大統領になった「リベリアの怪人」ジョージ・ウェア ベンゲルやカペッロが寵愛したアフリカ人初のバロンドーラー

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2025年04月11日 07:00  webスポルティーバ

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世界に魔法をかけたフットボール・ヒーローズ
【第8回】ジョージ・ウェア(リベリア)

 サッカーシーンには突如として、たったひとつのプレーでファンの心を鷲掴みにする選手が現れる。選ばれし者にしかできない「魔法をかけた」瞬間だ。世界を魅了した古今東西のフットボール・ヒーローたちを、『ワールドサッカーダイジェスト』初代編集長の粕谷秀樹氏が紹介する。

 第8回のヒーローは「リベリアの怪人」ジョージ・ウェアにスポットを当ててみたい。1990年代に圧倒的なオーラでゴール前に君臨し、欧州屈指のディフェンダーたちを黙らせてきた稀代のストライカーは、引退後、まったく異種のセカンドキャリアを歩んでいった──。

   ※   ※   ※   ※   ※

 瞬く間に加速して、相手DFを無力化する。驚異的なジャンプ力で楽々と競り勝ち、強烈なヘディングをゴールライン上に叩きつける。

「リベリアの怪人」ジョージ・ウェアである。

 すさまじい運動能力だった。アフリカの大地で育ったアスリートはみな規格外で常人離れしているが、ウェアは規格の大外の、さらにその外側で異彩を放っていた。ともにACミランでプレーしたパオロ・マルディーニはこう表現する。

「ジョージと違うクラブで本当によかった。どうやれば止められるのか、練習でもこっぴどくやられてばかりだった」

 1990年代から20年近く世界のトップDFとして鳴らした男の証言は、説得力にあふれている。練習とはいえマルディーニが止められないのだから、ほかのDFが苦戦したのは当然だ。

 ウェアの才能が開花したのは、アーセン・ベンゲル監督との出会いである。

 1988年、フランスのモナコを率いていたフランス人の名伯楽は、リベリア生まれのストライカーに驚愕した。並外れた運動能力に舌を巻き、少しでも多くのチャンスを与えようとしていた。

 その年のモナコはマーク・ヘイトリーが得点源だった。当時イングランド代表だったストロングヘッダーを外し、未知数のウェアを起用するのは難しい。しかし、ヘイトリーが負傷。ベンゲル監督に迷いはなかった。

【ファン・バステンの穴を埋める】

 いきなり活躍できるはずがない。周囲との連係が整わず、メディアやサポーターの圧もある。移民の国フランスでも、まだアフリカ人が活躍していなかった時代である。それでもベンゲル監督は、辛抱強くウェアを見守った。

「誰よりも強い向上心を持っていた。しかも謙虚だったな。フットボールに対する姿勢も申し分なかった。それにしても、ジョージの急成長には目を見張るものがあった」

 ベンゲル監督の述懐である。この年のモナコはフランスリーグの覇権こそマルセイユに譲ったものの、ウェアは23試合・14得点。ヘイトリー欠場の穴を補って余りある大活躍だった。

 モナコでの4年間はリーグ戦103試合・47得点、1992−93シーズンから3年間プレーしたパリ・サンジェルマンでは96試合・32得点。1994‐95シーズンのチャンピオンズリーグでは7ゴールを奪って得点王に輝き、ベスト4進出に尽力。ミランに決勝進出を阻まれたものの、バイエルンとバルセロナを撃破した。

 翌シーズン、ウェアは満を持してセリエAに挑戦する。

 当時は「世界最高峰」の名を欲しいままにしていたリーグで、世界最強とも言われたミランが新しい所属先だ。1990年代中期のミランは満身創痍のマルコ・ファン・バステンに代わるストライカーを求めており、「ウェアでは荷が重い」との指摘も一部にはあった。

 多様性の時代にはまだ遠く、目を疑いたくなるほど差別的なバナーが掲げられたり、耳をふさぎたくなるほど品性下劣なヤジが飛び交っていたりしていたことも、不安材料のひとつに挙げられていた。

 だが、ウェアは"ほとんど"意に介さず、黙々とフットボールに集中した。パドヴァとの開幕戦で1得点1アシスト。上々の滑り出しである。ファン・バステンに比肩する決定力こそなかったとはいえ、相手ボールになった際のリアクションはすばらしく、戦略・戦術に細かいファビオ・カペッロ監督(当時)も高く評価していた。

「中盤と最終ラインの負担をジョージが軽減している」

【人種差別発言にキレて頭突き】

 パリ・サンジェルマンにおける奮闘とミランでの好パフォーマンスにより、ウェアは1995年のバロンドールとFIFA最優秀選手の二冠に輝く。アフリカ人初の快挙だ。

 続く1996−97シーズンも、開幕節のエラス・ヴェローナ戦で自陣ペナルティボックス付近から80メートル近いドリブルシュートを決めている。相手ボールを奪った瞬間に加速。センターサークルあたりでふたりのDFをターンで抜き去り、もうひとりのDFもスピードで圧倒。最後は力強く右足を振り抜き、30歳ながらウェア健在を印象づけた。しかし......。

 非人道的な言動を無視し、フェアプレーに徹してきた男がキレた。

 プロキャリアのなかで退場はもちろん、出場停止すらなかった紳士が、衝撃のドリブル弾を披露した直後に行なわれたチャンピオンズリーグのポルト戦。対戦したDFジョルジュ・コスタに頭突きを食らわせ、相手の鼻骨を叩き折ったのだ。執拗なまでの人種差別、侮辱的発言に我慢ならなかったのだろう。UEFAはウェアに6試合の出場停止処分を科した。

 ウェアはミランに2回のスクデットをもたらしたものの、1998年に監督となったアルベルト・ザッケローニとそりが合わず退団。その後、チェルシー、マンチェスター・シティ、マルセイユではひざの痛みも災いし、いずれも残念な結果に終わっている。2002-03シーズンにUAEのアル・ジャジーラで引退した。

 しかし、ウェアが築いた第二の人生には、世界中が驚かされた。

 第25代リベリア大統領──。

 かねてから祖国の内戦、貧困、劣悪な教育環境、絶望的な雇用を憂えていたウェアは、上院議員を経て、2017年の大統領選挙で当選した。しかも、2度目の出馬で、だ。

 初出馬の2005年は知名度ばかりが先行し、政治家としての手腕が疑問視された。なおかつ、高等教育を受けていないことも敗因とされた。

【2023年の大統領選挙は敗れるも...】

 それでも、ウェアはめげなかった。

 アメリカの大学でビジネスマネジメントの学位を取得。最終的には修士(大学院)までに達した。そして2度目の出馬となった2017年の大統領選挙では雇用創出と経済発展を公約に掲げ、見事に当選している。決選投票での得票率は60%以上を記録した。

 ウェアが大統領に就任するまで、リベリアではただの一度も民主的な選挙は存在しなかったという。贈収賄は日常茶飯事で、物騒な出来事もあとを絶たず、ウェアに言わせると「アメリカから独立したあとの170年間、何も変わってない」そうだ。足を踏み入れるには勇気がいる。

「小さなころはポップコーンを売りながら、いつかフットボールの世界で一人前になるという野心を決して捨てなかった。政治でも、すべて同じじゃないかな。野心を捨てたり、夢をあきらめたりすれば、その時点で終わりだ。常に前を向き、チャレンジするのが人生だと、私は思う」

 2023年の大統領選挙では、決戦投票の末に敗北したウェアだが、まだまだ返り咲きの意欲を捨てていないような発言だ。下野したほうが、世の中をフラットに見られるかもしれない。

 フットボールの名選手から大統領へ、そして次なる目標は......。ウェアのチャレンジは、まだまだ続く。

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