【長嶋茂雄は何がすごかったのか?】V9巨人で三遊間を組んだ名ショート・黒江透修が語る"ミスタープロ野球"<前編>

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2025年04月12日 11:20  週プレNEWS

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豪快なバッティングフォームの長嶋茂雄(写真:時事)


昭和33(1958)年に読売ジャイアンツに入団して以降、日本中を熱狂させてきた"ミスタープロ野球"長嶋茂雄。現役を引退したのが昭和49(1974)年、巨人の監督の座を退いたのが平成13(2001)年だ。昭和11(1936)年生まれの長嶋は、2月で89歳になった。

1994年生まれの大谷翔平世代が球界の中心にいる今となっては、彼の活躍を思い出すことは難しい。昭和の名シーンを再現するテレビ番組さえつくられることが少なくなった。しかし、このレジェンドの存在を抜きにして、日本のプロ野球を語ることはできない。

生涯打率.305。プロ17年間で通算2471安打、444本塁打を放ち、6度の首位打者、2度の本塁打王、打点王は5回。5度のMVP、17回もベストナインに輝いている。

しかし、1974年10月にユニフォームを脱いでから50年が経った。彼のプレーを実際に記憶している人は少なくなっていく......現役時代の長嶋茂雄はどれだけすごい選手だったのか――チームメイトや対戦相手の証言から、"本当の凄さ"を探る。

今回登場するのは、ジャイアンツV9の一年目に巨人に入団し、堅実な守備と勝負強い打撃で9連覇の立役者のひとりとなった名手・黒江透修。三遊間を組んだ3学年先輩のチームメイト・長嶋茂雄は、黒江にとってどのようなプレイヤーだったのか。思い出とともに語ってくれた。

*  *  *

――読売ジャイアンツのV9(9年連続リーグ優勝、日本シリーズ9連覇)時代を支えた黒江透修さんは1938(昭和13)年12月生まれ。1936(昭和11)年2月生まれの長嶋茂雄さんの3学年下です。黒江さんが社会人野球を経て読売ジャイアンツに入団したのは、巨人のV9が始まる1964(昭和39)年のシーズン途中でした。

黒江 雑誌や新聞に載った昔の写真を見ると懐かしいね。長嶋さんが引退してからもう50年も経ったのか。

――黒江さんはプロ野球に入る前に長嶋さんのプレーを見た記憶はありますか。

黒江 もちろん、テレビをつければ巨人の試合が中継されていて、そこには必ず長嶋さんがいた。巨人はいいチームだったから、そこに入れることはうれしかったよね。長嶋さんは「ミスタープロ野球」という呼び名にふさわしい、素晴らしい選手だった。サードの守備もうまかったし。

――守備ではどのあたりが素晴らしかったですか。

黒江 やっぱりグラブさばきだね。派手なプレーの印象が強いかもしれないけど、魅せるところと確実に捕る時があった。

――黒江さんはプロ4年目の1967(昭和42)年にショートのレギュラーを獲得。翌年にはベストナインに選ばれています。ショートを守る黒江さんにはサードの長嶋さんがどのように見えましたか。

黒江 試合中でも、「カッコいいなあ」と思うことがあったよ。本当にいいプレーヤーだった。昔の写真を見ても、形がいい。本当に絵になるよね。

隣のポジションにいるから、試合に勝ったあとにはじめに握手することが多かった。「ナイスゲーム」と言い合いながら。ミスターとは、そういう意味では、いい"ご近所付き合い"ができたね。

――守備の時の長嶋さんで印象に残っていることはありますか。

黒江 「守備位置を少し変えろ」というサインがベンチから出ても、ミスターが動かない時があって、「クロ、ミスターを三塁側に」という指示が僕のところにくることがあった。ミスターに「ライン際を詰めてください」と言いながら、僕も守備位置を変えるようにしていた。


――川上哲治監督は、長嶋さんも王さんも特別扱いしなかったと聞きます。

黒江 まったくなかった。そういうことがあれば、あれだけ長い期間、強さを維持できなかったと思う。当時のプロ野球では珍しく、緻密な野球をしていたんだよね。巨人はデータ重視の野球をしていたから、長嶋さんにも動いてもらわないと困る。

――黒江さんが25歳で入団された時、長嶋さんは名実ともにリーダーだったんでしょうか。

黒江 王は僕よりも2歳年下(1940年生まれ)。僕は比較的、ミスターと年齢が近かったこともあって、ほかの選手よりも接する機会が多かった。後輩が「付き合いやすい」と言ったらおかしいけど、ミスターも親近感を持っていてくれたんじゃないかな。

――そんなチームの中で黒江さんはどんな役割をされたんでしょうか。

黒江 長嶋さんが「クロ、これをやろう」と言う時には、僕がみんなにミスターの意向を伝えるようにしていた。「ミスターの言うに通りにやってみよう」と。

――黒江さんが中継役となって、長嶋さん流のリーダーシップを機能させていたんですね。

黒江 長嶋さんが好き勝手にやってくれる時のほうが、こちらとしたらやりやすかった。だから、自由にプレーできるような雰囲気づくりをした。

長嶋さんが何かを言ってくれれば、ほかの選手たちもやりやすい。用事がない時でも、なるべくミスターの近くにいるようにしていた。そうすれば、言いたいことを言えるだろうから。「長嶋さんのサインをもらって」と頼まれることも多かったしね(笑)。

――昔、地方遠征の時は旅館に宿泊。現在とは違って、主力選手でも何人かで相部屋でしたね。

黒江 そうだね。僕とセカンドの土井正三が長嶋さんと同じ部屋になることが多かった。だから、宿舎ではミスターの練習の手伝いをさせてもらったよ。

――個別練習の時に、長嶋さんから技術指導を受けることはあったんでしょうか。

黒江 土井と僕がふたりで手伝うことが多かったんだけど、「ちょっとバットを振ってみろ」と言われることもあった。自分の調子が悪い時は長嶋さんの前でバットを振って、アドバイスをもらったりしてね。

――寝静まってから、長嶋さんの素振りの音が聞こえてきたという伝説がありますが、あれは本当ですか。

黒江 そういうことはよくあったよ。先に布団に入ると、そのうちバットを振る音が聞こえる。こちらは寝たふりをするしかない。終わりそうになったところで、「いい練習をしてますね」と言うと、「何だ、クロちゃん。寝てたんじゃないのか」と驚かれたよ。

――試合前、長嶋さんは誰とキャッチボールをしていたんでしょうか。

黒江 僕とやることもあったけど、土井と組むことが多かったかな。

――当時を振り返ってみて、先輩であり、偉大な選手だった長嶋さんとはどんな関係だったんでしょうか。

黒江 いいコンビだったと思う。僕が相談に行ったらアドバイスをくれたしね。コーチの人も直接ミスターに話すよりも、僕を経由してメッセージを伝えることが多かった。「クロ、おまえからミスターに言っておいてくれよ」と。

次回の更新は4月19日(土)を予定しています。


■黒江透修(くろえ・ゆきのぶ) 
1938年、鹿児島県生まれ。鹿児島高校より杵島炭鉱、日炭高松などを経て1964年に巨人に入団。名手・広岡達朗と入れ替わるようにしてV9巨人の不動のショートのレギュラーを獲得し、9連覇に貢献。長嶋と共に1974年に引退後は6球団で21年もの間コーチを務め、4球団で優勝を経験するなど「名参謀」として活躍した。

取材・文/元永知宏

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