
学生駅伝の戦いの舞台に、2年ぶりに戻ってきた。
古豪・明治大学が新たな時代を切り開くべく、箱根駅伝優勝に向けて立ち上げた本格的な強化プロジェクト。その舵取り役を任されたのが大志田秀次氏だ。
中央大ではコーチとして箱根駅伝総合優勝に導き、2011年創部の東京国際大では10年という短いスパンのなかで強豪校へと押し上げてきた。
選手の意見に耳を傾け、そのうえで厳しさを追求し結果を残してきた手腕は、明大でどのように発揮されていくのだろうか。
前編:大志田秀次・明大駅伝監督インタビュー
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【『失敗を経験に』という考え方は明大でも変わりません】
「まだ、慣れていないんですけど」
東京・世田谷区の閑静な住宅街に佇む明治大学八幡山第三合宿所。竣工から2年、真新しさと学生たちが寝食をともにする生活感が入り混じる建物の応接室に、大志田秀次・新駅伝監督が紫紺のジャージの襟元を整えながら笑顔で現れた。
1990年代には母校・中央大をコーチとして第72回(1996年)箱根駅伝総合優勝に導き、2011年からの12年間は東京国際大でゼロからのチームづくりに携わり、学生駅伝の強豪校へと育て上げてきた。実業団Hondaも含め、長きにわたりその手腕を発揮してきた名将が新たに挑むのは、古豪・明大の再興である。
明大は第1回(1920年)箱根駅伝に出場した4校のうちの1校で、これまで本戦出場65回、総合優勝は7回を誇る。だが、最後の優勝は第25回大会(1949年)と76年前のことで、その長い歴史のなかで大きな紆余曲折を描いてきた。2010年代に再び上位に絡み始めたが、近年は有力な高校生を獲得しながらも箱根駅伝では低迷が続いている。過去10年でシード権を獲得したのは6位に入った第96回大会(2020年)のみで、昨年度は予選会12位で7年ぶりに本戦出場も逃した。
そのような状況を打開すべく「紫紺の襷プロジェクト〜Mの輝きを再び〜」が大学主導で立ち上げられた。その名の通り、学生駅伝での輝きを取り戻すと同時に、学校創立150周年を迎える2031年度の箱根駅伝総合優勝が目標に掲げられ、その舵取り役として大志田氏に白羽の矢が立てられた。
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「プレッシャーしかないですよ。旧知の人間の多くは、『おめでとう』と声をかけてきますけど、『その言葉は結果が出た時にかけてもらう言葉でしょ』と返しています」と冗談混じりに言う。
今回のミッションを引き受けた背景、明大で描くチームづくりのビジョンはどのようなものなのだろうか。
――まずは明大の駅伝監督を受けるに至った経緯をお願いします。
大志田駅伝監督(以下、同)「昨年の11月上旬に、以前から親交のあった園原健弘・競走部監督から直接電話をいただきました。その時は歴史のある学校ですし、明大OBの指導者の方も(陸上界に)多くいますので、OBの方を中心に新体制を作ったほうがいいのではないかと、お断りをしました。
ただ、もし自分が受けなかったらどうするのかと聞いたら、公募も含めて検討していくといった趣旨のことを伝えられ、明治のような歴史あるチームの指導者を公募で決めるというのもどうかという思いもあったので、1カ月だけ考える時間をいただきました。
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――初めてその話を聞いたときは、率直にどう感じましたか。
「前任の山本豪・駅伝監督はまだ1年半くらいの指導期間でしたので、正直、戸惑いはありました。詳しい事情は私にはわかりませんが、大学側が発表したプロジェクトを達成するためには、現場にも変化が必要という判断をしたという認識です」
――箱根駅伝に通じる環境で再び指導することについては、どのように捉えていましたか。
「2年前に東京国際大を去った時に、"またいつか大学で"という気持ちがあったのかと聞かれれば、正直、ありませんでした。東京国際大では求められる結果を出せなかったという判断を下されて去ることになりましたが、プロとして指導者をやっている以上、半年だろうが、1年だろうが、ダメと言われればそれが評価なのです。
一方で私自身はやり残したことがあるという思いを抱えたまま大学駅伝を去ったので、寂しさが残っていたことも事実です。
中大でも東国大でも、私自身は『失敗を経験に』という考え方をチームづくりのベースにおいていましたので、東国大で結果を出せなかったことについてもその理由は自分のなかで理解して、次につなげていく方策を考えていました。その考え方は明大を指導していくうえでも変わりありません。
ただ私自身、(監督職に対して)自ら手を挙げるタイプではないですし、明大から声をかけてきたときも、(話が)来たのか、というくらいの受け止めでした。だから最初は、(自分のことより)明大OBで再建を計ったほうがいいのではとお伝えしたのです」
【あと何年あるから今年はこれくらいで、では強くなれない】
中大出身の大志田駅伝監督は、現役時代も含めて明大との直接的な関係があったわけではない。ただ、長い指導歴で培った手腕と眼力は、柔和な雰囲気のなかで厳しさも追求する人柄と合わせて、接した多くの人々から信頼を寄せられてきた。
2年前に東国大を去ることが決まった時、「明大競走部のこれから」というテーマのセミナーのゲストスピーカーとして、「今後の明大をどう見ているのかを語ってほしい」と参加を要請されたという。
その時声をかけたひとりが当時の山本佑樹駅伝監督だったが、その関係を問うと「私がHondaの指導者として、スカウトで声をかけてからですかね」と答えが返ってきた。
「山本佑樹元監督もそうですが、城西大の櫛部(静二)監督、早稲田大の花田(勝彦)監督も含め、現役の時に声をかけさせていただいた選手たちが今、箱根駅伝に関わる学校の指導者になっています。東国大の監督の時はライバルですので深い話はできなかったですが、そのセミナーでは私なりに、こうしていったら強くなれるんじゃないかというようなことを話した記憶があります」
大志田駅伝監督は、大きな目標を口にするタイプではない。常に自分たち、選手個々の状況を見極め、極めて現実的な見方で選手と話し合い、目標を定め、そして考えさせる。
同時に全体を俯瞰する視点を持ち合わせている。学生駅伝の現場から離れているときは、箱根駅伝のラジオ放送解説を務め、この2年間も箱根駅伝を見続けてきた。そうした知見、また長年培ってきた人脈もあり、今回駅伝監督を引き受けるときには、明大の歴史を継ぐ必要性も感じていた。
――駅伝監督を引き受けるうえで、重要な要素となった点はありますか。
「私がひとり、いきなり来て、すべてできるわけではありません。チームづくりは現場以外の部分も含めて行なうものですので、長く明大の強化に携わってきた西弘美さん(元監督、現スカウティングマネージャー)に引き続き携わっていただけるのかを確認しました。また、明大OBのコーチを希望したところ、縁あって射場(雄太朗)くん(2016年度明大駅伝主将)に来ていただけることになりました。
射場くんが上武大のコーチ時代、東国大も参加する春先の関東私学六大学対抗の開催でやりとりしていた時に、すごくいい仕事をしていた印象がありました。私が東国大をやめるのと同じタイミングで上武大を離れ、この2年間は亜細亜大のコーチとして指導に携わっていたので、その意味では私と同じタイミングで、いまここに行き着いたことになります」
――「紫紺の襷プロジェクト〜Mの輝きを再び〜」に関連して、学校側からは具体的にどのような話を伝えられたのですか。
「大きく言えば、学校としても力を入れていくので、箱根駅伝で学校全体を盛り上げつつ、2031年度にもう1回、総合優勝にチャレンジしてほしいということでした。
プロジェクト最大の目標は7年後ですが、私自身は1年単位で仕事を判断していただくように希望を出しました。やっぱり皆さんから寄せられる期待に対して、自分が応えられているのかどうかを1年ごとに判断してもらわないと、チームは強くなっていかない。指導者として、プロとして結果を求められている以上、あと何年あるから今年はこの結果でいいよね、というのではやはり強くなれません」
――周りからは東国大での実績が高く評価されているので、注目されます。
「ただ、東国大でも私ひとりではなく、学校側が本気で箱根駅伝に向けて多大な協力をしていただき、あと押ししてくれたから結果につながったシーズンもありますし、ある程度、土台を作れたと思います。
私が抜けたあと、1回本戦出場を逃しましたが、すぐに本戦に戻り、シード権を取り戻しました。
現在のチームを指導する中村勇太監督代行がよく選手を見て、しっかり育てています。監督が代わったら、そのあとずっとダメになるというのでは、真のチームづくりではないと思っています。その部分は明治でも変わらずに意識して、指導に当たっていきます」
つづく
●Profile
おおしだ・しゅうじ/1962年5月27日生まれ、岩手県出身。選手歴:盛岡工高―中央大―本田技研工業(現Honda)。中大時代には箱根駅伝に2回出場し、4年時には8区で区間賞を獲得。個人では1500mを軸に活躍し、1986年アジア大会では金メダルを獲得した。現役引退後の1991年からHondaで指導者としての活動を始め、1996年には中大のコーチとして箱根駅伝総合優勝に貢献。2011年に創部されたばかりの東京国際大の監督となり、創部5年目の2016年に箱根駅伝初出場、2020年には初のシード権獲得(5位)に導いた。また、全日本大学駅伝には2019年に初出場でシード権獲得(4位)、出雲駅伝では2022年に初出場初優勝を遂げた。2023年から2年間はHondaのエグゼクティブアドバイザーを務め、2025年4月に明治大駅伝監督に就任した。