長嶋一茂の入団発表会見。左より関根潤三監督、長嶋一茂、相馬和夫球団社長 ©産経新聞 長嶋一茂(以下、一茂)は池山隆寛やのちに入団する古田敦也と同学年。ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄の息子ということで話題性は十分。新たな刺激を加えるという意味ではチームに大きな影響を与えた。
荒木大輔の入団の時もすごかったが、一茂フィーバーもすごかった。一茂の場合は女性や子どものファンというより、マスコミの熱狂がすごかった。
一茂が2年目の時、彼と私はアメリカ・ユマ春季キャンプで同部屋となる。これには一茂の指導係の役目もあった。しかし今振り返っても、彼との同部屋生活は驚きの連続だった。
※本記事は、小川淳司著『ヤクルトスワローズ 勝てる必然 負ける理由』より抜粋したものです。
◆長嶋一茂という前代未聞
一茂は2年目なのにお坊ちゃん丸出し。キャンプの1日は毎朝、まず体操をやって、朝食をとって、準備して球場へ行くというスケジュールなのに、まずあいつは朝、起きない。「小川さん、僕、いいです。行かないですから、小川さん、一人で行ってください」って。「おまえね、そういうわけにいかないんだよ。俺の責任になるんだから」って蹴っ飛ばしながら連れて行って、体操させる。ほぼ毎日それの繰り返し。
普通、後輩は先輩のために朝コーヒーを入れるのが当時の常識だったが、あいつは寝ている。
部屋には冷蔵庫がなく発泡スチロールの箱に毎日氷を入れて、買ってきたビールとか缶ジュースとかを全部入れて冷やしておくわけだが、それも一切やらない。教えても一切やらないから、しょうがない。私が買い出しに行って、毎日練習から帰って来たら氷を入れ替えて飲み物を入れていた。
ユマのキャンプには成田空港でチョーヤの梅酒を1本だけ買っていき、それを夜寝る前に、1杯だけゆっくりと飲むのが、私のハードな海外キャンプの中のちょっとした楽しみ。あるとき、練習から帰って来たらチョーヤの梅酒がない。なくなっている。
一茂に「俺の梅酒、知らない?」って言ったら、「小川さん、すみません。全部飲んじゃいました」って。「おまえよ、あと何日キャンプ残ってるんだよ。俺、いつも寝る前に飲んでるのに」って言ったら、「いや大丈夫、大丈夫。ロスから取り寄せますから」って、次の日に10本来た。なんだ、それって。
◆一茂失踪事件
一茂は突然いなくなるということもあった。キャンプの夜、あいつが帰って来ない。どこ行ったのかわからない。携帯電話もない時代、調べようもないし、人の部屋にも行っていない。結局、朝まで帰って来なかった。「おまえ、どこ行ってたんだよ」と怒ると、「いや、友達の所に行ってました」ってあっけらかん。ユマの街はそんなに治安はよくないよ。「キャンプで外泊したやつなんて見たことねえぞ」とほとほとあきれた。
その年はユマのあと、ハワイでもキャンプを行った。
オアフでもまたあいつは夜帰って来ない。オアフにも知り合いがいっぱいいるのだろうが、「おまえ、外泊するなら言えよ。こっちは心配してて寝れてないんだぞ。俺の責任があるんだから」って。そういうのもお構いなしなんだ。あれは本当に困った。
でも、彼の中ではそれが本当に普通のことらしい。怒っても、あいつの考え方がそう大きくは変わらないのだろうなと思い、ガミガミ言うのをやめた。鬼の野村克也監督が就任するのはその翌年。野村さんが来るまでは自由奔放な一茂であった。
◆時代を先取りしていた男
そういえば、彼は海外へキャンプに行くのに現金をほとんど持っていなかった。アメリカから日本への国際電話の料金は1週間に1回、自分たちで清算するルールがあり、「一茂、俺、ちょっとフロントで清算してくるぞ。おまえの分は払えないから、俺は自分のをやるわ」って言ったら、「いや、いいですよ。小川さん、僕、全部払いますから」って。「おまえ、現金持ってねえじゃねえかよ」って言うと、彼はカードで支払っていた。
当時、カードで支払う習慣のある選手なんかいない。海外慣れした一茂はカードを使いこなしていた。キャッシュレスを最先端でいっていた。
◆天然という厄介
今、彼はテレビタレントとして、大活躍している。元プロ野球選手としてはレアなケースだが、私はそのことにまったく違和感を抱いていない。自由奔放すぎる男ではあったが、彼には頭の良さがあって、自分の言いたいことを言っているだけに見えて、テレビタレントとして彼なりの努力というのは間違いなくあるとは思う。
選手時代、チームメートとして、頭にきたりあきれたことは多々あったけれど、正直キラリと光るものが一茂にはあった。それが何かといわれると難しいのだが、確実にそれは感じていた。生意気なんだけれど、彼にはなぜか嫌味を感じないんだ。だから困っちゃう。
人としての嫌らしさがそこに入ってくると、なんだこの野郎と本気で頭にくるのだが、彼の振る舞いには悪意や作為的なものがまるでない。あいつは、頭がいいくせに、天然なんだ。
数々の無礼も、彼が育ってきた環境の中では普通なことだった。朝起きなくても、後輩としての役割を果たさなくても、生意気なことを言っても、夜帰って来なくても。くやしいが、なんか憎めない。まったく得な性格だよ。野球界にはいろんなタイプの人間がいるが、一茂はちょっと珍しい存在だった。
◆「何が爺やだ、コノヤロー」
こんなこともあった。遠征に出発する直前、神宮で練習をし、風呂に入って、さあ遠征へというときに一茂が鏡の前で頭を乾かしながら、「あ、革靴忘れちゃった。どうしようかな。いいや、爺やに持ってきてもらおうっと」と言うわけ、私の横で。「てめえ、何が爺やだ、コノヤロー」って。その爺やが彼の運転手なんだ。でも、私が激しい言葉でののしっても、さらりと受け止めるような雰囲気を持っているやつだった。
テレビ番組の中で、今でもそうやって、自分が言いたいことを言いながらも周りからいじられるというのは、彼の良さなんだと思う。
そんな一茂を溺愛していたのが関根監督。関根さんからはこんなことを言われた。
「キャンプはしんどくて一茂がノイローゼになりそうだから、おまえ、ちゃんと見てやれよ」って。そんなことは絶対にないからと思いながら、「はい、わかりました」と答え、心の中では「どこがノイローゼだ、ノイローゼなんかあいつには全然あり得ないから。俺は子守かよ」とつぶやいていた。関根さんはもう孫を愛するおじいちゃん状態だった。
◆類まれなる身体能力
それにしても野球選手として、一茂はもったいなかった。本当に体のパワーは驚異的で、首がやたら太くて、肩も強い。フリーバッティングの打球もすごかった。あいつがもうちょっと野球に打ち込む姿勢や考え方を変えていたら、すごい選手になったんじゃないかなと思っている。落合さんも「おまえ、親父を超える可能性があったんだよ」と言っていたらしい。
しかし、一茂はいかんせん、あの性格で、1つのことをコツコツやることが苦手。集中力も長続きせず、あれじゃちょっと無理だった。
神宮でサードのノックを受けていて、思うようにいかないと、あいつは球を球場の外まで投げてしまうんだ。はっきりいって、今風にいえば、あいつはちょっとヤバイやつだよ。そんなことをしてボールが球場の外にある車や人に当たったらどうするんだよって思うけど、そんなのを平気でやってしまう。
返す返すも彼は惜しかった。野球で成績は残さなかったけど、テレビの世界で爪痕を残し、それはそれで人生トータルなら成功者。そういうふうに考えれば、彼の人生というのは素晴らしいなと。
<TEXT/小川淳司>
【小川淳司】
1957年、千葉県習志野市生まれ。東京ヤクルトスワローズゼネラルマネージャー。1975年、千葉・習志野高校3年時、夏の甲子園にエースとして出場し、優勝。1982年、ドラフト4位でヤクルトへ入団。以後、1991年までプレーしたのち、1992年に日本ハムに移籍し、同年で現役を引退。その後、ヤクルトのスカウト、2軍コーチ、2軍監督、1軍ヘッドコーチ、1軍監督、シニアディレクターを歴任。2018年から2019年まで2度目の1軍監督を経験したあと、2020年から現職。