
語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第5回】箕内拓郎
(八幡高→関東学院大→オックスフォード大→NEC→NTTドコモ)
ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。
第5回は「ミスター・キャプテン」No.8箕内(みうち)拓郎を取り上げる。身長188cm、体重107kgという体躯ながらボールキャリーはしなやかで、タックル、スティール(ジャッカル)も強く、生粋のキャプテンシーを持ったレジェンドだった。
※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)
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桜のジャージーを着ると、いつも背中が大きく見えた──。
箕内拓郎と言えば、真っ先に思い出す試合がある。それは2003年ワールドカップ・オーストラリア大会のスコットランド代表戦だ。本人も「最も思い出に残っている試合」に挙げる。
「キャプテンは15人のなかで、ひとりしかできない。ワールドカップでそれを務められるのは、とても光栄なこと。周りから信頼されるために、どんな相手が来てもタックルにいこうと、体を張ることを心がけていた」
このスコットランド戦でも、箕内は7番を背負ってキャプテンとして出場。日本は献身的なタックルとスピードに乗ったアタックで挑み、後半9分には11-15と4点差まで迫った。しかし、その後は3トライを献上することになり、最終的には11-32でホイッスルを聞く。
ただ、その勇ましい戦いぶりは、ラグビー大国オーストラリアの地元ファンの心を打った。海外メディアなどは日本代表を「ブレイブ・ブロッサムズ(勇敢な桜の戦士たち)」とたたえ、それが現在のラグビー日本代表の愛称になった。
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その勇敢なチームを束ねていたのが、当時27歳の箕内だ。ただ彼は、小さい頃からスター街道を歩んできた選手ではなかった。
【リーグ7位から優勝のミラクル】
競技を始めたのは小学校1年の頃。ひとつ上の兄・佳之氏の影響で福岡・北九州の鞘ヶ谷ラグビースクールに入った。佐賀工業、日体大、NTTドコモ(現レッドハリケーンズ大阪)でプレーした佳之氏は、高校時代から名の知られた選手。箕内は「佳之の弟」という存在だった。
箕内はラグビー強豪校ではない、県内有数の進学校・八幡高へ。そのため、花園とはまったく無縁の生活を送り、入学当初はBKでプレーし、状況によってSOとして試合に出場したこともあったという。
ただその後、1年生の終わりからFWに転向したことによって、その才能が開花する。
高校3年生の時には、国体に福岡県代表の選手に選出。そこでのプレーが、関東学院大学の指揮官だった春口廣監督の目に留まる。
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箕内は大学1年からレギュラーとなり、3年生では関東リーグ戦の優勝に貢献。そして4年生の時にはキャプテンとして明治大を30-17で下し、チームに初めて大学選手権優勝のタイトルをもたらした。
さらに大学卒業後には、イギリスのオックスフォード大学に留学。ラグビーの聖地トゥイッケナムで行なわれたケンブリッジ大学との定期戦「ザ・バーシティマッチ」にも出場を果たし、日本人選手として史上ふたり目となる文武両道の証『ブルー』の称号も与えられた。
そして1999年、箕内は「日本一にチャレンジしたい」という理由で、当時まだ無冠だったNEC(現NECグリーンロケッツ東葛)に入部を決める。当然のごとく1年目からレギュラーを獲得し、2000年には3カ月間ほどイタリアのパエゼでもプレーした。
箕内のキャプテンシーは、どのチームでも必要とされた。NECでも2001年からキャプテンを務め、2003年の日本選手権ではサントリーを破って初優勝。東日本社会人リーグ7位から優勝まで駆け上がったことで「ミラクルセブン」と呼ばれた。その後もNECは、日本選手権やマイクロソフト杯など特にトーナメントで無類の強さを発揮し、箕内のチームは黄金期を迎えた。
【ドクターストップで引退を決断】
もちろん日本代表でも、その存在は欠かせぬものとなった。向井昭吾監督(当時)は2002年、まったく代表の経験のなかった箕内をキャプテンに指名。初キャップとなったロシア戦を、いきなりキャプテンとして出場した。
海外経験も豊富で、外国人選手に臆することのない箕内は、ワールドカップという大舞台でもキャプテンとして適任だった。2003年のオーストラリア大会に続いて2007年のフランス大会でも、ジョン・カーワンHCは箕内に「スキッパー(舵取り役)」を託した。2大会連続で同じ選手がキャプテンを務めるのは日本初の出来事だ。
「僕が一番(カーワンHCが)話をしやすかったのでは(笑)」
箕内は謙遜する。カーワンHC は現役時代に箕内とNECで一緒にプレーしている。いつも体を張っていた箕内をキャプテンに指名したのは、至極当然な流れだろう。
2007年大会は箕内いわく「手応えがあった」ものの、2003年大会に続いて白星を挙げることはできなかった。それを境に、箕内は代表メンバーから姿を消し、2010年には「新たなチャレンジがしたい」と当時2部だったNTTドコモに移籍。トップリーグ昇格に貢献した。
そして2015年2月、箕内は40歳を前に惜しまれつつも引退を表明する。理由は練習試合で目を負傷し、失明の恐れがあるためにドクターストップとなったからだ。
「一日一日、必死にやってきたので、意外とあっさりと引退を決断できました。家族をはじめ、すばらしいチームメイトとスタッフ、サポーターの方々に囲まれて、本当に幸せな現役生活を送ることができました」
ジャージーを脱ぐ時、箕内は笑顔で振り返った。引退後は日野レッドドルフィンズの指揮官を経て、現在はレッドハリケーンズ大阪のアシスタントコーチを務めている。
「ノーペイン、ノーゲイン(痛みなくして、前進なし)」
その言葉を信条に33年間、ラグビー生活を走り続けた男に、後悔の念はなかった。