「心の傷は癒えない」=3歳で孤児に、親戚を転々―暴力や虐待も・東京大空襲80年

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2025年03月04日 07:31  時事通信社

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時事通信社

東京大空襲で孤児となった吉田由美子さん=2月14日、茨城県鹿嶋市
 一夜にして約10万人の命を奪ったとされる東京大空襲は、多くの孤児を残した。全国空襲被害者連絡協議会の共同代表を務める吉田由美子さん(83)=茨城県鹿嶋市=もその一人。「心の傷は癒えない。当たり前の親の愛情を受けられなかった」と振り返り、平和を訴え続けている。

 「東京もそろそろ危ない」。1945年3月9日、現在の墨田区に住んでいた父は疎開を決意し、当時3歳の吉田さんは準備のため近くの叔母に預けられた。そのわずか数時間後、東京は空襲で火の海と化し、吉田さんは両親と生後3カ月の妹を失った。遺体や遺骨は今も見つかっていない。

 叔母に背負われ避難した吉田さんには「火の粉が降り注いできれい」という光景と、「表現できない臭い」の記憶が今も残る。その後は群馬県高崎市の親戚宅に身を寄せた。

 敗戦を経て、約1年後には祖父が建てた東京のバラックに。その後、当初疎開する予定だった新潟県の父の実家に移った。さらに半年後、小学校入学を控えて同県の伯母宅へ転居したが、それからの生活を「地獄の日々だった」と振り返る。

 初対面の伯母からは「空襲で親と一緒に死んでくれれば、お前を育てなくて済んだのに」と言われ、大きなショックを受けた。「いつか迎えに来てくれる」と言い聞かされて育った吉田さんは当時6歳で、このとき初めて家族の死を知った。

 家では単なる労働力として扱われた。「お手伝いは勉強しなくていい」。家事や仕事の手伝い、子守のために朝から晩まで働いた。苦しい生活のはけ口として、たたかれたり蹴られたりすることもあった。「生きるすべだったから、我慢するのが上手になった」と自虐的に語る。

 その後就職、結婚を経て、原告に加わった東京大空襲訴訟を機に、十数年前から集会やイベントでこうした体験を語り始めた。現在は墨田区や鹿嶋市の小中学校などでも講話を続けている。

 伯母は約30年前に亡くなったが、「ずっと苦しみは続いている」と吐露する。「親に甘えたかった。戦争は一時の出来事ではない。同じ思いを誰もしてはいけない」。講話の最後は決まっている。「平和のバトンを託します。皆さん、つないでいってください」。 

東京大空襲で孤児となった体験を小学校で語る吉田由美子さん(中央奥)=2023年1月、茨城県鹿嶋市(本人提供)
東京大空襲で孤児となった体験を小学校で語る吉田由美子さん(中央奥)=2023年1月、茨城県鹿嶋市(本人提供)
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