
「ああ、悪夢の『夫婦別姓法』が通ってしまう」「安倍総理一周忌――夢枕に立つ安倍さん あ、総理ご無事だったんですね!」「文在寅は北の“工作員”だ」などなど……。毎号、強烈な見出しが躍る保守雑誌「WiLL」(ワック)と「Hanada」(飛鳥新社)。
この2つの雑誌を創刊させたのが、花田紀凱氏。「週刊文春」(文藝春秋)の黄金時代を築いた伝説の編集者だが、彼はどのようにして保守論壇誌を作っているのだろうか? また、そんな彼に着いて行く部下たちは、一体どんな人物なのか?
昨年11月の発売以降、各所で反響を呼び、3月現在で4刷を記録した『「“右翼”雑誌」の舞台裏』(星海社)の著者・梶原麻衣子氏に話を聞いた。
自衛隊の親を侮辱する「左」のオトナたち
――本書を執筆することになったきっかけを教えてください。
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梶原麻衣子(以下、梶原) 2023年末、私が大学生の頃から保守系の雑誌を読むようになったきっかけを、X(旧Twitter)に投稿したんです。すると、それを見た星海社の編集者さんから、「どうして人は保守系の言論に惹かれるのか? どうやって保守系雑誌は作られているのか?」というテーマで執筆の依頼をいただきました。
――SNSが仕事につながるのは素晴らしいですね。書き下ろしですか?
梶原 そうですね。実はこの本の発売時期は、「WiLL」創刊から20周年を迎えるタイミングなんです。その節目に書くのもいいなと思いました。
――このインタビューはサイゾー編集部で行われています。こんなことを聞くのも野暮ですが、そもそも梶原さんが右寄りになったきっかけは何だったのでしょう?
梶原 親が自衛官だったことで、小学生の頃に担任教師から「アンタの親の仕事は嫌われているよ」と言われたことがありました。そこからしばらくして「世の中には右と左の対立があるんだ」と気づき、その言葉は“左の人”から出ていたものなんだと、後々理解しました。
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――先生までそんなことを言っていたんですか?
梶原 そこから、大学生になると歴史や憲法について知りたくなって、「SAPIO」(小学館)や「諸君!」(文藝春秋)、『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(幻冬舎)などを読むようになりました。家庭の教育が右寄りだったとか、家族から強要されたことは全くありません。
――梶原さんが大学生だったのは90年代後半から2000年代前半ですね。今では“ネトウヨ”という言葉がありますが、当時の感覚は近かったのでしょうか?
梶原 「ネトウヨ」という略称が登場する前の「ネット右翼」でしたね。当時はインターネットくらいしか発信の場がなく、周囲にそういう考えを持つ友人もいませんでした。そんな中、「WiLL」が2004年11月に創刊されると、すぐに読み始めました。そして、花田編集長が主催する「マスコミの学校」という講座にも参加します。
――いわゆる、マスコミ志望の学生が参加するセミナーですね。当時から編集者志望だったのですか?
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梶原 マスコミに入りたいというより、「右の話ができる人がいるかも」と思って参加したんです。ところが、実際に行ってみると右寄りの人はほとんどいませんでした。参加者は、花田編集長が元「週刊文春」(文藝春秋)の編集者で、メディア人脈が豊富だという理由で来ていたんです。だから、結局できたのは左寄りの友人ばかりでした。
花田編集長のイズム
――そのときには、すでに就職していたのですか?
梶原 新卒でシステムエンジニアとして働いていましたが、講座に参加した頃は転職を考えていたんです。あるいは、中国に行こうとも思っていました。
――中国?
梶原 中国語を勉強して何かに役立てようと考えていたんです。そこで、中国に行くか、「マスコミの学校」を半年間受講するかで迷い、最終的に後者を選びました。初回の講師が田原総一朗さんだったので、「生で見られるなら……」と(笑)。そして一期目の講座が終わったときに「WiLL」編集部が編集者を募集することになって。「君、右だから入ったら?」と誘われて、編集者になったんです。
――花田編集長も、受講生の中から逸材を探していたのかもしれませんね。
梶原 どうでしょう(笑)。でも、「右だから、こいつならやれる」と思ったのかもしれません。ただ、いざ編集部に入ってみると、SE時代とは比べものにならないほど過酷な職場でした。残業代なんてもちろんありません。でも、その分、編集者としてはものすごく鍛えられました。
――「WiLL」と「Hanada」の編集業務で、特に大変だったことは?
梶原 まず、原稿に大量の赤字が入って、ひたすら書き直しをさせられることですね。それまで、人の話を文章にまとめるなんて経験がなかったので。入社当初は、たった140字の書評を10回以上書き直したこともあります。
――うへぇ……。
梶原 何が悪いのかもよく分からないまま、どんどん赤字を入れられて……。今でも、編集長に原稿を見せるときが一番緊張します。
――花田編集長は週刊誌時代に「短大生が読んでも分かるような、読みやすい文章を書きなさい」と言っていたとか。
梶原 えぇ。月刊誌でもそうで少しでも文章が長くなったら、すぐに改行するように指示されました。確かに、改行があるほうが読みやすいんですよね。特に大学教授の原稿などは、ほとんど改行が入っていません。
――文章が長いし、難解ですよね。
梶原 そういう原稿を読みやすくするために、無理やりでも改行を入れたり、小見出しの位置を細かく調整したり……。そういった細かな作業を、花田編集長のもとで学びました。少しでも気を抜くと、すぐに赤字が入るんです。
――そのトンマナ(トーン&マナー)を理解できるようになったのは、いつ頃からですか?
梶原 今でも「Hanadaプラス」というウェブメディアに記事を書いていますが、改行の指示は入ってきますよ(笑)。雑誌に載るわけでもない2000字くらいの書評でも毎回ちゃんと読み、「ここ、意味がわからない」などと指摘が入ることもあります。
取材した晩に文字起こしして原稿に
――読ませる工夫やこだわりが、すごいですね。
梶原 雑誌の特徴として、「聞き書き」にも力を入れていました。
――インタビュー相手の言葉を録音して書き起こし、「その人が話しているように」文章をまとめる手法ですね。
梶原 「WiLL」や「Hanada」では、聞き書きで1本の記事を5000〜10000文字にまとめることがよくありました。正確に書き起こさないと、原稿確認の際に「これは違う」と言われてしまいます。しかも、締め切り前日の夕方にインタビューして、その夜に文字起こし、翌日にはインタビュー相手と花田編集長に原稿を見せるというスケジュールで……。
――時間なさすぎじゃないですか?
梶原 今思えば、あんなに辛いことはないですよね……。原稿チェックが戻ってきたら、その修正をそのまま青焼き(校正紙)に書き込むこともありました。この話は本にも書いたのですが、それを読んだ花田編集長からは「俺はそんなに頻繁に1日でやれなんて言ってない、年に一回くらいだ」と怒られました。でも、週に3本取材があれば、1日で仕上げないとほかの作業が間に合わないんです。
――というか、ライターに原稿を依頼するのではなく、編集者が自分で書いていたんですね……。
梶原 編集者には「残業時間」という概念がないですからね(笑)。しかも、これは私だけでなく、編集部全員が同じやり方なんです。弱音を吐いても、代わりにやってくれる人はいない。だから、一夜漬けは当たり前でした。
――しかも、せっかく書いても、花田編集長の一言で書き直しを命じられることもあるんですよね?
梶原 細かく赤字を入れてきますからね。編集部員は毎月のように、記事をめぐって花田編集長とやり合っています。いくら編集者が「これは面白い」と思っても、花田編集長が納得しないことも多いんです。どれだけ大御所の論客を口説いて原稿をもらっても、「面白くない」と一刀両断されることもあります。
――えぇ……。そう言われたらどうするんですか?
梶原 もう何を言っても無理ですね……。時間があれば書き直したり、「こうしたらどうでしょう?」と提案する余地もありますが、「あとは入稿するだけ」というタイミングで「面白くない」と言われたら、編集者は食い下がるしかないんです(笑)。
掲載ページを巡って熾烈な戦い
――雑誌を作るときには、ページの内容や構成を決める「台割」があるはずですよね?
梶原 はい。でも、掲載記事が多すぎて、常に競争状態なんです。2ページの連載ですら、突然なくなることがあります。花田編集長は「面白さ」で判断するので、何カ月も連載が飛ぶこともあるんです。そして、執筆者からは「どうなってますか?」と連絡が来る……。
――企画会議はどんな雰囲気だったのですか?
梶原 毎月10本程度企画を出して、その中で通ったものを進めていきます。でも、時間が経つと世間の状況も変わるので、1カ月前に出した企画はもう古くなっていることもあるんです。
――月刊誌の宿命ですね。
梶原 もともとは「ロシア」や「中国」といったテーマごとの特集を組んでいたのですが、徐々に「面白いものから選ぶ」という編集方針に変わっていきました。
――驚いたのが、編集部員はたった3〜4人。それで、あの文量の雑誌を毎月作っていたんですね。
梶原 私が入った当初は3人でしたが、その後はずっと4人でした。編集者の人数が増えると同時にページ数もどんどん増えていって、創刊当初は256ページほどだった雑誌が、「Hanada」になる頃には350ページになっていました。「もっと面白い記事を載せたいから」と、花田編集長がページ数を増やすんです。でも、人は増えないんですよね……。
――「編集者は体が資本」とは言いますが、その人数で毎週徹夜のような働き方だと体がもちませんよね。
梶原 終電帰りが3、4日続き、最終日は始発で一度家に帰り、少し寝て出社することもありました。今はさすがに最終日も徹夜にはならないようですが。
――ちなみに、梶原さんは花田編集長と対等に議論できたのでしょうか?
梶原 みんな、対等に渡り合っていましたよ。花田さんもそこで「編集長は俺だぞ」などと威圧したりはしませんからね。
おどろおどろしい雑誌の表紙は「かわいい」?
――本書の2023年12月に放送された『プロフェッショナル 仕事の流儀』(NHK)で、ジブリの宮崎駿監督に密着した回を見て、宮崎監督が花田編集長に重なって見えたというエピソードが印象的でした。
梶原 宮崎監督も花田編集長も、単に「元気な高齢者」というだけではなく、強いこだわりを持ち、自分の理想とする形に近づけようと努力しているんです。それに、「消しゴムがない」と宮崎監督がうろうろする場面がありましたが、花田編集長も同じで「赤ペンがないんだけど」と編集部内を歩き回っていました。赤ペンなんて山ほどあるのに、「俺はあの赤ペンじゃないと校了できないんだ」と言うんですよ(笑)。
――宮崎監督は84歳で現役ですが、花田編集長も82歳で雑誌を作り続けています。
梶原 「WiLL」創刊時ですでに62歳ですからね。60歳を超えて徹夜なんて無理だろうと、20代の頃の私は思っていたのに、花田編集長はいまだに徹夜とまではいかなくても、日付けを超えても編集部に残って作業しています。あんなに体力のある80代、ほかに見たことがありません。
――政治家もそうですが、パワフルな80代というのは、若手よりも働いている印象があります。
梶原 本書でも書いたのですが、私はいつか自分の仕事量が花田編集長を超える日が来ると思っていました。でも、花田編集長の仕事量は全く落ちることがなく、逆に私のほうが体を壊して離脱してしまったんです。
――そんな過酷な環境で、13年間も働いていたんですね。
梶原 「WiLL」創刊から1年後の2006年1月号から、編集者としての仕事が始まりました。2016年に「WiLL」と「Hanada」が2誌に分かれたあとも2018年まで在籍していたので、13年半になります。当時の安倍晋三首相と石破茂・元幹事長が一騎打ちを繰り広げた自民党総裁選の途中で、倒れてしまいました。雑誌作りは大好きだったんですけど……。やっぱり、思いつめすぎてはいけませんね。
――そんな、濃密な13年間を振り返ったのが、『「“右翼”雑誌」の舞台裏』です。本書の特徴といえば、雑誌の表紙のようなデザイン。ただ、タイトルのフォントは「WiLL」とも「Hanada」とも違って、かなりシンプルですね。
梶原 「もう少し太字にしたほうがいいんじゃないですか?」と提案しましたが、デザイナーさんが全体のバランスを考えてこのフォントにしたんだと思います。「WiLL」や「Hanada」の表紙は、過激な文字が並んでいて「品がない」「えげつない」と批判されることも多かったんです。ところが、本書のデザイナーさんには「表紙、かわいいですよね」と言っていたようで。白地にカラフルな、コロコロした文字が並んでいるのが「かわいい」んですって(笑)。そんなふうに言われたことがなかったので、すごく驚きました。
――確かに。イラストのネコもかわいいですよね。最新号の「Hanada」の表紙には「石破はひと夏の蝿だよ」なんていう強烈な見出しもありますが……(笑)。
(構成=桃沢もちこ)
梶原麻衣子(かじわら・まいこ)
1980年、埼玉県生まれ。ライター・編集者。中央大学卒業。IT企業勤務を経て出版社に入社し、月刊「WiLL」、月刊「Hanada」の編集部を経てフリーランスに。紙・ウェブを問わず、インタビュー記事の取材・執筆のほか、書籍の企画・編集・構成(ブックライティング)などを手がける。