
原発事故からの復興を目指す福島県双葉町。住民ゼロからの再スタートを切った町に、今、子育て世帯が移住し始めている。2000人規模の町づくりは実現できるのか。そして、いまだ最終処分地が決まらない除染土の行方は?
「双葉に帰りたい」 最初は線量に気を遣いながらの移住生活原発事故で住民ゼロから再スタートした双葉町。
2023年、家族5人で移り住んできた人がいる。震災後、双葉町の復興支援員として町の広報誌などを作る仕事をしていた山根辰洋さん(39)は、同じ支援員だった光保子さんと知り合い、結婚。双葉町で生まれ育った光保子さんの意向を汲んで、避難先のいわき市から移住した。
山根辰洋さん
「奥さんがずっと『双葉に帰りたい』と言っていたので、奥さんが双葉町で山根の姓も残したいという話もしていたので、『全然いいですよ』という話をして」
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現在は駅前の一軒家を借りて生活しているが、最初は線量にもかなり気を遣っていたという。
山根さん
「奥さんは最初1年ぐらいずっと毎日、積算線量計をつけて暮らしていて。自分が被爆している線量も記録して、全然問題ないと」
休みの日になると、山根さんはよく娘たちを連れて町の中を散歩する。そこでは、娘たちからこんな質問も。
長女(8)
「あそこ何で段差になっているの?」
山根さん
「この段差も地震でできた段差なんだよね」
山根さん
「『何でこうやって壊れているの』とか、『ボロボロなの』みたいなことはよく聞かれますね。それは率直に、地震や原発の事故があって、皆いなくなったからこういう状況なんだよ、みたい話はするんですけど」
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山根さんは双葉町の町議会議員を務めながら、5年前に観光事業の会社を立ち上げた。インバウンド向けに、町の魅力を発信する活動を続けている。
山根さん
「観光で人が来れる、交流できるようになればなるほど、暮らしも発展していくだろうし、産業になる可能性もある」
この日、海外からのツアー客を招き、震災の爪痕が残る町を練り歩いた。
山根さん
「何でこのシャッター、壊れていると思いますか?電気がなくなっちゃって、このシャッターが開かなくなっちゃった。津波が来るってなったときに、この中にあった消防車が中から突き破った跡です」
津波の被害を受けた沿岸部に建つ、東日本大震災・原子力災害伝承館にも案内した。
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ツアー客の中には双葉町は初めてという人が多く、皆、原発事故の被害を伝える展示物や写真などを食い入るように見ていた。
イギリスからの観光客
「地震と津波の被害が衝撃的で、とても刺激を受けました」
インドからの観光客
「政府や地域の人たちが、この場所を復興させようとしている活動は素晴らしいと思います」
山根さんは原発事故の被害だけではなく、町の歴史や文化なども知ってほしいと考えている。
山根さん
「この地域を故郷だと思っている人たちの誇りに、もう一回なってほしいと思っているので、そういうところを目指してやりたいなと」
双葉町は2030年までに、人口を2000人に増やすことを目標に掲げている。だが、町民の多くは避難先で家を建て、新たな生活を始めているため、現在住む人の約6割(108人)が、町の外から来た移住者になっている。
こうした人たちを繋いでいるのが、双葉町移住定住相談センターだ。住まいや仕事の情報提供や、補助金の紹介などを行っている。移住希望者からの相談は年々増えているという。
土屋省吾 移住相談員
「2024年度は延べ60件。去年と同じペースで増えている実感はあります」
センターでは、双葉町の生活をリアルに体験してもらうため、お試し住宅を用意している。最大4泊5日、家族連れで利用することもできる。
土屋 移住相談員
「食器もある程度用意して、1週間ぐらいここに居て、自分の肌に合うかどうか確認するのはいいかなと」
だが、希望者からの相談が増える一方で、新たな問題も生まれている。
土屋 移住相談員
「駅の西に『駅西住宅』という災害公営住宅があるんですけど、夏ぐらいはまだ空き住居があったんですよ。秋ぐらいに一旦満室になってしまい、住居が少ない。入れる住居が」
町は民間アパートなどを増やそうと企業にも働きかけているが、建築資材の高騰の影響で難しく、新たに住宅が建つ予定はないという。
「都会過ぎるところより合ってる」 移住始めた子育て世帯こうしたなか、子どもの環境を変えたいと、駅西住宅に移住してきたのが高久田祐子さんだ。
高久田祐子さん
「(移住した)子育て世代第1号だと思います」
もともといわき市で暮らしていたが、息子の蒼くん(16)が学校に馴染めなかったことなどから、2022年に親子3人で移住。
環境が変わったせいか、蒼君は隣町の中学校に通い始め、卒業後は通信制の高校に進学した。2025年から飲食店でアルバイトも始めた。
蒼くん(16)
「都会過ぎるところより合ってると思います。(双葉町に)来てからのほうが、健康的な生活は送れている気がします」
娘の寧々ちゃん(10)は小学4年生。双葉町には今も学校がないため、子どもたちは駅から無料の送迎タクシーに乗り、10分ほど走った浪江町の小学校に通っている。
かつて浪江町には6つの小学校があったが、原発事故のあと、すべての学校が閉校に。7年前、なみえ創成小学校が新たに創設され、現在はこの1校だけ。
生徒は全学年合わせて54人。事故前に比べ子どもの数は大幅に減少したが、4月からは転入生も10人ほど加わり、少しずつ増えているという。
神村崇 教頭
「2025年になり、移住という形でどんどん学校に転入している方がいます。はじめは少し友達関係で悩んだりはするんですけども、人数が少ないので、家族のように過ごすことができています」
子どもが学校に通っている間、高久田さんはパソコンに向かう。もともと飲食店の経理をしていたが、在宅ワークが中心だったため、移住しても影響はなかった。
双葉町には、スーパーもまだない。買い物は車で隣の浪江町まで行くか、駅前に来る移動販売車で済ませている。
高久田さん
「いわきの時は毎日買い物に行っていた派だったから、買い忘れてもすぐ行ける距離にあったけど、今は冷蔵庫の中身を見て、これとこれとこれを買わなければと頭にインプットして買いに行く」
それでも、不自由さはほとんど感じていないという。
高久田さん
「コンビニが24時間開いていなければと思っていたが、開いていなくてもいい、みたいな。これが本当なのかも」
双葉町に移住して、新たなコミュニティも生まれた。毎週木曜日、駅西の集会所では地域の住民たちが集まり、お茶を飲む会を開いている。いつも欠かさず参加している高久田さんは、ほとんどの人が顔なじみだ。
高久田さん
「びっくりしているのかな、どうなのかなと思って」
参加者
「最初子どもを見たときね、嬉しかったよ。『あ、子どもが来てよかった』って」
参加者
「でも学校が隣町までは不便だな、という感じ」
高久田さん
「普通に楽しいです。いろんな話を聞けるし、いろいろ教えてくれるし、楽しいですよ」
夕方、寧々ちゃんを訪ね、外国人向けにツアーを行っていた山根さんの娘がやってきた。2人は互いの家を行き来するほど、大の仲良しだ。
そんな2人は、浪江町で行われているダンス教室にも通っている。習い始めて半年、今では周りの子どもたちともすっかり馴染んでいる様子だ。
浪江町も原発事故後、居住者は震災前の2万1542人から、10分の1ほどの2256人に減った(2025年1月末)。そのうち3分の1が移住者になっている。
ダンス教室を運営する狩野菜穂さんも、事故のあと東京から福島に来た移住者だ。
ダンス教室運営 狩野菜穂さん
「『ここの土地はこのまま手がつけられない』と言われ、何でここだけそんな目に遭わなきゃいけないのと。その時に自分が思ったのは、子どもたちがやりたいことを絶対やらせようと。私はここで鍛えさせてもらったし、この子たちは全力で表現してくれている」
双葉町で暮らして2年半。今、子どもたちは地域の宝として大切に育てられている。高久田さんは、この町は子育てをする環境に適していると感じている。
高久田さん
「地域の人たちが皆で子どもを見守ってくれるのが最大の利点だと思っていて、移住前の場所では叶わなかったこと。子どもが幸せに生活できる町になってくれたら」
双葉町にとって復興の最大の障害が、町内に仮置きされている、除染作業で出た土の問題だ。その除染土をめぐり、伊澤町長の発言が波紋を広げている。
伊澤史朗 双葉町長
「双葉町で再生利用することで、県内の他の自治体にも理解が波及していくのでは
ないかという個人的な考えをお伝えしております」
福島県内から集められた中間貯蔵施設内の除染土は、東京ドーム11個分に相当する。残り20年で福島県外に運び出し、最終処分することが法律で決まっているが、膨大な除染土を少しでも減らすことが喫緊の課題だ。
政府は低濃度の除染土について、再利用するための実証事業を進めている。しかし、候補になった電力消費地の首都圏で反対が起き、事業は進んでいない。
伊澤町長に発言の真意を聞いた。
伊澤 双葉町長
「残念なことに、(中間貯蔵施設)受け入れしてから10年経っていますけども、最終処分に対しての議論が進んでいないということと、この取り組みの理解醸成が進んでいないということが、一番危機的な状況だと思っています」
いわば双葉町が身を切る形で、除染土の町内再利用に言及した。被災地以外での議論が深まるきっかけになればと考えている。
伊澤 双葉町長
「どなたかはやっていただければ一番いいんですけども、やはり一番当事者である我々が、私が話をすることが、皆さんにいろいろな考え方を議論してもらう一石を投じた形になればと思っています」