長らく入手困難だった河出文庫の『暗黒のメルヘン』が、先ごろ「新装版」として復刊された(今回の新装版では、カバー装画を林由紀子が手がけ、解説を高原英理が書き下ろしている)。
『暗黒のメルヘン』は、マルキ・ド・サドの著作の翻訳などで知られる澁澤龍彥の編纂による日本幻想文学のアンソロジー。親本は1971年、立風書房より刊行された書籍で、収録されているのは、泉鏡花「龍潭譚」、坂口安吾「桜の森の満開の下」、石川淳「山桜」、江戸川乱歩「押絵と旅する男」、夢野久作「瓶詰の地獄」、小栗虫太郎「白蟻」、大坪砂男「零人」、日影丈吉「猫の泉」、埴谷雄高「深淵」、島尾敏雄「摩天楼」、安部公房「詩人の生涯」、三島由紀夫「仲間」、椿實「人魚紀聞」、澁澤龍彥「マドンナの真珠」、倉橋由美子「恋人同士」、山本修雄「ウコンレオラ」の計16作。
このラインナップを見てもわかるとおり、編者の澁澤にとっては、純文学と大衆文学、あるいは、メジャーとマイナーの枠組はないに等しいのだろう。あるのは、(彼自身「編集後記」でも書いているように)「文学でなければ実現できない純粋表現のスタイル」への偏愛のみだ。
また、澁澤はこうも書いている。「現今の文壇小説や中間小説に最も欠如しているものは、神秘や怪奇を美に変ずる言語の力、あり得べからざる一つの状況設定から、一篇のロマネスクを組み立てようとする人工的な物語作者の意志、――要するに、小説を小説たらしめる根本的な条件であるところの、遊びの要素であろうと私には思われる」
そう、「幻想文学」といえば、何かと“異端”の文学として扱われがちではあるが、前述の16作には、「物語」が本来もっていなくてはならない「遊びの要素」――すなわち、“小説の面白さ”が凝縮されているといっても過言ではないのである(そういう意味では、幻想文学は異端どころか、文学の王道であるといってもいいだろう)。
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澁澤龍彥は、1928年生まれ。戦後まもなく、フランス文学の翻訳家として出発し、やがて、西洋の闇の歴史やオカルティズムなどをテーマにした随筆、マニエリスムおよびシュルレアリスム芸術の評論、そして、東西の古典に取材した蟲惑的な幻想文学の書き手として、その活動の幅をひろげていった(1987年没)。
また、稲垣足穂、三島由紀夫、久生十蘭、小栗虫太郎、夢野久作など、お気に入りの作家24名を論じた『偏愛的作家論』という著書もあり、くだんの『暗黒のメルヘン』をはじめとする、内外の幻想文学を独自の視点で編んだアンソロジーもいくつか遺している。
ところで、先ほどから私は、「幻想文学」という言葉をいささか安易に使っているのだが、そもそも「幻想文学」とは何か?
もちろん、狭義には、非現実的な――つまり、夢のような世界を描いた物語ということになるだろう。しかし、多かれ少なかれ、小説(物語)というものは、作者の「幻想」を描いたものなのではないのか。
澁澤龍彥も、「幻想文学」という言葉の曖昧さ(あるいは自由度の高さ)を認めたうえで、「幻想文学について」というテキストの中で、次のように述べている。「幻想文学のテーマにもいろいろあるが、そのなかで、死あるいは彼岸の要素を含んでいないものはないと言ってよい」(『澁澤龍彥全集10』河出書房新社・所収)
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この、「死あるいは彼岸」という言葉を別のいい方で表わすなら、「あの世」ということになるだろう。じっさい、『暗黒のメルヘン』に収録されている作品の多くは、泉鏡花「龍潭譚」から大坪砂男「零人」にいたるまで、ふとした拍子に、この世とあの世の境界線を踏み越えてしまった者たちの物語である。
「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」といったのは江戸川乱歩だが、「よるの夢」――すなわち、「小説」の中にこそ、“真実”はある。また、かつてヨーロッパ語圏では、この世の森羅万象は神の言葉の表われであるのだから、目の前の現実よりも、芝居などの方が“ほんとうの世界”に近いのだという考え方もあった。
いずれにせよ、『暗黒のメルヘン』のページを一枚一枚めくっていけば、あらためて、「物語」を読むことの面白さに気づかされるだろう(収録順はそれなりに考えられているのだろうが、基本的には、どの作品から読み始めてもいいと思う)。
なお、同書に収録されている各作品については、澁澤が「編集後記」の中で簡潔ながら的確な解説文を書いているので、そちらを参照されたい。個人的には、三島由紀夫による謎めいた少年と父親と“あの人”の物語「仲間」と、萩原朔太郎「猫町」を彷彿させる日影丈吉「猫の泉」を推したい。
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