19歳で単身渡米「年商250億円」のグループ企業を築くまで。“4度の破産危機”を乗り越えたアメリカの“敗者復活”文化

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2025年04月24日 16:10  日刊SPA!

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吉田潤喜さん
大学受験に失敗した後、19歳で500ドルを握りしめ単身渡米ーーその結果、“アメリカンドリーム”を掴んだのが、ヨシダフーズインターナショナルジャパン株式会社で会長を務める吉田潤喜さん(75歳)。
アメリカ発の醤油味ベースのたれ「ヨシダソース グルメのたれ」を開発し、4度もの破産危機を乗り越えた人生は、まさに波乱万丈。年商250億円にのぼるインターナショナル企業を築き上げ、現在もヨシダグループの会長として、ビジネスの最前線で活躍している。

アメリカと日本、ビジネスカルチャーが大きく異なる環境で、吉田さんはどのようにして会社を生き抜いてきたのだろうか。

◆大学受験に失敗し、たった一人で渡米を決意

大学受験では英語科目の成績が足を引っ張り、憧れていた立命館大学を落ちた吉田さん。浪人の道もあったが、「なぜ学歴のために1年間を棒に振らなければならないのか」という疑問と、日本での生きづらさを感じたことをきっかけに、単身渡米を決意した。

母親は吉田さんの夢を熱心に応援し、自らの貯金に加え、親戚からの借金までして500ドルを工面した。その資金を握りしめ、彼は19歳で縁もゆかりもないアメリカ・シアトルに渡った。

「渡米当初は、帰りの航空券を売り2〜3ヶ月の間、車中泊生活をしていました。その後、住み込みのハウスボーイとして働きながら、空手の腕前を武器にトーナメントに出場し、賞金を生活費に充てていました」(吉田潤喜会長、以下同じ)

アメリカでの最初の大きな転機は、妻・リンダとの出会いだ。その後、空手道場を開設し、渡米から4年ほど経過したタイミングで、美しい米国人女性に一目惚れする。

「絶対に結婚したいと思い、出会って2週間でプロポーズ。けれども、彼女はすぐには首を縦に振ってくれませんでした。自分の覚悟を示すために、火のついたタバコを自分の手に押し付けて(根性焼き)……。当時の私にはそれ以外に気持ちを伝える方法が思いつかなかったんです。なんとか結婚を受け入れてくれ、その後長い間苦楽を共にしました」

幸福の絶頂を迎えたと思いきや1981年ごろ、レーガン大統領の政権下でアメリカに深刻な不況が訪れた。吉田さんは子宝に恵まれるも、空手道場の経営は次第に厳しくなり、生活は困窮。そんななか、空手道場のクリスマスパーティーで、母がかつて作ってくれたソースを再現してバーベキュー料理をふるまったところ、道場の子どもたちに大好評となった。この出来事が「ヨシダソース」の誕生につながる。

◆コストコで実演販売し、ソースが大ヒット

ソース事業で再起をかけた吉田さんは、一室にこもり、独学でソースの研究開発を重ねた。

「近所にあるマーケットや小さなレストランに足を運びました。そして従業員に試食をしてもらって感想を聞き、味の改良を重ねました」

こうして生まれたヨシダソースは話題を呼び、ソースビジネスを開始してから1年ほどで大手スーパーに置かれるようになった。さらに、アメリカ発祥の会員制倉庫型店「コストコ」との契約話も持ち上がった。

今でこそ世界14か国・地域に展開し、会員数は約1億3500万人に達する有名企業となっているコストコだが、1980年代前半当初はシアトルとポーランドの2店舗のみで展開しており、なおかつメンバーシップ制度自体も一般的ではなかった。

「商品を取り扱っていた大手スーパーは、コストコを脅威に感じていたのか、『コストコと商売をするなら、ヨシダソースの商品は置かない』との脅迫を受けたこともありました。でも、コストコの担当者や企業としての可能性に賭け、結果的にコストコを選択しました」

コストコでは吉田さん自らが店頭に立ち、現在でも代名詞であるカウボーイハットと、着物やゲタといった“日本人っぽい”要素をミックスした格好で実演販売を行う。そのユニークなパフォーマンスが徐々に注目を集め、加えて商品の味のおいしさも相まって大ヒット商品に。1982年には、オレゴン州にヨシダフーズを設立し、本格的に事業展開を始めた。

しかし、順風満帆にはいかないのが人生だ。売り上げの低迷やスノーボード事業の失敗など、50年以上の経営者人生のなかで、4回もの破産危機に見舞われた。

◆義父から受け取った「16万ドルの小切手」

「ヨシダソースを始めてたった2年で売れるようになって。調子に乗ってラジオCMを流したり、プライベートでは金持ちの象徴であるレンガのように大きい携帯電話を持ったり、高級車を買ったり……完全に浮ついていました」

売り上げが伸び続けているにもかかわらず、次第に運営資金が回らなくなった。もう会社を畳むしかないーー深夜に帰宅してガレージで酔いつぶれたとき、妻・リンダが近づいてきた。当然、怒られるかと思いきや、意外な言葉が返ってきた。

「ハニー、好きなだけ飲みなさい。そしたら明日、この家を売って、安いアパートを探しましょう」

彼女の言葉で踏ん張ろうと思った翌日、今度は義父からお呼びがかかった。「娘を返してほしいと言われるかもしれない」と恐る恐る会うと、「マイ・サン、これを使いなさい」と、渡されたのが“1枚の紙”。

「それは、16万ドルというとんでもない額が書かれた小切手でした。義父は30年間ユナイテッド航空で働き、コツコツ貯めたお金を僕に託してくれたのです。そして、このときはじめて、僕のことを息子(サン)と呼んでくれました。なんとしてもこの恩を返すという気持ちが芽生え、しっかり踏ん張って経営に取り組みました」

◆アメリカのビジネスは「敗者復活」一方で日本は…

日本とアメリカのビジネス文化の違いについて、最大の違いは「敗者復活」だと語る。

「アメリカでは、失敗しても妻や義父のように応援してくれる人が多いです。税制ひとつとっても、失敗した起業家を支援する仕組みになっています。一方日本では、一度失敗すると再起が難しく、これが日本の経済発展を妨げる原因ではないかと思っています」

吉田さんは事業の失敗と、そのたびに支えとなってくれた人々との経験を通して、「人生はブーメランだ」という言葉を胸に、恩返しの精神を大切にしている。また、病院への寄付やシングルマザー、がんの子どもへの支援など、さまざまな社会貢献活動にも力を入れている。

「いくら多くのネットワークが形成されていても、恩返しがなければ人心は集まりません。商いとは、単に金儲けをするだけではなく、人の心をつかみ、人と人が支え合うものであると思います。実際、お金儲けがさらなるお金儲けを生むのも、この原理の現れです。

私は『人儲け』という言葉を、若い人や企業の皆さんにぜひ伝えたいと考えています。日本では、売上や業績だけに注目しがちですが、本当の意味での商売とは、ブーメランのように投げた恩が必ず戻ってくるーーそんな信念に基づくものであると信じています」

<取材・文/橋本 岬 撮影/尾藤能暢>

【橋本 岬】
IT企業の広報兼フリーライター。元レースクイーン。よく書くテーマはキャリアや女性の働き方など。好きなお酒はレモンサワーです

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