
【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.1
谷口浩美さん(前編)
陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。五輪の大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。
そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回は1992年バルセロナ五輪の「こけちゃいました」で一躍、時の人となった谷口浩美さん。全3回のインタビュー前編は、箱根駅伝で活躍した大学時代、いきなり優勝した初マラソンから金メダルを獲得した1991年東京世界陸上までを振り返ってもらった。強さの裏付けとなる独自の勝負理論とは――。
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【箱根駅伝の山下り6区で3年連続区間賞】
「箱根駅伝は(2年生から)3年続けて6区を走ったんですが、4年生の時、箱根湯本からのラスト3kmでペースを上げて前年の自分の区間記録を破ったんです。この経験がのちにマラソンをやるようになった時、すごく生きましたね」
谷口浩美は昔を懐かしむような表情で、そう言った。
宮崎県の陸上強豪校である小林高校から日本体育大学に進学した谷口だが、当時の日体大には、夏休み解散前に1年生の全員が5区、6区を試走する"伝統行事"があった。
「5区の上りは全然ダメだったんです。でも、6区の下りは先輩から『谷口は体重が軽いからいけるんじゃないか』と言われ、その気になって走ったんです。意外とスムーズに走れて、いいタイムが出たので(1年目は故障で箱根を走れなかったものの、2年目も)6区の候補になり、そのまま箱根を走ることになりました」
第57回大会(1981年)で初めて箱根を走り、6区区間賞を獲得した。第58回大会(1982年)では6区で区間新を出し、自分のなかではやりきった感覚を持った。だから、最終学年の4年生では、6区ではなく「2区を走りたい」とコーチに伝えた。すると、コーチから「谷口君、2区と6区を走る際につけられるタイム差を考えてごらん。2区はいくら頑張っても30秒の差をつけられるかどうか。でも、6区は2分の差をつけられるよね」と言われた。
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「それで『はい。わかりました』と(笑)。そう言われたら、もう6区を走るしかないですから」
2位の早稲田大学に2分39秒の貯金を持ってスタートした谷口は、順調に山を下り、箱根湯本までやってきた。その時、監察車に乗ったコーチに「谷口、昨年の通過タイムよりも10秒も遅いぞ」と言われた。
「その時は、私をダマして、速く走らそうとしてるんだなって思ったんです。でも、2回、3回と『遅いぞ』と言われて、『これは本当に遅いんだ』って焦りました。そこからはもう必死に走り、最終的に前年のタイムを17秒短縮することができたんです。コーチとのやり取りの中で、思考と気持ちを切り替えて、区間新を出せた。最後の箱根でのラスト3kmは、自分にとってすごく自信になりました」
【大学卒業後、本当は教員になりたかった】
4年生で陸上選手として自信になるものを得て、普通なら実業団に入り、さらに上を目指していきたいと思うだろう。だが、谷口は競技を引退し、宮崎県に戻って教員になることを考えていた。実際、日体大の4年時に教育実習を受け、あとは教員試験に合格するだけだった。
だが、宮崎県では2年前の国体開催に合わせて教員採用が増え、その反動で谷口の卒業年には採用枠がゼロに近く、不合格。路頭に迷うことを心配した高校の恩師が地元の旭化成に相談した結果、教員採用試験の再受験準備をしながら、2年間だけ在籍する約束で入社することになった。
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「(旭化成に)入社しても教員になりたいと思っていました。走りながら勉強は続けていて、ちょうど2年目、(初マラソンの)別府大分毎日マラソンで優勝したんです(2時間13分16秒)。それを置き土産にして退職し、教員になろうと思ったんですが、また不合格になってしまって(苦笑)。そうなると、旭化成に残ってマラソン選手としてやっていくしかないじゃないですか。恩師には特に何も言われなかったのですが、継続しか道がないので旭化成に残り、マラソンに挑戦することに決めたんです」
教員になる夢は胸の奥に押し込んだが、マラソン自体には中学生の頃から憧れがあった。
「中学生の時、テレビで福岡国際マラソンを見たんです。給水のシーンで『マラソンの選手は、どうしてジュースを飲みながら走れて、横腹も痛くならないのかな』って不思議に思ったのです。うちはジュース1本を買うのも大変な貧乏な家だったので、ジュースを飲めて横腹も痛くなく走れるマラソンは、なんていいんだろうって(笑)。それで将来は、マラソンをやりたいと思ったんです」
旭化成でマラソンを本格的にスタートさせた谷口だが、チームは中国駅伝(*1995年まで開催。現在の都道府県対抗男子駅伝の前身とされる大会)を重視しており、メンバーは日本を代表する選手ばかり。出走する7人のうち5人は宗茂、宗猛、佐藤市雄、弓削裕、児玉泰介で決まっていた。残り2枠を谷口と他の選手たちで競った。
「とにかく駅伝のメンバーに入りたいので、練習を全力でやり終えたあとも、寮まで走って帰っていたんです。それで疲れ果てて、寮の玄関でそのまま寝ていたこともありました。そのせいか、1年目からメンバーに入れて、駅伝を走ることができたんです。自分が弱いという意識が自分を強くしてくれたんだと思います」
自分の弱さがモチベーションになり、誰よりも練習をこなした。その結果、1988年の北京国際マラソンでは2時間07分40秒(自己最高記録)をマークし、世界歴代7位(当時)のタイムで2位に入った。翌1989年には東京国際マラソン、北海道マラソンで、1990年にはロッテルダムマラソンでいずれも優勝し、日本では瀬古利彦、宗茂、宗猛、中山竹通らに次ぐ選手としての地位を確立、「マラソンに強い男」として評価を高めた。
【マラソンで強くなれた3つの理由】
なぜ、ここまで強くなれたのか。
「3つあるんですが、ひとつは私が単純だからでしょう(笑)。同じチームに宗兄弟という五輪選手がいるので、その人たちと同じことができたら自分も五輪に行くことができるんじゃないかと思ったんです。結果的に、それが五輪を目指すスタートになったのですが、宗さんたちについていくことで気がついたら強くなっていました」
もうひとつは、レース100日前からのトレーニング方法を学び、確立させたことだ。
「高校時代から練習日誌をつけていたんですが、マラソンをスタートした時もつけていました。さらに、宗さんとの練習からトレーニング方法やレースまでの持っていき方などを学び、自分のなかで消化していきました。それをベースに自分用に本番100日前からのトレーニングメニューを作り、こなすようにしていったんです」
当時は、パソコンがないので手書きで1カ月ごとに分けて練習メニューを作り、自分の状態なども記していった。
3つ目は、緻密なレース戦略だ。
「1985年の福岡国際の時は、自分が作成したスケジュールに沿って練習をこなし、出場する選手の性格やスパートのタイミング、何に気をつけたらいいのか、そういうデータや分析を織り交ぜ、表やレースの台本を作っていました。本番は30km手前で先頭集団から遅れたのですが、徐々に前に追いついたんです。そこで新宅(雅也)先輩がスパートして競う展開になり、私は2位でした。
台本通りにいかない時もあるんですけど、それもマラソンですし、レースを組み立て、ここを我慢したら展開が変わるとか、そういうのを楽しみながら走るのもマラソンの面白さだなって思って走っていました」
【世界陸上で生きた「箱根6区のラスト3km」】
本能や感覚で走るのではなく、データや選手の分析やメニューの組み立てなど、事前準備を重視し、それを経てのレースであり、結果だと捉えていた。そして、それが1991年の東京世界陸上で実を結ぶことになる。
「(1988年)ソウル五輪に私は行けなかったのですが、陸上関係者に『暑さに強い谷口がいたら面白かったんじゃないか』と言われたんです。東京世界陸上も暑さとの戦いになるので、その対策として日本陸連から指定されたレースが(8月開催の)北海道マラソンでした。
レース当日の暑さはそれほどでもなかったものの、ここで優勝したことで、『谷口は暑さに強い』と思われたようです。本当は決して暑さに強いタイプじゃないのですが(笑)。でも、メディアの皆さんが『谷口は暑さに強い』と書いてくれるので、単純な僕は『自分は暑さに強いんだ』『3分間戦えるウルトラマンみたいに、マラソンの2時間20分だけは暑い中でも走れる』と思うようにしていました。根拠のない勝手な思い込みが自分の自信になっていましたね」
正式に東京世界陸上のマラソン代表になると、初出場した別大マラソンから13回走ったレースの気象などのデータに加え、これまでの練習メニューをすべて書き出していった。そして、レースの100日前からの練習メニューを作り、いつも通り、それを地道にこなしていった。途中でうまくいかなくても、少しコンディションが落ちても、あとで必ず上がってくるから大丈夫だと過去のデータから理解し、焦ることはなかった。
「9月が本番だったのですが、4月にはレース展開などの台本を書き、この台本通りにどうやって世界選手権のレースを終わらせるのかを考えていました」
1991年9月、東京世界陸上のマラソンは、気温30℃、湿度60%のなかスタート。参加60名中24名の選手がリタイヤする過酷なレースになった。メダルが期待された中山も途中棄権した。谷口は「自分はウルトラマン」と思い込んで走り、30kmの給水所でのスパートも実行した。周囲の選手が自分のボトルを取ることに注意を払っている隙に飛び出すことを、事前に決めていたのだ。
5、6人の選手がついてきたが、ここで「箱根6区のラスト3kmの経験」が生きた。「いける」と気持ちを切り替え、力を振り絞って走った。国立競技場にトップで入ると、最後のストレートでガッツポーズを決め、金メダル(2時間14分57秒)を獲得したのである。
「私のなかではすべて台本通り。パーフェクトなマラソンになりました」
明確な結果を得たことで自信を深めた谷口は、1992年8月、国民の大きな期待を背負い、人生初のオリンピック、バルセロナ五輪の舞台に立つことになった。
(文中敬称略)
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谷口浩美(たにぐち・ひろみ)/1960年生まれ、宮崎県南郷町(現日南市)出身。小林高校では全国高校駅伝に3年連続出場し、2、3年時は同校の2連覇に貢献。日本体育大学では2年時から3年連続で箱根駅伝の6区を走り、いずれも区間賞を獲得(3、4年時は区間記録を更新)。旭化成に入社後は主にマラソンで活躍し、1991年の世界陸上東京大会で金メダルを獲得したほか、1992年バルセロナ、1996年アトランタと二度のオリンピックにも出場。1997年に現役を引退すると、実業団や大学での指導を経たのち、2020年3月まで地元の宮崎大学の特別教授を務める。マラソンの自己最高記録は2時間7分40秒(1988年北京国際)。