21世紀のメディア論や美学をどう構想するか。また21世紀の人間のステータスはどう変わってゆくのか(あるいは変わらないのか)。批評家・福嶋亮大が、脳、人工知能、アート等も射程に収めつつ、マーシャル・マクルーハンのメディア論やジャン・ボードリヤールのシミュラークル論のアップデートを試みる思考のノート「メディアが人間である」。
第10回では、機械と人間にインタラクティヴな共生関係が成立している理由とその帰結について、コンピュータの発明を準備した数学者チャールズ・バベッジの思想と、それに言及したマルクス『資本論』などから読み解く。
1、機械の制約条件としての人間
前回に引き続き「生成」と「AI」の問題を、テクノロジーに即して考えてみよう。複雑系経済学者のブライアン・アーサーは、テクノロジーの「自己組織化」に力点を置いて、その自律的な進化史を(半ばSF的なやり方で)描いた。彼の考えでは、政治や経済がテクノロジーを主導するのではなく、テクノロジーそのものに自らを生成変化させる契機が内在している。テクノロジーがいわば生命体のように、さまざまな変異を起こしながら自らの子孫を再生産するというのだ。
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もっとも、このテクノロジーの生成(自己組織化)は無軌道なものではなく、ヒューマンな限界を課せられている。そもそも、アーサーによれば、テクノロジーの最も基本的な定義は「人間の目的を達成する手段」である(※1)。ならば、人間の知覚や行動の能力に不適合なテクノロジー、つまり「人間の目的」に寄与しないテクノロジーは、原理的には開発可能であったとしても、その生き残りの可能性は狭められるだろう。特に、ITについては「われわれが思考するごとく」(ヴァネヴァー・ブッシュ)という要求が、強い制約条件となる。つまり、人間にとってITが環境であるように、ITからすれば人間が環境となる。インターフェースという概念は、この両者の齟齬やズレを緩和するために要請される。
現代のアーティストがやっているのは、この制約条件に介入することである。メディア理論家のノルベルト・ボルツによれば、アートとは「蓋然性の低さの総体」として理解できる(※2)。つまり、ふつうの条件下ではありそうもないこと、起こりにくいことを、人工的なデザインのもとで実験的に「生成」する――それがアートの役割として期待されている。アートとはいわば定数を変数に変えて、ありそうもないことを現実化するオペレーション(操作/手術)なのだ。特に21世紀のアーティストは、ただ絵や彫刻を制作して終わりというわけにはいかない。作品が鑑賞者の神経システムにどう作用するか、既存の環境や制度にいかに干渉し得るか、政治や経済の諸問題とどう切り結ぶか等々の諸問題を研究しながら「ありそうもないこと」を展示において引き起こさなければならない。アーティストは作品を――ひいては自分自身を――メディアの変異株として機能させるのだ。
ともかく、機械と人間は一方的な支配関係ではなく、お互いの変化をときに加速させ、ときに制約するという関係にある。それにしても、なぜこうしたインタラクティヴな共生関係が成立したのだろうか。ITが人間にとって、強烈な異物ではなく、むしろときにその存在すらほとんど意識させない「スマート」な対象になったのは、なぜだろうか。AIが社会生活に入り込み、人間の思考にも比較的スムーズになじむのは、考えてみればずいぶん不思議なことではないか。
コンピュータやインターネットは現代の人間にとって不可欠のツールとなったが、人間と機械がこれほど深く一体化し共生しているのは、決して自明なことではない。それはたんに「ITの開発者が優秀だから」とか「ビジネスやエンターテインメントのために利用しやすいから」というような即物的な理由には還元できない。結論から言えば、それはわれわれの「知能」のあり方が、ITやAIに適合するようにあらかじめ調律されているからだ。つまり、AIのみならず、人間の知能そのものが歴史的・社会的な構築物なのである。
AIを思想的に考察するとき、しばしば技術史や言語哲学、脳科学などが参照される。私も前回ウィトゲンシュタインを応用して、AIが言語ゲーム(生活形式)の多様性を浮き彫りにすると論じたが、実はそのような「哲学」だけではAIの理解には不十分である。これらの定番のアプローチは、知能に関する社会思想史的な考察によって補完されねばならない。なぜなら、テクノロジーに(アーサーが言う意味での)自律的進化の側面があるのは確かだとしても、その「生成」は当然ながら、常に社会に取り囲まれ、条件づけられてきたからである。
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※1 W・ブライアン・アーサー『テクノロジーとイノベーション』(日暮雅通訳、みすず書房、2011年)40頁。
※2 ノルベルト・ボルツ『グーテンベルク銀河系の終焉』(識名章喜他訳、法政大学出版局、1999年)194頁。
2、バベッジとマルクス
近年、イタリアのオペライズモ(労働者主義)思想を背景とするマッテオ・パスクィネッリは、AIの進化をまさに社会思想史的な観点から捉えるユニークな著作を刊行した。以下、それに沿って論点を示していこう。
AIは「知能」に関するわれわれの偏見を修正するという点で、教育的な装置である。AIによるオートメーション化の期待が高まるにつれて、一見して単純な肉体労働にも思える多くの仕事が、いかに「知性的」で高度な認知能力を要する作業であるかが分かってきた。例えば、クルマの運転は遠からずAIによってオートメーション化されると言われてきたが、テスラのイーロン・マスクが認めるように、完全な自動運転は今なお「ハード・プロブレム」であり、実用化への道は遠い。パスクィネッリが言うように「AI研究のおかげで、トラックドライバーはインテリゲンツィアの神殿に達した」(※3)。クルマの運転を含めて、多くの肉体労働は、実は機械に置き換えにくい知性的な仕事であり、かえっていわゆる頭脳労働のほうが生成AIによってオートメーション化されつつあるのだ。
さて、ここで重要なのは、労働をアルゴリズムに置き換えるというオートメーション化の欲望が、どこから来たのかという問いである。それを考えるには、労働とコンピュータが、実はもともと不可分であったことを知る必要がある。パスクィネッリが強調するように、1820年代以降に階差機関および分析機関を試作し、コンピュータの発明を準備した数学者チャールズ・バベッジこそが、労働(とりわけ分業の問題)とアルゴリズムを結びつけた張本人なのである。
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面白いことに、当時、バベッジの思想の重要性を認識していたのがマルクスであった。マルクスは『哲学の貧困』や『資本論』でたびたびバベッジに言及しているが、そこで注目されたのは、先駆的な計算機科学者バベッジではなく、労働の分業化・オートメーション化のもたらす効率性を追求する経済学者バベッジである。マルクスは『資本論』でバベッジの著作『機械とマニュファクチュアの経済論』(1832年)――産業社会のマニュアルとして当時広範な影響力をもっていた――に依拠して、多くの記述を引用している。以下はその一例である。
仕事を、それぞれに異なる熟練度や力を必要とするいくつかの作業に分けると、工場主は各作業に適合した量の力や熟練度を正確に把握できる。反対に、仕事全体を一人の労働者が果たさなければならないとすれば、同じ一人の個人が、きわめて繊細な仕事に足る熟練度と、きわめてきつい仕事に足る力の両方を持っていなければならないだろう。(※4)
バベッジによれば、経営者が労働者を効率的に管理し、その生産性をあげるには、仕事をいくつかの作業に分割することが望ましい。マルクスはこのバベッジの分業論を根拠として、産業社会の労働者は「特別な機能」をもって規則的に動く「機械部品」になるように強制されると見なした。分業のシステムが整備されるにつれて、労働者はある作業に特化したパーツ(器官)やアルゴリズムに近づく――このようなバベッジ=マルクスの説明を受け入れるならば、労働の分業こそが、労働の機械化=オートメーション化を可能にする条件だと言わねばならない。
もともと、バベッジはカリキュラムの硬直化していた大学よりも、先進的な知識を蓄えた産業社会のワークショップ(作業場)に深い関心をもっており、それが『機械とマニュファクチュアの経済論』にも反映されている。彼のコンピュータの思想も、たんに書斎における抽象的な数学の研究から来たという以上に、産業化する仕事の現場でのディベートや体験に根ざしたものである。ゆえに、パスクィネッリに言わせれば、バベッジは多くの伝記で言われるような数学者というだけではなく、労働環境におけるデザインの最適化とリソースの効率化を試みる「アルゴリズム思想家」として理解されるべきである(※5)。
バベッジは自動化された計算機によって対象を「分析」(analyze)するとともに、労働を「分解」(analyze)してそれぞれのパーツを自動化・機械化するという構想を推し進めた。この両者は決して別物ではなく、むしろ密接に関わっている。コンピュータはたんなる数学や論理の分野の発明ではなく、最初から産業社会における労働のオートメーション化の要求と関わっていた。そこに、バベッジ以来のITが、20世紀以降の社会・経済にも驚くほどスムーズに適合した要因がある。要するに、労働問題こそがコンピュータの思想のコアなのだ。
※3 Matteo Pasquinelli, The Eye of the Master: A Social History of Artificial Intelligence, Verso, 2023, p.2.
※4 カール・マルクス『資本論 第一巻(上)』(今村仁司他訳、ちくま学芸文庫、2024年)643頁。
※5 Pasquinelli, op.cit, pp.54,68.
3、資本に吸収される機械=知能
ここで重要なのは、この労働を代替する機械が、一種の「知能」として現れたことである。労働のオートメーション化は、知能の意味そのものを刷新した。繰り返せば、知能とは社会的・歴史的な構築物である。19世紀の産業社会はまさに労働の分業=分解によって、知能を労働の生産性向上に適した形で再編成したと言えるだろう。私は先ほど「われわれの「知能」のあり方が、ITやAIに適合するようにあらかじめ調律されている」と述べたが、その調律は産業時代においてすでに始まっていたのだ。
この点についても、マルクスに示唆に富んだ記述がある。『資本論』に先立つノート(いわゆる『経済学批判要綱』)のなかで、マルクスは機関車、鉄道、電信、紡績機のような機械をあげて、それらが「人間の手で創造された、人間の頭脳の器官であり、対象化された知力」だと指摘した(※6)。つまり、機械はたんなる労働する装置ではなく思考する装置、つまり頭脳の代替物だというのだ。これは驚くべき指摘である――マルクスは鉄道や電信、紡績機をいわば原始的なAIと見なしたのだから。しかも、これはさほど突飛な考えでもない。現に、バベッジは解析機関を制御するのにパンチカードを用いたが、このアイディアは当時の自動織機(ジャガード織機)で使われていたテクノロジーの応用であった。バベッジによって、自動織機は計算機のプロトタイプとして再創造されたわけだ。
さらに、マルクスにとって、この≪知能を備えた機械≫は孤立したものではなく、社会的な諸関係のなかに組み込まれていた。マルクスは機械が「社会的頭脳」を形成すると見なし、その知やスキルの集積が資本のなかに「吸収」されると考えた(※7)。それは21世紀になって、いっそうはっきりした問題だと言えるだろう。実際、今日のプラットフォーム企業は、まさに「社会的頭脳」の結晶と呼ぶべきビッグデータをユーザーに生産させてはそれを貪欲に吸収し、莫大な富に成長させているのだから。これはショシャナ・ズボフの言った監視資本主義の問題だが(第8回参照)、マルクスはすでにそのことを直観的につかんでいた。
バベッジとマルクスの時代以降、知能は機械といっそう深く同化することによって、社会的な力や経済的な富を生み出してきた。そのプロセスにおいて、機械‐知能‐資本は相互浸透し、グーグルをはじめとするテックジャイアンツを触媒として、自らをどんどん膨れ上がらせていった。今日のAIの隆盛は、このような知の社会史の帰結である。パスクィネッリが言うように、AIによって知識はより一般化され、新しいデータセットやアルゴリズムへと疎外(外化)された。AIの普及は、集合的知識をシステマティックに機械化・資本化することに等しい(※8)。
※6 『マルクス資本論草稿集』(第二巻、資本論草稿集翻訳委員会訳、大月書店、1993年)492頁。
※7 同上、477頁。
※8 Pasquinelli, op.cit, pp.94, 100.なお、ここでは触れなかったが、パスクィネッリはAIの重要な源流としてニューラルネットワークに基づくコネクショニズムをあげて、ノーバート・ウィーナーやハイエクの思想を例にその社会思想史的分析を試みている。
4、労働を高密度化するAI=一般知性
オートメーション化が必ずしも労働者の自由につながらない理由も、以上の知の社会史から理解できるだろう。バベッジの分業論はあくまで労働の生産性の最適化をめざすものであり、労働者の改善を目的とするものではなかった。機械は確かに労働をオートメーション化し効率化するが、その一方で、現場の労働者はしばしば、多大な労力や注意力をたえず要求されることにもなる。
例えば、日々の連絡はインターネットによって確かに効率化された。手紙や電話しかなかった時代に比べると、コミュニケーションのコストは格段に下がった。それは一面では便利だし、歓迎すべきことである。しかし、その反面、休日だろうと夜中だろうとお構いなしにメールが届き、仕事時間と日常時間の境界があいまいになるという事態は、恐らく現代の労働者ならば誰しも経験があるはずだ。要するに、仕事の労力が減ることは、全体の労働量が減ることとイコールではない。
これは決して最近出てきた問題ではなく、むしろ19世紀の産業社会からずっと続く難題である。現に、マルクスは『資本論』で、法律によって労働日の短縮が求められるようになると、資本家は機械によって「同一時間により多くの労働を搾り取る」ようになると指摘している(※9)。つまり、一つ一つの作業は機械によってオートメーション化され、負担が軽減されるとしても、まさにそれによって、一人の労働者に要求される時間あたりの仕事の総量は増えてしまうのだ。労働時間が圧縮され、そこからより多くの労働が搾り出されること――マルクスはそのことを「労働の高密度化」と呼び、その例として、当時のイギリス人工場経営者の次の言葉を引用している。
機械装置の速度が目に見えて高まったために、労働者により大きな注意力と活動とが要求されるようになり、その結果、工場でおこなわれる労働は以前に比べてはるかに増えた。(※10)
このオートメーション化のもたらした弊害は、21世紀のデジタル化した労働環境でも引き継がれている。例えば、生成AIを使って文書を制作すれば、労苦やコストは確かに軽減されるだろう。しかし、そのぶん職場の人員は減らされ、残った少数の労働者がAIをパートナーとして、より過密化した仕事に駆り出されることになる。これはまさに「労働の高密度化」の典型である。知能が機械化・オートメーション化されるほど「労働者により大きな注意力と活動とが要求されるように」なる。なぜなら、オートメーション化はもともと労働者にとってではなく資本家にとっての恩恵だからである。
興味深いことに、マルクスは『経済学批判要綱』において、社会化・機械化された新しいタイプの知能に、英語でgeneral intellect(一般知性)という名を与え、それが社会生活をコントロールするようになると予想した(※11)。このルソーの「一般意志」を思わせなくもない概念は、具体的に展開されることもなく、後の『資本論』では消えてしまうのだが、イタリアのオペライズモの系譜をつぐ論者――パオロ・ヴィルノからパスクィネッリまで――が注目してきたように、この一般知性という即興的なアイディアに、現代の労働問題を考える鍵があるのは確かだろう。
実際、生成AIはまさに「一般知性」の名にふさわしい――それはまさに一般性を備えた知識を広く利用可能にして、労働や学習やビジネスを効率化するのだから。ビッグデータとアルゴリズムに根拠づけられたデジタル世界の生成(generation)は、レイ・カーツワイルの期待に反して、単独性(singularity)ではなく、むしろ一般性(generality)の領野を拡大している。問題なのは、この一般知性が、労働者をしばしば、余白のない緊密な仕事のゲットーに閉じ込めてしまうことである。この構造が解消されない限り、AIが人間を解放することはない。結局のところ、AIは古典的な労働問題を再び呼び戻したのだ。
※9 『資本論 第一巻(下)』89頁。
※10 同上、90頁。
※11 Pasquinelli, op.cit, p.96.
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