
語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第7回】大畑大介
(東海大仰星高→京都産業大→神戸製鋼→モンフェラン→コベルコ神戸スティーラーズ)
ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。
連載・第7回は、1990年代から2000年代を駆け抜けた「世界に誇るトライゲッター」大畑大介を紹介したい。京都産業大3年時に初めて日本代表に選ばれると、15人制だけでなく7人制でも活躍し、ワールドカップにも2度出場して存在感を示した稀代のWTBだ。
※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)
爆発的なスピードを武器に、テストマッチで積み上げたトライ数は「69」。現在でも世界記録として名を残し、日本人ふたり目となる「ラグビー殿堂」にも選ばれたスター選手である。
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「ラグビーは最大の自己表現だった」
大畑大介は、自身のラグビー人生をこう振り返る。
10年以上に渡って桜のジャージ−を身にまとった大畑は、常に「日本ラグビーの顔」として表舞台に立ち、黙々とグラウンドを走り続けた。
ウェールズ戦、フランス戦、アルゼンチン戦......過去の試合を振り返ると、世界の強豪相手から次々とトライを奪ったシーンばかりが蘇る。また、その活躍は15人制だけにとどまらず、1999年の香港セブンズではスコットランドとの決勝戦、ラストプレーで100メートルを独走で走りきって逆転優勝トライを決めるなど、いつもチームの輪の中心には彼がいた。
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その圧倒的なスピードで最初にラグビーファンの度肝を抜いたのは、京都産業大4年時にキャプテンとして臨んだ大学選手権の準々決勝ではないだろうか。
用意された舞台は、地元の大阪・花園ラグビー場。大畑は優勝候補の早稲田大を相手にハットトリックを達成し、69-18という歴史的大勝を飾ったのである。そのスピードはもはや大学ラグビーの枠を超えており、今後の大畑伝説を大いに予感させるものだった。
【試合に出られずビデオ係という屈辱】
大学卒業後の1998年、大畑は神戸製鋼(現・コベルコ神戸スティーラーズ)に入部する。当時、チームの総監督だった平尾誠二氏に「現状に満足してほしくない。うまくなりたかったらウチに来い!」と誘われ、魂が揺さぶられた。
そして入部早々、大畑は神戸製鋼にとって欠かせぬ選手となる。1999年度と2000年度には全国社会人大会と日本選手権を2連覇し、2003年度から始まったトップリーグ初年度でもリーグ優勝に貢献した。
それらの活躍により、大畑はラグビー界でトップアスリートとなった。ただ、その知名度が一般市民にも通じる全国区になったのは、アスリートが運動能力を競い合うテレビ番組『スポーツマンNo.1決定戦』の放送がきっかけだろう。
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2001年の第7回大会に出場した大畑は、いきなり他競技のトップアスリートを抑えて初優勝を飾る(2003年には史上ふたり目となる2度目の総合No.1を獲得)。持ち前のスピードだけでなくパワーも見せつけて、ラグビー界の枠にとどまらない人気を博した。
2000年代初頭の大畑は、まさにスター街道を突っ走っていた。しかし、彼のラグビー人生は決して順風満帆ではない。身長176cm、体重85kgと大きくない体躯で世界と戦えたのは、不撓不屈の精神で日々、努力を重ね続けたからだ。
大阪出身の大畑は、父の影響で小学3年生から競技を始めた。高校は、当時まだ強豪という地位を確立していなかった東海大仰星に進学。高校1年の終わりにSOからFBに転向して足腰のトレーニングを重ねたことによって、のちの驚異的なスピードが生まれたという。
高校2年時、初めて花園に出場するも2回戦で敗退。しかし、当時から目標に向かって努力を続ける「不撓不屈の精神」は変わらず。学校内で使用する上履きには「日本一」と「高校日本代表」と書き、常に上を目指した。
高校3年時、補欠メンバーから繰り上がって、ついに高校日本代表として選出される。しかし、ニュージーランド遠征に帯同するも、出場機会はほとんどなく「ビデオ係」を任された。
その悔しさがあったからこそ、当時の大学で「練習が一番きつい」と評判だった京都産業大に進学する。そこでもたゆまぬ努力を続けたことによって、秘められた能力が一気に開花した。
【ワールドカップ直前に再びアキレス腱が...】
日本代表としては、1999年と2003年のワールドカップ2大会に出場。7試合すべてに先発して、計3トライを記録している。しかし残念ながら、どちらの大会でも勝利を挙げることはできなかった。
2007年のワールドカップでは、なんとしても初勝利を手にしたかった。しかし、その年の1月にリーグ戦で右足のアキレス腱を断裂。ただ、それでもあきらめることはなく、8月に奇跡の復活を果たして日本代表に選ばれた。ところがワールドカップ直前、練習試合で今度は逆の左足のアキレス腱を断裂。無念の帰国となり、3度目のワールドカップ出場は夢と消えた。
2008年、大畑はリハビリに専念した結果、見事にリーグ戦で復帰を果たす。ただ、酷使した体はすでに限界を迎えており、2010年のトップリーグ開幕前に今シーズン限りでの引退を宣言。リーグ戦最後の試合で再び右ひざを負傷し、そのままブーツを脱ぐことになった。
現役時代、大畑が体にメスを入れた手術は合計8回。ケガをしていない箇所を探すのが難しいほどだったという。
「ボロボロになりながら、ここまでよくがんばれた。浮き沈みの激しい現役生活だったが、まったく悔いはない。選手としては終わったけど、ラガーマン大畑大介は永遠に不滅です」
大畑は完全燃焼して、選手生活にピリオドを打った。
為せば成る──。
大畑の座右の銘だ。
数々のトライも鮮明に記憶に残っているが、困難や壁にぶつかっても、何度でも立ち上がり続けた大畑の生き様こそが、多くのラグビーファンの心を打った。