日本ラグビーの「鉄人」はこうして生まれた 大野均が18歳の遅咲きスタートから最多98キャップを得るまで

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2025年04月02日 07:10  webスポルティーバ

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語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第4回】大野均
(清陵情報高→日本大→東芝)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 連載第4回は2001年から20年間、一貫して東芝(現・ブレイブルーパス東京)でプレーし続けた「鉄人」大野均。日本代表の主力として3度のワールドカップ出場を果たし、現在もテストマッチ98キャップの最多記録を保持する「均ちゃん」だ。

   ※   ※   ※   ※   ※

「灰になっても、まだ燃える」

 大野均はこの言葉を胸に、42歳まで体を張り続けた「リアルLO(黙々と体を張ってタックルを繰り出す選手の愛称)」だ。日本代表になって間もない頃、韓中合作の映画『MUSA-武士-』のキャッチコピーを偶然、目にした時にピンと来たという。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

 身長192cm、体重105kgの恵まれた体躯に、彫りの深い顔立ち──。さながら雰囲気は、戦国を生きる野武士のようだ。

「(超多忙だった)日本代表のヨーロッパ遠征(2004年)のあと、周囲から『疲れているのでは?』と心配されました。でも人間、意外に丈夫でしたね。まだ灰になっていなかった(笑)」

 日本を代表するFWとして第一線でプレーし続けた大野のキャリアは、異彩を放っている。

「ラグビーはパスが下手でも、キックができなくても、得意なもので勝負できるポジションが必ずある。自分は大学に入って、LOというポジションだったから、ここまで長くプレーできた」

 そう話すとおり、地元・福島にある日本大学理工学部に進学した大野は、その後のキャリアを考えると不思議に思うほど、18歳という遅い年齢からラグビーを始めた。

【エリートに囲まれて考えたこと】

 福島県郡山市出身。兼業で酪農を営む家に生まれた。小学校4年から選んだスポーツは野球で、進学した清陵情報高でも新聞配達をしながら野球部に所属していた。

 高校では控え選手だったが、大学でも野球を続けようと考えていた。しかし、友だちに誘われたことをきっかけに、軽い気持ちでラグビー部の門を叩いた。練習後、みんなでご飯を食べたり、先輩がお酒を飲んで楽しむ一体感が気に入って、すぐに楕円球の虜(とりこ)となった。

 運命を変えたのは、地元企業への就職を考えていた大学4年生の時、福島県選抜に呼ばれたことだった。そこでの活躍が関係者の目に止まり、東芝府中(当時)の練習に参加する。そして、日本代表の名HOで東芝の監督も務めた薫田真広氏に見初められて、異例とも言える東北リーグ2部の大学からの入団が決まった。

 東芝のチームメイトは、日本のラグビー界を代表するエリートばかり。

「自分が一番下手なのは、周りから見ても明らかでした。ここで生き残るにはどうしたらいいかと考えた結果、練習から100パーセントを出さないとついていけない。

 パスやキックでは武器にならない自分がチームに貢献できるのは、努力とワークレート(仕事量)しかない。倒れて、また起きて、走って......やることはシンプル。ただ、それを突き詰めていたら、東芝でも、日本代表でも、監督が必要としてくれた」

 社会人2年目となった東日本リーグのサントリー戦でデビューを飾ると、2003年に始まったトップリーグからはレギュラーの座を獲得。黙々と仕事をこなすその存在感は、試合を重ねるごとに高まっていった。

 やることはシンプル──。ただ、それを続けた結果、東芝での公式戦出場は驚異の240試合以上。数々のタイトル奪取に寄与しただけでなく、トップリーグ・ベスト15に9度も選ばれ、2009年度はリーグMVPにも輝いた。同時に2016年からはサンウルブズでも2年間プレーし、スーパーラグビーの舞台にも立っている。

【自然と涙があふれ出ていた】

「日本代表は、もうひとつのチーム」

 大野が愛するジャパンに選ばれたのは、社会人4年目を迎えた2004年5月のこと。そこから3度のワールドカップを含めて12年間、中心選手として桜のジャージーに袖を通し続けた。37歳で臨んだ2015年10月のワールドカップでは、SH村田亙が保持していた最年長キャップ記録も抜いた。

 日本代表のキャップを獲得した98試合のなかで、大野が特に記憶として刻まれている試合はふたつあるという。ひとつ目は、2013年6月にウェールズ代表に23-8で勝利した試合だ。

 大野にとって初めての欧州遠征(2004年11月)で、日本はウェールズに0-98で大敗を喫す。さらに3年後の2007年ワールドカップでも、18-72で再び悔しさを味わった。

 ウェールズとの初対戦(1973年)から数えて40年。回数にして13回目の対戦となった2013年6月15日、日本は初めて「ティア1」と呼ばれる世界的強豪から勝利を奪う。これは大野だけでなく、日本代表にとっても"マイルストーン"となる歴史的白星だった。

「エディー(・ジョーンズHC)さんのラグビーをやれば、世界で勝てると実感できた」

 試合終了まで残り5分となって勝ちを確信した時は、大野の目からは自然と涙があふれ出ていた。

 記憶に残るふたつ目の試合は、あの2015年ワールドカップで南アフリカを倒した「ブライトンの奇跡」だ。

 その奇跡が生まれた3年前の2012年、エディージャパンが発足。立ち上げ当初、ジョーンズHCは「大野をワールドカップに連れていく方針ではなかった」という。

 理由は、2015年には37歳となっている年齢だ。

 しかし大野は、ベテランとしての意地を見せる。

「年齢でパフォーマンスが落ちたと思われたくない。期待を裏切りたくない気持ちで、行けるところまで食らいつこうと思いました」

【37歳でも絶対にあきらめなかった】

 持ち味のスピードも、たしかに全盛期よりは落ちた。控えでの出場も多くなってきた。だが、大野はあきらめなかった。

「日本代表から外されていく選手を、たくさん見てきました。一生懸命やっているつもりでも、ほんのちょっとしたところで運命が分かれる。日本代表とはそういう場所。自分もいつまでもいられるところではないとずっと感じていました」

 追い込まれた状況だからこそ、愚直に、シンプルに、日々のプレーで表現した。朝5時から始まるジョーンズHCのハードワークにも「練習から100パーセント」で臨み、「毎セッション、死ぬ思いでやった」という。

 その「リアルLO」の姿を示し続けた結果、大野はチーム最年長の37歳でワールドカップメンバーに選出された。

 そして迎えた、2015年9月19日の南アフリカ戦。大野は「5番」を背負ってブライトンのグラウンドに立ち、「スポーツ史上最大の番狂わせ」を演じたのである。

「本気の南アフリカに勝てたのは、ワールドカップの初勝利(1991年のジンバブエ戦)よりもうれしかった!」

 大野は試合後、弾けるような笑顔で喜びを語った。

 だが、この試合が彼にとって最後のピークだったかもしれない。その後はひざのケガにも苦しめられ、通算100キャップを目前にして日本代表から離脱。そして2020年、惜しまれつつもブーツを脱いだ。

「大学からラグビーを始めて、東芝に入って、日本代表になれたことが奇跡みたいなものです。日本大学、東芝、サンウルブズ、日本代表......所属したどのチームも魅力的で、このチームで勝ちたいと思わせてくれた集団だった。そのチームのために、自分ができることを全部投げだそうという思いでやってきた」

 ユニフォームを脱いだ大野は現在、「大好き」と語るラグビーの指導・普及に精を出している。愚直な「鉄人」のラグビー人生を思い出すたび、次なる「リアルLO」の登場を期待せずにはいられない。

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