それに対して、「BOW AND ARROW」はショートプログラムのようなプログラム、つまり、競技で滑るようなプログラムとして振り付けたということで、これまでのセルフコレオとは一線を画している。「BOW AND ARROW」で羽生さんは、フィギュアスケートの現行ルールに沿い、高難度の技を組み込んで、それを全力で魅せているのだ。
■ショートプログラム(競技プログラム)を振り付けて 競技には出ていないのに、なぜ、羽生さんは「BOW AND ARROW」をショートプログラムを想定して振り付けたのか。
それは、「BOW AND ARROW」が2分56秒の楽曲であり、2分40〜50秒で演技を終えるというルールのあるショートプログラムの演技時間と近似だったためだ。
競技では、制限時間を1秒でも増減すると減点されてしまうため、2分56秒の「BOW AND ARROW」は、このままだと減点対象だ。そこで羽生さんはMVで、楽曲の音が鳴り始めてもしばらく動かず、4秒ほど待つことにした。
滑走時間に関しては、「スケーターが動き始めるか、滑走し始めた時から、プログラムの最後に完全に停止したときまで計測」(技術規程総則第502条から抜粋)というルールがある。そこで、動き出しから完全に停止するまでが2分50秒を超えないよう、序盤4秒は待ち、楽曲が終わる数秒前に動きを止めている。
■どんなプログラムを滑っているのか 完全に競技仕様のプログラム「BOW AND ARROW」とはいったいどんなプログラムなのか、順を追って見ていこう。
羽生さんがXで公開しているエレメンツ(7つの技術要素)は、こちら。以下ではこのエレメンツやその他ハイライトについて紹介していく。
■シットツイズル 音楽が始まって数秒後、中腰の体勢のままぐるぐると激しく回転しつつ進む技がある。「米津玄師×羽生結弦 - BOW AND ARROW対談」にて、羽生さんが「僕が代名詞として使っている振り」と言っていたもので、「シットツイズル」と呼ばれることもある技だ。
■「BOW AND ARROW」「メダリスト」こだわりの表現 難しいジャンプは体力のある序盤で跳んでおきたい、そして最長2分50秒の中で7つもの技術要素を見せなければならない。そんな思いから、通常は、ショートプログラムの1つ目のジャンプはスタートから20秒付近で跳ばれることが多い。2連覇した平昌オリンピックでも、スーパースラムを達成した2020年四大陸選手権でも、羽生さんはスタートから23秒くらいのところで最初のジャンプを跳んでいる。
それなのに、「BOW AND ARROW」の最初のジャンプ(4回転ルッツ)を、羽生さんが跳ぶのは、動き出しから45秒あたりのところだ。これは、アニメ『メダリスト』のオープニング映像で、狼嵜光がジャンプを跳ぶタイミングに合わせているからだという。とはいえ、ここで最初のジャンプを跳ぶということは、残り約2分で6つもの技術要素を見せなくてはならないということになる。それでも羽生さんは、そう選択した。
■プログラム後半での加点 後半の最後のジャンプは、ジャンプの基礎点が1.1倍になるというルールがある。つまり、3つ目を基礎点の高いジャンプコンビネーションにして、それを後半で跳べば、高得点につながるのだ。
よって、「BOW AND ARROW」このジャンプ構成は圧倒的に高得点が出せるものなのだ。そういうものを、羽生さんは見せている。
■ショートプログラム「BOW AND ARROW」 冒頭部分、白い息を吐きながら楽曲の始まりを待つ羽生さん。その足元、これから滑るはずの氷面には、すでに無数のトレース(滑った跡)が見える。
また、4回転ルッツを跳ぶために向かっていく氷の面を見ると、そこだけものすごく白い。氷が削られた跡だ。あの場所で繰り返し4回転ルッツを踏み切って着氷したということを示している。
映像の中で、私たちはさまざまなトレースを見ることができる。たった一人で、この撮影の数時間だけで、あれだけのトレースが残るほど、羽生さんは「BOW AND ARROW」を滑っていたのだ。
にもかかわらず、羽生さんは全力に全力を重ねた。ものすごいレベルの技を組み込み、数々の栄光を手にしてきた先の羽生結弦の姿はこれなのだと、全世界に未来永劫残してもいいと思えるレベルまで、何度もジャンプを跳びトレースを描き続けた。そうやって生まれたのが、奇跡のような最高傑作、ショートプログラム「BOW AND ARROW」なのだ。