【レジェンドランナーの記憶】五輪に二度出場の谷口浩美は、昨年1月に病魔に襲われるも「マラソンのおかげで命を救われた」

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2025年04月17日 10:10  webスポルティーバ

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【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.1

谷口浩美さん(後編)

 日本が誇るレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回は1992年バルセロナ五輪後に一躍、時の人となった谷口浩美さん。全3回のインタビュー後編は、「こけちゃいました」の後日談、自身二度目の五輪となる1996年アトランタ五輪への挑戦、引退後にあらためて感じたマラソンの魅力を聞いた。

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【目の前の座席の女性が顔を上げた瞬間、「あっ!」】

「こけちゃいました」

 バルセロナ五輪、男子マラソンのレース後のインタビューの際、谷口浩美は笑顔でそう答えた。その表情と素直な言葉に多くの国民が好感を抱き、谷口は帰国後、一躍、時の人になった。連日、ワイドショーや夕方のニュースで転倒シーンとレース後のインタビューが流れ、国民の間に「谷口浩美」が浸透した。

「東京に行って電車に乗った時、目の前の座席で本を読んでいた女性が上を向いて、私と目が合った瞬間に『あっ!』て言うんですよ。『あれ、東京に親戚はいなかったよな......』って思っていると、『こけちゃった人だ!』って言われて(苦笑)。普通の女性まで僕の名前を知っているんだと思うと、うれしいというよりも怖いなとなって、食事以外はホテルから外に出歩くことがなくなりました」

 8位入賞の谷口のほか、銀メダルを獲得した森下広一、4位に入った中山竹通と、バルセロナ五輪のマラソンに出場した3人全員が入賞したことに、日本は沸き立っていた。

【速すぎる中山竹通の存在が自分を成長させてくれた】

 森下は旭化成の後輩だった。

「森下は同じチームでしたし、バルセロナ五輪前は、本番とコースがほぼ同じのカタルーニャマラソンを一緒に視察したんです。彼は、スピードがあり、ラストスパートでは勝てない。じゃあ、どこで勝負すれば彼に勝てるのか。コースを見るとモンジュイックの丘を上って下る40km手前付近だと思いました。僕は靴が脱げて、そこまで森下と競ることができなかったんですが、金メダルの韓国の選手がそこで勝負をかけ、森下を突き放したんです。その録画映像を見た時、自分もそこで勝負したかったなぁと思いましたね」

 森下は優勝争いにこそ敗れたが、銀メダルを獲得した。

「森下はメンタルで勝負するタイプ。集中している時は、監督もコーチも声をかけられないですし、ピリピリ感がすごかった。彼はバルセロナを含めて(競技人生で)3回しかマラソンを走っていないんです。その3レースが優勝、優勝、銀メダルですからね。本当にここって時の集中力がすごかった。ただ、身体のケアが足りなくてアキレス腱を痛めてしまい、その後は苦しんだので、もったいなかったですね」

 五輪のマラソンで日本人選手がメダルを獲得したのは1968年メキシコ五輪で銀メダルを獲得した君原健二以来、24年ぶりの快挙だった。だが、森下はそれ以降、故障が続き、結局、バルセロナ五輪が最後のマラソンになった。

 中山は、谷口にとっては追いつき、追い越すべき目標の選手だった。最初に衝撃を受けたのは、1984年の福岡国際マラソンだった。中山は、30km過ぎからスパートすると、そのまま独走し、優勝した(記録は当時日本歴代5位の2時間10分00秒)。

「私にとって初マラソンとなる別大(別府大分毎日マラソン)に向けて練習をしている時にテレビで中山さんの走りを見て、マラソンは30kmぐらいからスパートすればいいんだと思い、それを翌年の別大で実践して優勝することができたんです」

 中山は強力なライバルだったが、実力差も感じていた。

「ともに日本代表に選ばれた1986年のソウルアジア大会の直前にニュージーランドで合宿をしたのですが、中山さんは速すぎて、足元にも及ばなかった。1991年の東京世界陸上でも中山さんには勝てないと思っていたのですが、何も抵抗せずに負けるのは嫌じゃないですか。それで、まずハーフまで離されずについていって、中山さんの独走プランを狂わせようと考えました。

 ただ、ハーフまでついていけただけで安心すると終わってしまうので、その後をどう走るのかも考えました。結局、中山さんに勝てたのは自分の戦略通りに行けたのと、給水で一度の失敗もなかったから。その経験をバルセロナで生かしたかったのですが、こけちゃいましたからね(苦笑)」

 谷口が中山に勝てたのは、東京世界陸上と1987年東京国際マラソンの二度だけだった。

「中山さんとレースで走る時は、中山さん対その他って感じでしたし、そのくらい強かったです。たぶん中山さんがライバルとして意識していたのは瀬古(利彦)さんだけだと思うんです。その中山さんに世陸で勝てた。ガチンコ勝負では勝てないですが、戦略と肉体と精神力を整え、勝負するところを見極めて戦えば勝てる。それがマラソンの面白さでもあるなと思いました。中山さんの存在が私を成長させてくれたのは間違いないです」

【二度目の五輪となるアトランタは「さんざんでした(苦笑)」】

 バルセロナ五輪以降、谷口は優勝こそできなかったが、1993年のボストンマラソンで4位、1995年のびわ湖毎日マラソンで4位とコンスタントに結果を残した。そして、同年12月、アトランタ五輪の選考レースとなった福岡国際マラソンを迎える。レースに向け、谷口は同じ旭化成の後輩である川嶋伸次や大崎栄ら5名の選手と一緒にマラソン練習を行なっていた。

「その頃はコーチも兼任していたのですが、みんなは練習で5km14分30秒ペースぐらいで走るけど、私は体力もスピードも落ちて、どう頑張っても15分30秒ぐらいでしか走れない。でも、不思議なことに、レースで彼らに負ける気がしなかった。自分が一番最初にゴールするだろうなと思っていたんです」

 レースはペースメーカーがつき、5km15分ペースで進む予定だったが、ペースメーカーの選手が勘違いをしたのか、最初の5kmを15分30秒で入った。これで谷口はいけると思った。

「自分にはちょうどいいペースだったんですけど、14分30秒で調整してきた選手は1分も遅いわけじゃないですか。かといって、ひとりだけ速く走るわけにもいかないし、その余力をどこに流すかというと、上に跳ねてスピードを落とすしかない。培ってきたバネを(前方ではなく上に)跳んで消費しているので、30km以降はもたないだろうなと。5kmを通過した時点で私の勝ちだなと思いました」

 30kmを越えると、旭化成の選手は誰もおらず、谷口だけになっていた。最終的に花田勝彦(現・早稲田大学競走部駅伝監督)らに敗れて7位になったが、花田は10000mの代表に選出され、谷口は過去の実績などを評価され、アトランタ五輪のマラソン代表に選ばれた。

「アトランタは36歳での挑戦で、練習とか調整がうまくいかず、レースも19位に終わり、さんざんでした(苦笑)。あまりにも悔しいので、(2000年の)シドニー五輪を目指そうと思ったのですが、会社では指導者の道が敷かれ、選手としては挑戦できない。とはいえ、会社を離れてやる自信もなかったので、そのままの流れで翌年に引退をしました」

 その後、旭化成のコーチを皮切りに実業団や大学での指導を経て、2017年、地元の宮崎大学の特別教授に就任した。

「五輪を2回走ることができましたし、指導を経験することもできました。最後に学生の頃の夢だった教職に就いて、2020年3月まで宮崎大学で教壇に立つことができました。自分のやりたいことはすべてやってきたので、そこは満足しています」

【左手の指先に異変を感じ、「救急車を呼んでください」】

 65歳になった今も真っ黒に日焼けし、元気そのものに見える谷口だが、昨年1月には病魔に襲われている。子どもとの釣りの休憩中、左手でゴミを拾おうとすると、その指先に異変を感じた。谷口はおかしいなと思ったその時点で「これは脳梗塞だ」と自己判断し、近くにいた人に「救急車を呼んでください」と声をかけた。迅速な対応が功を奏し、20日間ほど入院したものの、後遺症は残らなかった。なぜ谷口はすぐに脳梗塞だと判断できたのだろう。

「不思議ですが、直感でそう思ったんです。私は走り始めてから常に自分の体に向き合い、若い頃から体のちょっとした変化や変調にすぐに気がつくようになっていました。脳梗塞になった時も、若い頃に身につけた"異変への察知力"が生かされたのかなと思います」

 今もランニングは継続している。現役時代にはなかった厚底のシューズを履き、大会ゲストとして市民ランナーと一緒に走ることもある。「もう速くは走れないですけど、そのへんを走るのは問題ないです」と笑顔を見せる。

 谷口にとって、マラソンとはいったい何だったのだろうか。

「昔と今とでは、食事とかサプリとか練習メニューとかシューズとか、いろいろなものが変わりました。でも、マラソンに勝つためには、しっかりと練習をしないといけないですし、我慢したり、犠牲にしなければいけないことは、ずっと変わっていない。自分の体を使い、自分の体をどうコントロールするのかという、マラソンに重要なテーマや楽しさは変わっていないと思うんです。

 自分の体と向き合うことでいろいろなものが見えてくる。それで私の命も救われましたし、五輪をはじめ、いろいろな経験をさせてもらいました。25歳の時にマラソンをやると決断したことは間違いじゃなかった、よかったなと思いますね」

(文中敬称略)

谷口浩美(たにぐち・ひろみ)/1960年生まれ、宮崎県南郷町(現日南市)出身。小林高校では全国高校駅伝に3年連続出場し、2、3年時は同校の2連覇に貢献。日本体育大学では2年時から3年連続で箱根駅伝の6区を走り、いずれも区間賞を獲得(3、4年時は区間記録を更新)。旭化成に入社後は主にマラソンで活躍し、1991年の世界陸上東京大会で金メダルを獲得したほか、1992年バルセロナ、1996年アトランタと二度のオリンピックにも出場。1997年に現役を引退すると、実業団や大学での指導を経たのち、2020年3月まで地元の宮崎大学の特別教授を務める。マラソンの自己最高記録は2時間7分40秒(1988年北京国際)。

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