フェザー級チャンピオン、エウセビオ・ペドロサ(パナマ)に挑むが、長身ながらも接近戦がうまいチャンピオンの前に一方的に打ちまくられ、13ラウンド終了で棄権した。
30代になった小林はなおも現役を続けた。若い頃の迫力はだんだんと失われたが、左フックを軸に置くコンビネーションブローは完成度を高めていた。ただし、5度目の世界挑戦のチャンスはついに訪れず、32歳で引退を決意した。
【最強のパンチに情熱を傾けた】
小林は、最初からスポーツで大成しようと考えていたわけではない。出身の熊本・鎮西高校はボクシングの名門だったものの、部には入らなかった。卒業後に自衛隊に入隊、やがて、その運動能力が認められて体育学校へと進むが、そもそもの入隊動機はクレーンやショベルカーなどの大型車両、特殊機械の免許が取りやすいと考えたからだった。
そんな人物が運命に導かれるように拳の格闘技へと道を歩み始め、やがて、自らが達成すべき行き先を知る。リングの中にいる目前の敵をすべて倒す。それも最強のパンチ、左フックで。
現在のトップレベルのボクシングは組み立てが変わってきているが、小林が全盛期にあった50年前、最強のKOパンチは左フックだった。実際、このパンチが最も多くのKOを作るという統計もあった。最強のパンチの求道者は、2度にわたって自分自身を痛めつけた伝説のファイター、アルゲリョとゴメスの左フックにすっかり惚れ込み、「われこそがベストのレフトフッカーに」と思いをより深めたのだろう。後年、小林はトレーナーとして後進の指導にあたったが、弟子たちは左フックにこだわり抜く師匠の教えばかりが印象に残っているという。
アルゲリョは小林戦後、1970年代から80年代にかけて、時代を代表するスターボクサーになった。3階級制覇を成し遂げ、4階級制覇にも挑んだ。ゴメスは世界タイトル17連続KO防衛の空前の大記録を作り、やはり3階級制覇を成し遂げた。小林が最後に挑んだペドロサはハードパンチャーでも、左フックの使い手とも言えないが、世界王座19度防衛の大チャンピオンである。
現役時代同様、世界チャンピオンの後半生としては恵まれたものとは言えなかったのかもれない。眼光鋭く、口数も多くない。いささかとっつきにくい。その人柄をよく知る人は、不器用で生真面目だったと証言する。晩年は熊本に帰り、警備員などの仕事をした。こよなく愛する酒と、娘と孫の来訪が何よりの楽しみだと語っていたとも聞いている。
PROFILE
ろいやる・こばやし/本名:小林和男(こばやし・かずお)。1949年10月10日生まれ、熊本県出身。自衛隊体育学校でボクシングと出会い、1972年のミュンヘン五輪フェザー級のベスト8。翌年、国際ジムからプロデビュー。世界初挑戦は敗れたものの、1976年にWBC世界ジュニアフェザー(現スーパーバンタム)級タイトルを獲得。初防衛戦で敗れたあと、2度、世界再挑戦に臨んだが、いずれも敗れた。1978年に東洋太平洋フェザー級王座を奪い、このベルトは7度守った。1981年に引退。オーソドックススタイルの典型的なスラッガーだった。43戦35勝(27KO)8敗。2020年11月17日に病没。71歳だった。