松原聖弥は恩師の言葉を糧にプロ野球選手となった 仙台育英ではベンチ外も経験し陸上部に転部

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2025年04月21日 07:30  webスポルティーバ

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「なんで私がプロ野球選手に⁉︎」
第10回 松原聖弥・前編

 プロ野球は弱肉強食の世界。幼少期から神童ともてはやされたエリートがひしめく厳しい競争社会だが、なかには「なぜ、この選手がプロの世界に入れたのか?」と不思議に思える、異色の経歴を辿った人物がいる。そんな野球人にスポットを当てるシリーズ『なんで、私がプロ野球選手に!?』。第10回に登場するのは、松原聖弥(西武)。高校3年夏の甲子園でベンチ入りを逃し、アルプススタンドで太鼓を叩いていた男がプロの世界で大活躍。大変身した背景を関係者の証言からたどっていく。

【太鼓叩きからプロへの道】

 その記事は、仙台育英高校の野球部員が使うトイレの小便器の前に貼ってあった。

「太鼓叩きからプロへ──」

 松原聖弥は昔の記憶をたどるように、懐かしそうな表情で振り返る。

「小便をしながら記事を読んで、『この人すごいなぁ。甲子園で太鼓を叩いていたのに、プロ野球選手になったんだ』って驚きました」

 それは仙台育英OBの矢貫俊之の記事だった。矢貫は身長190センチの大型右腕だったが、高校時代は甲子園のベンチ入りメンバーに入れなかった。アルプススタンドで太鼓を叩く、応援団のひとりに過ぎなかった。その後、矢貫は常磐大、三菱ふそう川崎を経て、2008年ドラフト3位指名を受けて日本ハムに入団する。

 松原は矢貫のシンデレラストーリーを知って、「俺も太鼓を叩こう」と決める。高校3年夏の甲子園メンバーから漏れた松原は、アルプススタンドで応援することが決まっていた。「太鼓なら目立てる」という、ほのかな野心もあった。この時は、まさか自分も矢貫と同じような道を歩むとは想像もできなかった。

 投手なら、矢貫のように晩成型の選手が高校卒業後に大化けするケースはまま見られる。だが、松原のように高校3年夏の大会でベンチ入りを逃した野手がプロ野球選手になり、規定打席に到達するほどの大出世を果たしたケースは今までにあったのだろうか。

 感慨を込めて、松原は言う。

「プロに行くための道が何千通りとあるとしたら、僕なんてたぶん『これしかない』というたったひとつの道をたまたま行けただけだと思うんです」

 大きな分岐点になった高校、大学時代を中心に、松原聖弥の数奇な野球人生を追いかけてみよう。

【慢心とイップスに沈んだ高校時代】

 大阪府出身の松原は、中学時代を大東畷ボーイズでプレー。進路を決めるにあたって、なぜか第一志望校に宮城県の仙台育英を挙げていた。本人は「全然深く考えていなかった」と振り返る。当時の仙台育英は県外からの特待生をとれなかったため、松原は一般受験で仙台育英に入学している。

 だが、入学直後から松原は周囲の目を引く存在だった。当時、監督を務めていた佐々木順一朗(現・学法石川監督)が当時を振り返る。

「最初から『いいものを持っているな』と感じました。バットの使い方がうまくて、腕をシューンと前に伸ばして、さばいてしまうんです」

 同期生の小杉勇太は、松原の打撃を見て「これが大阪か」と衝撃を受けたという。

「バットの芯に当てるのがうまくて、すごかったです。1年生から聖光学院とのB戦(二軍戦)に出て、いきなりフェンス直撃を打って、『すげぇな』と驚きました」

 二塁手だった小杉と遊撃手だった松原はすぐに意気投合し、常にキャッチボールをともにするパートナーになった。小杉は「『ふたりで二遊間のレギュラーをとれたらいいね』と夢物語を語っていました」と振り返る。

 だが、松原には大きな難点があった。小杉があきれたような表情で打ち明ける。

「松原は最後までグラウンドに残って練習するタイプではありませんでした。たまに気合が入るとバットを振る日もあるんですけど、ずっと続くわけではない。その日の気分次第でやっている感じでしたね」

 佐々木が率いる仙台育英は、自主練習の時間が長かった。だが、1年生大会で中心選手として活躍した松原は、「学年が上がればレギュラーになれるだろう」という慢心から自主練習をしなかった。松原は「高校時代は、マジで気分次第でしたね」と笑いつつ、こう続けた。

「だからダメだったんでしょうね。練習を頑張っている周りにどんどん追い抜かれていきました」

 そして松原の高校生活に暗い影を落とす、決定的な出来事が起きる。キャッチボール中、松原が投げたボールが高く浮き、小杉が捕れない暴投になった。折悪く、そのボールの向かう先には松原と同じポジションの先輩がいた。ボールは先輩の鼻に直撃。その事件以来、松原は変調をきたすようになる。

「キャッチボール中に後ろに人が立つと『うっ』と止まって、投げられなくなってしまうんです。それからもその感覚が抜けなくて、どんどんイップスの沼にはまっていきました」

 イップスとは、今まで当たり前のようにできていた動作が、何らかの原因が元でできなくなることを差す。野球界ではスローイング動作でイップスを発症する選手が多く、才能豊かな選手が競技人生を断たれるケースも珍しくない。

 松原とほぼ同時期に、小杉もイップスを発症している。小杉は「イップス同士のキャッチボールなので気は楽でした」と語り、松原は「僕のほうがひどかった」と笑う。今となっては笑い話にできるが、当時は深刻だった。

【センスで乗りきった太鼓叩き】

 高校2年生になると、今まで見たこともないような天才打者が入学してきた。上林誠知(現・中日)である。松原は当時の上林について、こう語った。

「上林は中学時代から有名だったんですけど、入学してきてバッティング練習から格が違うんです。『すげぇのが入ってきたな』と思いましたよ。守備もうまいし、肩も強い。それに、誰よりも練習していましたから」

 打撃センスにかけては、松原も決して負けてはいなかったのではないか。そんな疑問を監督だった佐々木にぶつけてみると、一笑に付された。

「自分の世界があって、誰が何と言おうとやり抜くのが上林で、いつもフラフラしてるのが松原。そこはちょっと違うかな」

 恩師の言葉を本人に伝えると、松原は「そのとおりです」と深くうなずいた。

 送球イップスをきっかけに守備への自信を失い、引きずられるように打撃面も落ち込んでいった。高校2年秋はなんとか二塁手として先発出場したものの、松原のエラーもあってチームは敗退する。

 高校最後の夏、松原はベンチ入りメンバーの当落線上にいた。だが、監督の佐々木が松原に代わって選んだのは、1学年下の熊谷敬宥(現・阪神)だった。

「当時の熊谷は守備だけの人でした。松原は結局イップスが治らなくて、『大事な時に松原のところに飛んだら......』というのがネックになりましたね」

 小杉も松原と同様にイップスだったが、主将としてチームを引っ張る立場からベンチ入りを果たしている。小杉は「応援を頑張るわ」と気丈にふるまう松原の姿を記憶している。

「張り切って応援をやってくれたり、練習ではバッティングキャッチャーを手伝ってくれたり、すごく協力的でした。松原だけでなく、ベンチを外れた3年生もみんな輪のなかに入っていましたね。強くない学年でしたけど、仲だけはよかったので」

 3年夏の甲子園では2勝を挙げ、3回戦で作新学院(栃木)に2対3で敗れた。松原はそれまで太鼓を叩いた経験はなかったものの、「センスで乗りきりました」と語る。

【夏の甲子園後に陸上部へ転部】

 甲子園が終わったあと、松原は佐々木に呼ばれて意外な命を受ける。

「陸上部に行け」

 当時、強豪として知られた仙台育英陸上部の駅伝メンバーの主力10名が一斉に転校する騒動があった。そこで、校内の運動部から1人ずつ陸上部に派遣し、駅伝大会に出場することになったのだ。

 佐々木は松原の「足」を高く評価していた。

「松原はべらぼうに足が速かったですから。ほかの人にはない武器だし、これだけで生きていけるんじゃないかと思ったくらいで。野球では苦労したから、陸上部がああなった時に『行ってみたら?』と提案したんです」

 松原は野球部を退部し、陸上部に転部する。だが、結果的に佐々木が「餅は餅屋でした」と振り返るように、松原は早々に挫折している。

「陸上部は転校せずに残った子たちでもすごくて、全然歯が立たなかったです。練習はきついし、『みんな引退して遊んでるのに、なんで自分はまだ部活やってるんやろ』と思ってしまって......」

 駅伝メンバーから漏れ、松原の陸上人生はあえなく潰えた。

 そして卒業シーズンを迎えた時、松原が「めっちゃ印象に残っています」と振り返る出来事があった。「3年生を送る会」で監督から3年生一人ひとりにメッセージを送る際、佐々木は松原にこう告げたのだ。

「おまえには大いに期待してるよ」

 松原には、佐々木の真意を推し量ることはできなかった。だが、その後も松原は野球人生の折に触れて佐々木の言葉を噛み締めるのだった。

 当時、どんな思いを込めて松原にこの言葉を贈ったのか。そう尋ねると、佐々木はこう答えた。

「彼のいいところは、運動神経がいいところと、関西人特有の超ポジティブなところ。足が速い選手が好きな監督のところへ行けば、芽が出るんじゃないかと思いました。だから明星大の浜井(澒丈/ひろたけ)さんに『足速いのいねぇか?』と聞かれた時に、松原を推薦したんです。浜井さんとの出会いが、あいつの人生を変えましたよね」

 2013年4月、松原は東京都日野市にキャンパスがある明星大に進学する。そこで松原は、1年春から「4番・DH」として壮絶なデビューを飾ることになる。

後編につづく>>


松原聖弥(まつばら・せいや)/1995年1月26日、大阪府生まれ。仙台育英時代、3年夏はベンチ外。明星大では5季連続ベストナインを獲得するなど、チームの中心選手として活躍。2016年に育成ドラフト5位で巨人から指名を受け入団。18年7月31日に支配下登録されると、21年には育成出身選手として初めて規定打席をクリアし、打率.274、12本塁打、37打点、15盗塁をマーク。24年6月にトレードで西武に移籍した。

このニュースに関するつぶやき

  • ベンチに入れなかった選手がプロ野球では1年とはいえレギュラーになったのだからわからないですね
    • イイネ!3
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