大学中退してパチプロに…50歳男性の「その後の人生」。幸せな同級生たちが“見えないプレッシャー”に…

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2025年04月23日 16:01  日刊SPA!

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 朝から晩までパチンコやパチスロを打ち、勝ち金で生活をするパチプロ。20代ならまだしも、30代、40代となるにつれ、世間の風当たりの強さに足を洗う者も多い。気ままな稼業の代名詞とも言われる彼らは、一体どんな人生を歩んでいるのだろうか。
 今回は前回に引き続き、大学を中退してパチプロとして生きてきたという武井憲二さん(仮名・50歳)が歩んできた壮絶な人生の後編をお届けする。

 ビギナーズラックをきっかけにパチンコの世界にのめり込み、大学を中退して“プロ”の道へと進んだ武井さん。クギを読み、羽根モノで稼ぐ日々を送りながらも、どこか心に引っかかるものがあったという。そんな彼の人生は、ある“再会”をきっかけに大きく動き出す——。

◆羽根モノが減り、不動産屋でバイトを始める

 時代は連チャン機に規制が入り、CR機へと移行が始まった過渡期。武井さんのスタイルにも変化があった。

「羽根モノのリリースが減ったことと、CR機の導入で羽根モノの島が減ったこともあって、打つスタイルを変えざるを得なくなったんです。羽根モノだけでなく、一般電役や現金デジパチも打つようになりました。それと、両親と大学を辞める際に『ちゃんと働く』と約束したので、不動産会社で事務のバイトを週3〜4日やるようになりました」

 アルバイトの日は夕方からホールに行って主に羽根モノを打ち、アルバイトのない日は朝からデジパチや一般電役を終日打つというスタイルが定着し、二足のわらじをうまく履きこなしたと武井さんは振り返る。

「パチンコの収支が月に25万〜30万円くらいあって、不動産屋のバイト代が15万円くらい。バイト代はほとんど手を付けず貯金してました。そういう生活が2年くらい続いたんですが、ある日、不動産屋の社長から『社員にならないか?』と誘いを受けまして。不動産屋はすごくいい雰囲気で、バカ大学を中退した私を社員登用までしてくれるなんて、こんなイイ話はない。でも、なんか自分でその頃の生活に割りきりがつかなかったというか……モヤモヤをずっと抱えていました。

そんなとき偶然、名古屋駅で中学時代のS先輩に会ったんです。その人は超が付くようなヤンキーだったんですが、黒く日焼けしてでっかいリュック背負って歩いてきて『武井じゃねぇ?』って。金髪でソリ込み入ったヤンキーだったのに、ロン毛を後ろで縛ってて、最初は誰?って感じでした(笑)」

◆中学時代の先輩との再会が運命を変える

 聞けば、S先輩はバックパッカーとして世界各地を放浪して、ちょうど帰国したばかりだったのであった。

「暴走族にも入るような人が、バックパッカーになって世界を放浪してきたなんて、そんなことあんの?って思いました(笑)。そのまま、近くで飲んでいろいろ話を聞いたんですが、その話がもう面白くて。S先輩は高校を卒業して、名古屋市内の焼き鳥屋で働いていたんですが、同じ職場にいた先輩が辞めてイギリスの日本料理店で働き始めたそうなんです。ある日、その先輩から連絡があって『1年でいいから手伝いで来ないか?』と。もちろん英語なんて話せなかったそうですが、面白そうと思って二つ返事でイギリスに行くことにしたとのことで。

そこで1年働き、一旦帰国。すると、イギリス時代に知り合ったポーランド人の料理人から誘われて今度はポーランドへ。1年ほど働いてまた帰国して、今度は一人で海外を放浪したいと思い、バックパッカーとなって放浪してきたというんです」

 S先輩の話を聞くうちに武井さんは胸のモヤモヤが晴れていくような感覚を受けたという。その日以来、ほぼ毎日のようにS先輩と飲み歩き、海外の話に耳を傾けた。

「S先輩と会ってから1か月くらいたったある日、不動産屋の社長から呼び出され『そろそろ答えを出してくれ』って言われたので、正直に『海外に行ってみたいんです』って話したら、ウーンってすごい渋い顔で黙り込んで……。そしたら『不動産屋はいつでもできるけど、若い頃の旅はその時しかできないから行ってこい』と言ってくれました」

 さらに社長は「帰ってきて仕事なかったら、ウチにこいよ」と言い、その一言で武井さんは思わず泣いてしまったという。武井さん、22歳のときのことであった。

◆初めての海外はアメリカへ

 その後、実際に海外に旅立った武井さん。S先輩のアドバイスもあって、最初はアメリカ・サンフランシスコに行ったようだ。

「タイとかインドを進められると思ったんですが、アメリカを勧められました。その理由を聞いたら『1か月くらいブラブラしたら、ある程度英語ができるようになるから』って。英語の辞書と地球の歩き方を持ってサンフランシスコに行き、1か月くらいいろんなところを回って、最後はシアトルから帰国しました。英語できなきゃ何にもできないわけで、この1か月は修行としてはよかったと思います」

◆同級生の存在が“見えないプレッシャー”に

 これをきっかけに、武井さんは2〜3か月放浪して帰国。半年ほどパチプロしてお金を稼ぎ、また放浪という生活が始まった。

「けっこういろんなとこ行きましたね。沢木耕太郎さんの『深夜特急』読みながらアジアを列車で回ったり、ニューヨークからニューオリンズまでバスと鉄道で行ったり……。それで帰国すると専業のパチプロ。その頃は羽根モノが随分減ってきてて、メインはデジパチの現金機。私、どうしても分母のでかいパチンコが怖くて打てなくて、CR機はほとんど打たなかったんです。これもスタイルといえばスタイルなんでしょうが……」

 だが、その生活は2年半ほどで終わりを告げる。

「羽根モノや一般電役のリリースがどんどん減って、打てる台というか、打ちたい台がなくなってきたんです、これはそろそろ潮時かなと。それと、同級生たちの存在が“見えないプレッシャー”になってきたんですよね。田舎は結婚が早いので、26歳くらいの当時、私の同級生たちはほとんど結婚してて、なかには家建ててるヤツも普通にいました。3つ年下の妹なんか子供が2人もいて、義弟から『義兄さんはいいなぁ〜自由で』って、寅さんに出てくるヒロシみたいなこと言われたりもしました(苦笑)」

◆放浪をやめて不動産屋に戻るも…

 かくして武井さんは社長の言葉を信じて、バイトをしていた不動産屋に戻ることに。社長は約束通り受け入れてくれ、しばらくはアルバイト、契約社員として働き、28歳で正社員となった。武井さんは英語ができたため、外国人客の対応ができたことで、かなり重宝されたという。

 だが、社長が体調を崩して引退し、息子が戻って跡を継ぐと社内の空気が一変した。

「息子さんは東京の大学を出て、大手のデベロッパーで働いていたのですが、そのやり方を持ち込んじゃったんです。『自社でマンションを建てるぞ!』なんて、威勢のいいことをいきなり就任挨拶で言い始めたんですが、こっちは町の不動産屋に毛が生えたような規模ですから、そんなの無理だし、そもそも同じ不動産でも仕事のやり方も規模も違う。古参の社員から順に毎月のように人が辞めていき、私も嫌気がさして辞めてしまいました」

◆名古屋に帰ってS先輩と再会

 そして、30代半ばにして仕事を辞めた武井さんは、その後また少し旅をしたが、結局名古屋に帰ることにした。そのとき頼ったのは、バックパッカーの道に武井さんを導いたS先輩だったという。S先輩は当時、名古屋市内で飲食店を何店舗か経営する飲食店運営会社で働いており、武井さんはS先輩に誘われるまま飲食業界に足を踏み入れることとなり、今に至るようだ。

「最初の頃は現場で右往左往してましたね。注文間違えて怒られたり、酔っ払いに逆ギレされたりね。いろんなお店を運営している会社だったんで、今日はイタリアンのお店、明日からしばらくは串カツの店、その次はフランチャイズの店で……って。英語ができたので、外国人のお客さんとトラブルになると他の店舗から働いている店舗に電話が掛かってきて通訳やらされたりして、もう、無茶苦茶コキ使われました(笑)」

◆好きなことに一生懸命なら苦労はない

 武井さんの生き様を聞くと、順風満帆とまではいかないが、さして苦労もなく……と思ってしまう。筆者は武井さんにちょっと意地悪に「これまで苦労してないですよね?」と聞いてみた。

「う〜ん……ないかなぁ(笑)。好きなことに一生懸命になるのって、苦労じゃないと思うんですよ。辛い自分になりたくないから一生懸命やるんじゃないかな。それを人は苦労って言うんだろうけど、私はそれを楽しいって思っちゃうですよ。パチンコが好きだったから必死になってクギを覚えたし、海外を自由に旅したいから頑張っていろんな国の言葉を覚えたり。飲食も不動産も、私は人に喜ばれたい、喜ばせたい、困ってる人を助けたいって気持ちがすごくあるんで、客商売はすごく合ってたんです。だから頑張れたんですよね」

 笑いながら「苦労なんかしてないよ」と言い切った武井さん。なんとも羨ましい生き方ではあるが、そんな人生を創り上げるまでの努力はなかなか真似できることではない。

◆今のパチンコをみて驚愕したワケ

 ちなみに武井さん、バックパッカーを辞めてからこれまで、一度もパチンコを打っていなかったという。だが、一度だけパチンコを打とうとしたことがあったのだとか。

「コロナの時、飲食は休業状態だったでしょ。それでやることないからパチンコでも久しぶりに行ってみるかって……。でも、行ってみてビックリした。あんな渋いクギでよくみんな打ってるなって。最近はラッキーナンバー制も定量制もないから仕方ないのかなって思うけど、これはもう、日がな一日パチンコ打って遊ぶって感覚のものではないなと。クギ見て帰りました」

 パチンコ業界、もう少し“遊べる”ようになりませんかね……。筆者もひしと感じてしまった。

文/谷本ススム

【谷本ススム】
グルメ、カルチャー、ギャンブルまで、面白いと思ったらとことん突っ走って取材するフットワークの軽さが売り。業界紙、週刊誌を経て、気がつけば今に至る40代ライター

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