
3月31日からスタートしたNHK連続テレビ小説『あんぱん』。国民的な人気アニメ、『アンパンマン』を生み出した、やなせたかしさんの妻・暢さんがモデルのドラマだ。やなせさんは2013年に亡くなったが、その前年、長時間に及ぶ本誌の取材を受けていた。波瀾万丈の人生、そして妻への愛―。ドラマでは今後どのように描かれるのだろうか?当時のインタビュー内容を抜粋、改編してお届けする。
アンパンマンの誕生に繋がった体験とは
戦後80年を迎える2025年。112作目の連続テレビ小説『あんぱん』は、“アンパンマン”を生み出したやなせたかしさんと暢さん、激動の時代を乗り越えたふたりをモデルとする愛と勇気の物語だという。やなせさんは、どのような人物だったのか─。
やなせたかしさん(本名・柳瀬嵩)が生まれたのは1919年。新聞記者の父が特派員として中国に単身赴任し、母はやなせさんと2歳下の弟を連れ、郷里の高知県に帰った。その3か月後に関東大震災が起きた。
5歳のとき、父が32歳の若さで病死。間もなく母は再婚して家を出てしまい、やなせさんと弟は、医者をしていた父の兄夫婦に育てられた。
「俺はすごく恥ずかしがり屋でね。子どものころは人前に出るのは、イヤだったんだよね。『人見知りの歌』というのを作ったくらい。それがどうしてこんなずうずうしい厚顔無恥の人間になっちゃったんだろう。アッハハハ」
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一人で絵を描いたり、詩を書いたりするのが好きだったやなせさんは、デザインを学ぶために18歳で上京。東京高等工芸学校図案科(現・千葉大工学部デザイン学科)に入学した。
卒業後は製薬会社の宣伝部に入社したが、すぐに召集。幸い、戦闘には巻き込まれず、中国大陸を1000キロ行進して上海近郊の泗渓鎮で終戦を迎えた。
戦争で何よりつらかったのは、「お腹が減るひもじさ」だった。そして、「正義というものは、ある日突然、逆転するものだ」と痛感した。
このときの体験が、長い年月を経て、アンパンマンの誕生につながる─。
終戦の翌1946年に復員して、弟の戦死を知った。高知新聞社に入り、『月刊コウチ』編集部に配属。女性記者の暢さんに出会う。
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「彼女は女学生のとき“韋駄天おのぶ”の異名を取った短距離のランナーで、高知では“ハチキン”といわれる熱血で男っぽい性格。僕とは正反対の彼女を好きになっていました」
代議士の秘書になるため東京に行った暢さんを追いかけ、やなせさんも上京。暢さんの部屋に転がり込み結婚生活がスタートした。
28歳のとき三越の宣伝部に入社。とにかく仕事が早いやなせさんは、余った時間で漫画の投稿をしたり、デザイナーとして外部の仕事をしたり。原稿料が月給の3倍になり、34歳で三越を辞めた。
フリーになった後は漫画家と名乗っていたが、舞い込んだのは舞台の司会や構成、ラジオの脚本、テレビ出演─。
なぜか、経験のない仕事をよく頼まれたのだという。人気歌手だった宮城まり子さんは、取材で2度会っただけのやなせさんに、リサイタルの構成を頼んできた。
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絶望から生まれた「名曲」
まだ20代だった永六輔さんが訪ねてきて、「僕の作・演出でミュージカル『見上げてごらん夜の星を』をやります。その舞台装置をお願いしたい」と切り出した。
やなせさん自身もその理由は「わからない」と首をひねるが、それだけ多才で、人をひきつける魅力があったのだろう。
華やかな経歴に思えるが、意外なことに、内心は失意と絶望の連続だった。当時のことを聞いても、
「もう、あんまり昔だから忘れちゃったよ」
と冗談めかすが、著書『絶望の隣は希望です!』には、こんなふうに記している。
《ずーっと何年ものあいだ、「自分は何をやっても中途半端で二流だ」と思い続けていました。漫画家なのに代表作がないことが致命的なコンプレックスとなって、50歳を過ぎても、まだスタート地点をうろうろしているような気持ちでした》
夜中に取り残されたような寂しさに襲われ、何げなく懐中電灯を手に当ててみた。血の色が赤く透けて見える、これほど絶望していても、変わらずに真っ赤な血は熱く流れている。ふと頭に浮かんできたのが『手のひらを太陽に』のフレーズだ。
作曲家のいずみたくさんに曲を依頼。翌1962年にNHKの『みんなのうた』に採用されると全国に広まり、歌い継がれている。
妻の暢さんを乳がんで亡くし、天涯孤独になった。日常生活のすべてを妻に頼っていたやなせさんは、夜も眠れなくなり、どんどん体重が落ちた─。
「カミさんが亡くなって、俺ももうボツボツ死ぬなぁと思ってね。死ぬ準備をしたんです。うちにあるいい本やカミさんの残したお金を寄付して。ところが、アンパンマンに助けられたというか、また、帰ってきたんだよ」
やなせさんは騒ぎになるのを嫌い、妻の死を3か月間、公表しなかった。交流の多かった人間ですら、しばらく知らなかったくらいだ。
“一寸先は光”だと思ってやっていけば、なんとかなる
そのため、変わらずに仕事の依頼は次々入る。忙しく働くうちに、元気を取り戻したのだ。
「寂しくないですか?」
と聞くと、即答した。
「さみしくはないよ。これだけいるんだもん」そう言って、後ろの棚にぎっしり並んだキャラクターたちを指さした。アンパンマンに登場したキャラクターの多さは際立っている。さすがに全部は覚えていないが、「みんな子どもだね。みんな可愛いよ」
と、心底うれしそうだ。
93歳で現役。長寿の秘訣を尋ねると、「そんなこと知らねぇ」と一蹴した。
「とにかく、朝起きたら今日を生きる。翌日になったら、また1日。1日1日重ねているうちに、えー、こんなにたったのかと。まあ、イヤなことはなるべく考えない。人をうらんだり、ケンカしたりはしない。損だからね」
毎朝、6時に起床して、1時間ほど自作の歌を歌いながら体操。朝食には野菜スープを欠かさず、朝食の後は40分ほど睡眠。起きたら仕事し、昼食の後も昼寝。夕方にかけて取材や来客の相手をして、夜は12時に就寝─。
「初めは長編を書くつもりだったけど、僕はほら、もう93なんでね。途中で死んだら申し訳ないと思って(笑)。もう戒名も作ったし、墓の設計も自分でして完成したし。いつ死んでもいいんだよ」
最後に「みんなに元気づけるメッセージをお願いします」と頼むと、大きな声で叫んだ。
「俺を元気づけてくれぇー(笑)」
そして、少し考えて、続けた。
「まあねぇ、“一寸先は光”だと思ってやっていけば、なんとかなるよ。なんとかなるんだよ。俺も何度か絶望しかけたけど、しばらくすると、好転することがあったから。今度はついに身体がダメだけどね。だいたいわかるんだ」
やなせさんが生き抜いた戦後とは、そして「アンパンマン」に込めた思いとは。どこまでを掘り下げて描かれるのか、今後の朝ドラから目が離せない─。
取材・文/萩原絹代 ※2012年7月14日号『週刊女性』掲載から抜粋、一部改編
やなせ・たかし 1919年生まれ、高知県出身。三越宣伝部を経て独立、漫画家、絵本作家、編集者、詩人などとなり、『手のひらを太陽に』など多くの作品を生む。'73年よりフレーベル館の月刊絵本に『あんぱんまん』掲載開始。'88年にテレビアニメ『それいけ!アンパンマン』放送開始、国⺠的⼈気を博する。2013年94歳で永眠