
1964(昭和39)年、東京五輪の祭りが過ぎ去った後、日本を襲ったのが物価高と不況でした。物価が上がり、米価が上がり……、その手当こそ日本の莫大な借金の幕開けだったのです。(アーカイブマネジメント部 疋田 智)
【写真でみる】物価高当初はどことなく表情に余裕があります。なぜなら給料も上がっていたから…
五輪の祭りがあけて東京五輪は「日本の戦後復興を世界に見せる」という、国を挙げてのお祭りでした。
1964年は、先進国入り(OECD加盟)、海外渡航自由化などと日本が国際社会に返り咲いた年。東京五輪はその象徴ともいうべき「世紀の祭典」だったのです。
新幹線や首都高をはじめとするインフラの建設が行われ、日本中が五輪特需に沸きました。
その五輪が大成功のうちに幕を閉じ、その後に残ったものは……。
五輪が終わり、気の抜けたような日本を襲ったのは、まずは驚くような物価高でした。
ここにはポジティブな面とネガティブな面があります。
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オリンピック開催にともない、大量の資材・労働力が必要となり、建設需要が急増。このことが人件費の高騰(給料が高くなる)を呼び、消費需要が拡大した、というわけです。
今の言葉でいうと、デマンドプルのインフレ、つまり「良いインフレ」ですね。その結果としての物価高でした。
この当時の経済成長率は今となっては驚くべきことに10%前後もあったのです。
ネガティブな物価高(忍びよるスタグフレーション)一方、ネガティブな捉え方もありました。
五輪が終わってしまったのですから、当然、建設需要は急速に冷え込みます。中小企業の倒産件数は急増し、失業者がいやおうなく増加しました。これを昭和40年不況といいます。これは五輪明けの必然という見方もされましたが、物価だけは元のまま上がり続けたわけです。絵に描いたようなスタグフレーションでした。
池田勇人内閣からバトンタッチしたばかりの佐藤栄作内閣の、最初の大問題がこの物価高対策だったわけです。
米価を何とかして(両面)最も問題の根が深かったのが、米価でした。
物価高に応じてコメの値段も上がりましたが、当時は食糧管理法(1995年に廃止)で厳しくコメの値段が制限されていたため、農家や米店は物価(必要経費)と米価の間に挟まれて「これでは農家が食えない」とデモに乗り出しました。
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「コメが高い(消費者にとって)」「他の物価はもっと高い」「コメが安い(農家にとって)」「五輪後の不況が深刻だ」……、五輪後、つまり祭りの後は八方塞がりだったわけです。
ついに「赤字国債」に踏み切るこうした状況の中、佐藤内閣は戦後初の「赤字国債の発行」に踏み切ります。政府の事業を増やし、雇用を守り、景気を浮揚させようという政策でした。これに加えて、日本の産業はインフラ建設から輸出への移行に成功し、高度成長のトレンドに戻ることができました。
赤字国債はいわば「特効薬」となったわけです。しかしながら、同時に「止めたくても止められない」麻薬のような薬でもありました。
現在日本政府が抱える1100兆円超の債務。
そのスタートは、半世紀前、五輪後の不況を乗り越えるためのものだったのです。