3月18日、東京ドームでの開幕戦でドジャースの山本由伸投手(26)が先発する。
大谷翔平選手(30)の陰に隠れながら、メジャー1年目の昨年は7勝を挙げ、ワールドシリーズでも勝利投手に。日本では、沢村栄治など過去2人しかいない「2年連続ノーヒットノーラン」も成し遂げた。
由伸は、どんな過程を経て、“日本最強投手”そして“メジャー史上最長契約投手”になったのか。野球にげた、汗と涙がにじむ半生を振り返る─―。
「由伸が初めてノーヒットノーランを達成したとき、ナイキのスニーカーをプレゼントしました。去年ロサンゼルスの家に行ったら、その靴が玄関に置いてあって、履いた痕跡もあった。うれしかったですね。わざわざアメリカまで持っていってくれたんだなと」
オリックス時代のチームメートであるT?岡田さんは昨年、同僚とドジャー・スタジアムを訪れた。
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「由伸に連絡したら、『ぜひ来てください』と返ってきたので、ロスまで飛んでいきました。メジャーについて聞くと、『噂とは違います。めちゃくちゃ練習してますよ』と言っていました。昔と変わらない雰囲気で話してくれました」
現役時代にホームラン王を獲得した10歳年上の岡田さんは、当時から由伸の姿勢に脱帽していた。
「敗戦投手になっても、必ず記者会見に出席する。口を開きたくない日もあるはずなのに、『話すことで、ファンの方に感謝を表したい』と言っていました」
2021年から2年間、投手兼任コーチとして見守った19歳年上の能見篤史さんも感心する。
「投手って味方にエラーが出ると、平静を装いながらも態度に出てしまう。でも、由伸は一切見せない。しかも、野手が『すみません』と謝りに来る前に、自ら励ましに行く。この行動はできないですよ。人見知りしない性格で、周りの雰囲気も柔らかくしてくれる子です」
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世界的な投手になっても、なぜ由伸は変わらずに謙虚なのか──。
■少年野球時代の監督が述懐「根っからの負けず嫌い。エラーしたら悔やし涙を」
1998年8月17日、岡山県備前市に誕生した男児は母・由美さん、父・忠伸さんから1字ずつ取って「由伸」と名付けられた。後援会長で少年時代の所属チーム「伊部パワフルズ」で監督を務めていた大饗利秀さんが振り返る。
「お父さんは東岡山工業高校の野球部出身で、社会人でも軟式チームで内野手として活躍しました。由伸は小さいころ、お母さんとお姉ちゃんと一緒に父の応援に行っていた。物心つく前から、『自分もお父さんのようになりたい』とおもちゃのバットを振っていたそうです。小学生のときも、本当に野球が好きな子で、いつもボールを持っていました。普通に友達と話しているときも、握ってましたから」
動物病院の看護師として働く母の影響で、動物好きになった由伸少年の心には、芯の強さと優しさが共存していたという。
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「根っからの負けず嫌いでした。チャンスで打てなかったり、大事な場面でエラーしたりすると、悔しがって泣いていました」
6年生になると、由伸はキャプテンを務める。
「1年生や2年生など年の離れた子の面倒をよく見ていましたね。遠征に行くと、率先して下級生の荷物や道具を運んでいました。どうすればいいか迷っている子を見つけると、自分から近づいて教えてあげていた。いいお兄さんで、みんなに好かれる性格でした」
行動の背景には、「全てに感謝」というチームの合言葉があった。
「野球道具やグラウンド、保護者の方々のサポートがあって、仲間や対戦相手がいるから、野球ができる。だから、すべてに感謝しながらプレーしなさいと言いました。味方がエラーすると『何やってんだ』と怒る子もいる。そんなときに『合言葉を思い出そうね』と」
中学生になると、由伸は「伊部パワフルズ」時代の先輩に憧れ、隣町の「東岡山ボーイズ」に入部する。車で片道1時間かかる遠方だったが、母は仕事のやりくりをしながら、送り迎えを欠かさなかった。
研究熱心な由伸は道具にもこだわり、地元スポーツ店「ウィズシー」を頻繁に訪れた。由伸の父と同い年の店主で硬式の社会人野球でプレーしていた鈴木一平さんが話す。
「中学生のころ、野球仲間と一緒に来ては『これいいなあ』とグラブを手にしていました。当時、私はオリジナルのブランドを立ち上げたばかりで、由伸に『ええやろ』とよく見せていました。『高校生になったら買います』と言ってくれた。社交辞令かなと思ったけど、進学前にお母さんと一緒に来て、本当に投手用と内野手用の2つを購入してくれました」
由伸は中学の1つ上の先輩・石原与一さんの背中を追い、宮崎の都城高校に進学。先輩の兄で、由伸と顔見知りだった石原太一さんは1年秋から都城のコーチになった。
「数年ぶりに再会したとき、変な距離感がありました。もともと、由伸はおとなしくて、人見知りするタイプなんですよ」
由伸2年の秋、石原さんが監督に就任。野球の指導以上に、人間性の向上を重視した。
「僕自身、高校や大学でベンチに入れない時期が長かった。控えでしたから、いつもレギュラーの練習を手伝っていた。それに対して、お礼一つ言わない同級生に疑問を持っていました。感謝しているのかもしれないけど、口にしないと伝わらない。由伸は根がすごく優しい子なんですけど、表現が得意ではなかった。ちゃんと言葉で気持ちを示そうねと指導しました」
自主性を尊重し、練習メニューに選手の意見を取り入れた。
「由伸が投手陣の意見を集約して、提案してくれました。エースとして投げた2年夏、県大会の準々決勝で0対1で負けて、『先輩の代を終わらせてしまった』と責任を強く感じて、そこから変わりましたね。自主練の時間も長くなって、日付をまたぐほどでした」
負けた悔しさと自分の頭で考える楽しさを知った由伸は、急成長を見せる。2年秋の新人戦決勝でノーヒットノーランを達成。球速は151キロをマークし、専門誌でプロ注目の選手として取り上げられた。寮生活の由伸は夏も実家には戻らず、自主練を繰り返し、年末年始だけ帰省した。そのときも、鈴木さんの店にグラブを持っていった。
「メンテナンスを頼まれ、革質や形についてのグラブ談議もしました。『なんか、専門誌で有名になってるやないか』と聞いたら、恥ずかしそうに『そうでもないです』と答えてました」
プロへの階段を上っていた春先、石原監督は心の隙に気づいた。
「3年生になる直前の練習試合で、手を抜いているように見えた。マウンドまで全力で走らず、立ち振る舞いもふだんと違いました」
試合が終わり、ほかの選手がベンチから離れた後、石原監督は「プロに行く選手が、あんな態度じゃダメじゃないの? みんな見てるよ」と叱ると、由伸は「すみません」と素直に反省した。
「本人もすぐ気づいたようです。自分がその場にいるのは、当たり前じゃない。由伸がマウンドに立てば、ほかの子は投げたくても投げられない。そういう感謝の気持ちを持ってほしかった」
■「監督を絶対に甲子園に連れていきたい」由伸の頬を流れる涙でナインも嗚咽
高校野球には2つの残酷がある。苦楽をともにした選手も、メンバー選考ではライバルとなる。そして、勝っても負けても、夏で別れが訪れる。だから、石原監督はより一層の結束を訴えた。
「ベンチ入りの20人を決めた後、最後の遠征で大分に行きました。そのとき、選手たちがまだ遠慮し合っていた。全力疾走しない子がいても、誰も何も言わないんです」
夜のミーティングで、石原監督は思いの丈をぶつけた。
「もっとお互いが気持ちを伝え合おう。ケンカしてもいいから感情的になって、ガムシャラにやろう」
すると、由伸が泣きじゃくりながら大声で叫んだ。
「監督を絶対に甲子園に連れていきたいです!」
頬を流れる涙を見て、ナインも泣き崩れた。部屋中に嗚咽が連鎖した。
夏の県大会、優勝候補の都城は3回戦で宮崎商に0対2とリードを許す。9回2死、打席に立った由伸はセカンドにゴロを転がすと、1塁へ頭から飛び込む。砂煙のなか、無情のサイレンが鳴り響いた。
「ユニホームをドロドロにするタイプではないので、驚きました。彼も私も、みんな号泣しました。1年のころ、由伸は感情を表に出さない子でしたけど、2年半で別人のように変わりました」
甲子園の土は踏めなかったが、都城高で由伸は精神的にもプロで活躍できる素養を培った。かつての球界最速男・山口和男スカウトがほれ込み、由伸はドラフト4位でオリックスに入団する。このとき、大谷翔平と高校時代に日本代表でバッテリーを組んだ中道勝士さんも、オリックスに指名された。入団会見で由伸と初めて会うと、質問攻めを受けた。
由伸:大谷さんって、どんな真っすぐなんですか?
中道:最高154キロで速いんやけど、当時は藤浪(晋太郎)の真っすぐのほうが怖かったなあ。
由伸:変化球は何を放るんですか?
中道:スライダーがすごかった。ホームベースの端から端まで曲がってたな。
由伸:(遠征中に)練習していないとき、何をしてましたか?
中道:常にストレッチしてたで。本も読んでたなあ。同級生だけど、すごいと思ったな。
由伸:どんな本ですか?
中道:体のメカニズムとか栄養に関する本だったかな。
「貪欲さがズバ抜けてましたね。この年のドラフトは14人中9人が投手(育成含む)でしたが、唯一、大谷について聞いてきました」
春季キャンプに入ると、酒井勉・育成コーチは精神面の成熟度にも感心した。
「とにかく落ち着いていました。高校生の場合、1の段階にいるのに10の段階に話が飛んでしまう子が多い。『僕は絶対にエースになります』とかね。でも、由伸は『1軍で活躍するために、こういう練習をしっかり積み重ねたい』と今の立ち位置を把握していました」
中道さんは「いいボールを投げると思ったけど、今のようなすごい投手になるとは想像できなかった」と話す。しかし、5月に2軍で試合形式のバッティング練習をしたとき、由伸の変化を感じた。
「衝撃でした。ボールの質が格段によくなっていた」
その裏には極秘のトレーニングがあった。週1日のオフ、起床したばかりの中道さんが寮の部屋からエントランスに目をやると、由伸が出かけていった。
「毎週、朝7時くらいでしたね。のちのち聞いてみると、トレーニングに行っていたそうです。当時から、自主練のときにやり投げをしていた記憶があります」
オリックス入団が決定後、鈴木さんは矢田修トレーナーを紹介していた。由伸は矢田さんのもとを訪れ、指導を仰いでいたようだ。
「私が監督をしているボーイズリーグのチームに矢田先生が来てもらえるようになってからは、選手の故障がなくなったんです。由伸がプロで酷使されてケガしたら大変だと不安になったので、本人に勧めました」
体の重心を軸に考え、体内の力を重視する教えを授かった由伸は、2軍で圧倒的な成績を残す。寮生活に慣れると、先輩たちとの接し方も変わってきた。
「最初『中道さん』と呼んでいたのに、ある日突然『ミッチー』になってました(笑)。朝、寮で会うと『おはようございます』じゃなくて、『はーい、ミッチー。おはよう!』って。由伸って、ホント鼻につかない子なんですよ。憎めないし、かわいらしい。弟のような感じです」
野球に邁進しながら、オフには釣りも楽しんでいた。
「『稼ぎたい』とか『いい車に乗りたい』という話もしてました。1軍の選手が2軍の練習場に来ると、駐車場を見て『金子(千尋)さん、いつも車違うよね。すごいなあ』とうらやましそうに言ってましたね」
’17年8月20日のロッテ戦で、由伸は1軍デビューを果たす。勝ち星には恵まれなかったが、先発で5回1失点と上々の出来だった。だが、本人の感覚は違った。翌日、酒井コーチに初めて弱音を吐いた。
「僕、この世界でやっていけません。今のままだと肩やヒジが壊れます」
酒井さんは「今後、プロ野球でやっていくためにどうする?」と優しく語りかけ、故障しないために「フォームを見直す」「トレーニング方法をアレンジする」「球種を増やす」と3つの提案をした。
そのシーズンオフ、由伸は矢田さんのもとで日々熱心に練習に取り組み、変貌を遂げた。
だが、周囲からは批判的な声が多数を占めた。高卒1年目でプロ初勝利を挙げ、順風満帆に見えたため、首脳陣から「フォームを変える必要はない」と猛反対に遭った。やり投げやブリッジという目新しい練習方法も「ケガにつながる」と危険視された。四面楚歌になった由伸に、酒井さんは「その理論を教えて」と語りかけた。
「あのクレバーな由伸が取り組むんですから、相当な理由があるんだろうなと。『新しいフォームだと、肩やヒジに負担がありません』と話していたし、自分の頭で考えて理解しながら取り組んでいる。これなら大丈夫だろうと。1時間以上しゃべっても、『もっとあるんです』と話し足りない様子でした」
■「由伸は勉強家で引き出しが豊富。悪い点をすぐ修正できる珍しいタイプ」(能見さん)
由伸は自分の感覚と対話しながら、新たな理論を取り入れる柔軟さを持ち、正しいと思えば、意志を貫く剛胆さも兼ね備えていた。その結果、この年は中継ぎとしてチームに貢献。遠征先で試合が終わると、同期入団の同級生・榊原翼さんは由伸と遊びに出かけた。
「2人でよくすし店に行きました。一度、90貫近く食べたんですよ。途中、店員さんから『今、80貫ですけど、お会計大丈夫ですか?』と心配されました(笑)。当時は由伸もそこまで稼いでなかったので、支払いは割り勘でしたね。アイツはイカが好きなんですよ」
オフの契約更改で、推定年俸は800万円から4千万円に上昇。翌’19年、先発に転向して最優秀防御率のタイトルを獲得すると、9千万円に跳ね上がった。
「そのころですかね、遠征中に由伸の友達含め、男3人でカラオケに行きました。また、店員さんが『お勘定が数万円になっていますが、支払いは大丈夫ですか』と(笑)。あまり歌わず、お酒ばかり飲んでいた。由伸は『ぜんぜん大丈夫です。まだまだいけます』と言って、最後は全額払ってくれました」
由伸は球界屈指の投手に成長していき、’21年には初の開幕投手を任される。その試合前、阪神から移籍してきた能見投手兼任コーチはブルペンで異変を感じた。
「責任や緊張からか、めちゃくちゃ力んでいて、ボールの質が悪かった。でも、不安を与えるより、いいイメージで送り出してあげたい。だから、何も言いませんでした」
予感は当たり、西武打線にノックアウトされた。翌日、能見さんが「力みまくってたから、打たれると思った」と打ち明けると、由伸は「言ってください」と懇願した。
「試合前に指摘してほしくない投手が多いなか、珍しいタイプです。それから何か気づけば、言うようにしました。由伸は勉強家で引き出しが豊富なので、悪いところをすぐに修正できる」
この年、由伸はタイトルを総なめにして、チームを25年ぶりの優勝に導く。上昇カーブを描く同級生に対し、榊原さんは下降線をたどった。悩みを察知した由伸は「ウチ来るか?」とよく誘った。
「僕には『酒飲みすぎるなよ』『もっとしっかりしろよ』と叱咤が多かった。でも、いつも気にかけてくれるので、由伸の言葉はほかの人の何十倍も響きました」
中道さんがオリックス退団後、焼き肉店で働いていたころ、由伸が不意に訪れた。
「(本拠地の)京セラドームから時間かかるのに、わざわざ食べにきてくれました。焼き肉は好きみたいですね。この前も、滋賀県のおいしい焼き肉屋さんの食材の写真を送ったら『どこ? 行きたい』と返ってきました。『滋賀県』と書いたら、『遠い。やめとく』って(笑)」
どんな大投手になっても、由伸の性格は変わらない。
「普通、これだけの成績を残すと、周りから助言されても、自分に合うかすぐ分析できるので、聞かなくなります。でも、由伸は違う。ちゃんと話を耳に入れて、いったん受け止める。必要であれば取り入れるし、相手に邪険な態度を絶対に取らない。だから、みんなに好かれるし、尊敬されるのだと思います」(能見さん)
’23年12月、由伸はドジャースにメジャー投手史上最長となる12年契約で入団。翔平の同僚となった。会見では「勝ち続けられる球団でプレーしたい」「たくさんの方のおかげで今、僕はここにいることができています。今日からは本当の意味で(メジャーに)憧れをやめなければいけません。自分自身が、憧れてもらえるような選手になれるよう、頑張ります」と話した。
■「全てに感謝」少年野球時代の魂がドジャースの選手となった今も心に─―
「小さいころから体もきゃしゃでしたし、メジャーの選手になるとは想像できなかった。今も、帰省して色紙やボールにサインをしてくれるとき、『全てに感謝』と書いてくれます。少年野球の合言葉をいまだに覚えてくれていて、その精神を貫いている。なかなかできることではないと思います」(大饗さん)
都城高の監督を’18年に退いた石原さんには、忘れられない思い出がある。’21年の日本シリーズ、第6戦に先発した由伸は9回を1失点に抑えるも、ヤクルトに敗れて日本一を逃した。
試合後、由伸は観戦に来ていた石原さんを車でホテルまで送った。そのとき、高校最後の夏の状態について、初めて打ち明けた。
「実は、ヒジが痛かったんです」
静寂な車内で、石原さんの脳裏に力投する17歳の姿が浮かんだ。
「相当な覚悟と責任を持って投げていたんだなと……」
車を降りると、由伸は「これ、もらってください」とその日のユニホームを手渡した。裏返すと、背番号の横にサインと「感謝」という文字が書いてあった。
「すごく胸に響きました。あの2文字に、山本由伸という人間のすべてが詰まっていました」
由伸は「今日はありがとうございました」と頭を下げると、ほほ笑みながらハンドルを切った。日本球界最高の舞台で投げた日に、自分を育ててくれた恩師にお礼を伝えたかったのかもしれない。
「由伸は『自分は自分』と考えていて、他人を気にしない。一方で、周りの選手やスタッフ、環境に常に感謝をしていて、まったく偉そうにしない。だから、マウンドで動じないのだと思います」(石原さん)
野球へ導いてくれた両親、見守ってくれる愛犬のためにも──。由伸は日本のエースから翔平とともに世界一の投手へ駆け上がる。
(取材:シリーズ人間班、岡野誠/文:岡野誠)
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