「まるでONE PIECE!?」日本の中世にいた「海賊王」 藤原純友、なぜ日本史上最大の反乱を起こしたのか

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2025年04月14日 08:00  リアルサウンド

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山内譲 海賊の日本史 (講談社)

 週刊少年ジャンプ連載中の国民的人気マンガ『ONE PIECE』が物語の最終盤に突入している。世界で見るとイギリスの作家、スティーブンソンの『宝島』などがあり、創作では、海賊ものはひとつの人気ジャンルである。日本でも村上水軍から世界の海に漕ぎ出す若者を描いた白石一郎の『海狼伝』(文春文庫)が直木賞を獲得した作品が小説では代表作といえるだろう。日本には史実でも名を残した海賊王がいることをご存じだろうか。承平天慶の乱で平将門と一緒に登場する藤原純友だ。


 藤原純友は、平安時代中期、平将門とほぼ同時期に朝廷に対して大規模な反乱を起こしたのことで知られる。藤原姓であり、系図上は摂関家となった藤原北家につながる人物で、つまりは貴族だ。なのに、なぜか瀬戸内海賊の首領になって反乱に至っている。そこがこの人物の大きな謎がある。


律令制度の破綻、海賊王を生み出す

 平安時代というのは、朝廷が律令国家をめざし中国王朝のように奈良時代を継承している。しかし、結局はその律令制が破綻した時代だ。


  律令制度というのは、実は陸の国家である中国王朝の論理だ。根本は農耕民族の農政であり、それを基本に税制や兵制がある。だから、騎馬民族国家が中国を何度も制圧しても、結局はこの論理を受け入れる形で中国王朝のフォーマットに染まっていく構造がある。だが、これを導入した日本は島国である。海に生きる人々とは、どうしてもズレがある。陸においても律令制は馴染まない。豪族の集団統治からスタートした国なので天下は荘園という私有地まみれになる。平安時代になって、地方に軍を置かなくなるなど、朝廷も地方統治をあきらめた感があった。なのに、役人だけは派遣し、税だけはしっかり徴収しようとする。


 こういう矛盾が、関東では武士を生み、それが平将門という豪勇と結びついて乱を生んだ。純友のいた瀬戸内も、当然、都から切り捨てられた場所となる。大航海時代は15世紀以降のことで、藤原純友が生きたのは10世紀。羅針盤を使い、大海原を帆走できる時代は遠い未来だった。船といっても、陸を眺めながら、航路を決める時代。でも、瀬戸内は少し違う。ここは内海であり、陸を眺めての長距離航海が可能な場所だった。陸で荷車引いて物を運ぶよりも、もっと効率いい輸送ができる地域なのだ。瀬戸内海は物資輸送の高速道路だったと評する人もいる。農耕とは違う生き方が、そこにはあったはずだ。これが行政との齟齬を生む。海の人たちに不満がたまる。


 実は藤原純友の出自には、大きく分けてふたつの見方がある。ひとつは、系図通りの藤原北家の貴族。だが、もうひとつは、伊予の豪族、越智氏の流れである高橋氏の出身ではないか、というもの。実際、昭和の大河ドラマ『風と雲と虹と』の原作のひとつになった海音寺潮五郎の小説『海と風と虹と』(朝日新聞社)では、後者の純友=伊予出身説が採られている。純友は元々、海に生きる人たちの問題意識を共有していたから、後に海賊となった、という考えだ。これは非常にわかりやすい。生まれた地域の問題は肌で感じやすいもので、ならば、海賊とのつながりも深いだろう。


 でも、近年の研究では、純友はどうやら、本当に藤原北家の出自だったのでは、という見方が強い。ちなみに北方謙三が純友を描いた小説『絶海にあらず』(中公文庫)では、こちらの説が採られている。


日本史上稀有の海賊による大反乱

 純友に関しての記録は少ないが、ある時期に伊予掾(いよのじょう)という官職に就いたことはわかっている。地方の国に置かれた四等官の守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)ひとつであり、伊予国の行政におけるナンバー3である。近い時期に一族のひとりが伊予守になっているので、そのおこぼれかもしれない。どちらにしろ、都の貴族の視点で見ればたいした役職でなく、中央での出世はない身分である。そして、このように地方に任じられた貴族たちの多くは、その任地で土着していった。都に帰っても食い扶持がないからだ。関東では、それが武士となった。


  純友も任期が終わっても伊予に留まった。彼が伊予に任官した時期には、すでに瀬戸内の海賊活動は活発だった。航行する船を襲い、積み荷を奪うなどの行為があちこちで起こっていた。任地の問題なので、純友がこれと向き合ったのは容易に想像できる。彼は海のアウトローたちと、なぜ、そうなったかさえ共有したはずだ。だから、少し後に海賊たちが大きな反乱を起こしたとき、朝廷は純友にその追捕を命じたようだ。結果、この時点での反乱は収まった。でも、ここまでだった。939(天慶2)年、純友は配下の藤原文元が抱える備前の紛争に介入し、備前介だった藤原子高(ふじわらのさねたか)を襲撃。鼻と耳を削いだ。


  恐ろしい暴挙だが、これは中国王朝に伝わる刑罰のひとつにも見えるし、何らかの報復にも思える。とにかく、この時点で純友は海賊の首領となった。ちょうど、関東では平将門が朝廷への反旗を鮮明にしていた。都ではこちらの対応に追われ、純友には「従五位下」の官位を贈り、懐柔しようとしている。対する純友もこれを受け、落としどころを探した節がある。しかし、翌年には海賊活動が頻発するようになる。数百から1千とされる船団が伊予、讃岐を襲う。山陽地方や四国だけでなく、淡路、紀伊までその兵火は及ぶ。日本史上稀有の海賊による大反乱が起こったのだ。そして、その首魁こそ、藤原北家の男、藤原純友なのだ。のちに純友は瀬戸内海を飛び出し、九州の大宰府をも襲撃する。ことは瀬戸内だけの問題ではなかったのだろう。しかし、純友軍はここで敗北する。追捕山陽南海両道凶賊使という任務を与えられた小野好古の軍に破れ、伊予に敗走した純友は、子の重太丸と一緒に討たれたとされている。


  この純友を含め、日本における海賊史、特に瀬戸内系海賊を解説しているのが、『海賊の日本史』(山内 譲・講談社現代新書)だ。ここに書いた純友の伝も、そこに拠る。この書でも指摘しているが、藤原純友という人物はその事績に比べて、残された史料があまりに少ない。その言葉に、多くの海賊たちが集ったのだ。どこか、人を寄せ付ける性格だったのだろう。武勇も胆力もあったのだろう。承平天慶の乱は、陸に平将門、海に藤原純友という王を刹那的であっても生み出した。彼らは陸海の何かの矛盾に立ち向かった存在だった。そして、平安時代が終わるころ、関東では陸の矛盾を絶つ形で源頼朝が征夷大将軍となる。


  海をみてみると、武門として伸長した伊勢平氏は瀬戸内、大宰府、さらに中国までを結ぶ物流に目を付けていた。そこから出たのが平清盛という男。そういう見方をすれば、平将門、藤原純友という両反乱者は、頼朝、清盛より前の日本の初代陸海の王であり、彼らは平安朝廷が捨てた何かに、奉戴されていたとも考えられる。そして日本史は中央朝廷ではなく、それぞれの地に生きる人のものになっていく。


 



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