渡辺久信は運命の一戦でブライアントに痛恨の被弾 森祇晶監督の叱責にグラブを投げつけブチ切れた

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2025年04月28日 07:31  webスポルティーバ

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渡辺久信インタビュー(前編)

 高校時代、甲子園のマウンドで147キロを記録して注目を集め、西武にドラフト1位で入団した渡辺久信氏。プロ入り後は若くして頭角を現し、ノーヒット・ノーランや投手三冠に輝くなど西武黄金時代の一翼を担った一方で、球史に残る一戦での被弾など、数々の名シーンを残してきた。そんな渡辺氏にあらためてプロ野球人生を振り返ってもらった。

【プロ3年目に投手三冠を達成】

── 渡辺さんがプロを現実のものとして意識したのはいつですか?

渡辺 高校1年生の時、夏の甲子園に出場して147キロを記録しました。その後は少し伸び悩んだのですが、高校3年の春、関東大会で148キロを出して優勝。一気に注目を集めるようになりました。プロを意識し始めたのは、その頃です。

 前橋工業高校出身のプロ野球選手といえば、阪神で活躍した野手の佐野仙好さんくらいで、それも10年前のことでした。だから、参考になるような選手もいなかったですし、基準がわかりませんでした。それでも全12球団のスカウトが視察に来てくれて、なかには複数回足を運んでくれる球団もあり、「上位で指名されるかもしれない」と感じました。

── 高野光投手(東海大→ヤクルト入団)の外れとはいえ、1位での入団です。

渡辺 自分も後にGMを務めたのでわかるのですが、当時の私は「100か0」のタイプ。つまり賭けのような存在だったと思います。ただ、普通はそういう将来性を期待するタイプの選手は4位くらいで指名されるものですよね。

── プロで通用するという自信をつかんだきっかけは?

渡辺 プロ2年目、最初は「敗戦処理」からスタートし、次に「勝ち試合のリリーフ」、その後「先発」となって4勝を挙げ、最終的には「ストッパー」にも起用されました。広岡達朗監督の指示でした。結果として43試合に登板し、8勝11セーブ。投手のすべてのポジションを経験できたことが、プロ3年目(1986年)の「最多勝」「最多奪三振」「最高勝率」獲得につながったのだと思います。

── 西武は広岡監督のもと、1982年と1983年に日本一、1984年に3位、1985年にまたリーグ優勝を遂げ、1986年から森祇晶監督の体制になりました。

渡辺 当時は東尾修さんがエースとして君臨していましたが、高橋直樹さん、松沼博久さん、松沼雅之さん、森繁和さんらから、郭泰源さん、工藤公康さん、そして私といった若手への、まさに新旧交代の時期でした。

── ライバル意識を持ちながら、切磋琢磨していたのですね。

渡辺 いえ、じつはライバル意識はあまりなくて、郭泰源さん(4歳上)、工藤さん(2歳上)と、若手同士で刺激し合っていました。郭さんはレベルが違う投手でしたね。昔は先輩が後輩に技術を教えることは少なかったようですが、私は工藤さんから縦割れのカーブを教わりました。

【ノーヒット・ノーランは交通事故⁉︎】

── プロ7年目までに15勝以上は4回、最多勝を3度獲得しました。西武黄金時代のエースにおけるピッチングのポリシーは、「ストレートで押す」ですか?

渡辺 ストレートで押す投球は、投手として大きな魅力です。ただ、プロ4年目に肩を痛めてからは、フォークやスライダーを使い始めました。「エース」と呼んでいただけたのは、1989年や1990年に220イニング以上を投げ、ローテーションをしっかり守ったことが評価されたのだと思います。チームに貢献できたからこそ、そう呼ばれたのでしょう。

── 昨年のパ・リーグ最多投球回は有原航平(182回2/3・ソフトバンク)、セ・リーグは東克樹(183回・DeNA)でした。

渡辺 今の首脳陣からすれば、そういう投手は本当にありがたい存在でしょうね。

── 現役生活15年のなかで一番印象に残っている試合は、1996年のノーヒット・ノーランですか?

渡辺 いえ、あれは"交通事故"のようなもので......(苦笑)。それよりも一番印象に残っているのは、1989年10月12日、近鉄に逆転優勝を許してしまった試合です。ラルフ・ブライアントに、ダブルヘッダーで1日4本塁打。その1試合目に、私が3本目を打たれたんです。6回表、西武が5対1でリードしていたところで、郭泰源さんがブライアントに満塁本塁打を浴びて同点に。8回に私がリリーフとして登板しました。

── その年のブライアント選手に対しては、打率.222と抑えていましたよね。

渡辺 はい。私は前々日に131球を完投していましたが、「ブライアント封じ」のために登板しました。低めのフォークも考えましたが、高めに浮いてレフトに持っていかれるリスクがあるので避けました。1ボール2ストライクから決め球に選んだのは、これまで何度も空振りを奪っていた高めのストレート。しかし、それをライトポール際に特大の48号。片膝をついて打球を見送る私の姿が、何度もニュースで流れました。

── 伊東勤捕手も「データどおりだから、決め球の選択は間違っていない。後悔はしていない」と話していました。

渡辺 伊東さんも「あの日のブライアントにはオーラがあった。普段は打てない球を打った。神がかっていた」と言っていました。

── 過去の名場面を振り返るスポーツ紙のコラムに、「ベンチに戻った渡辺投手は、森監督に『ナベ、なぜフォークを投げ投げなかったんだ』と問われ、思わずベンチにグラブを投げつけた」とありました。

渡辺 ええ、あの時は思わずブチ切れてしまいました(笑)。その後、私自身も監督を経験しましたので、監督の気持ちも理解できるのですが、ああいう場面で結果論を選手にぶつけるのはどうなのかな......という思いでした。

── 先程、印象に残るシーンとして、ブライアント選手に打たれた試合を挙げられましたが、勝った試合で思い出に残っているのは?

渡辺 プロ3年目、1986年の最終戦ですね。この年、最多勝、最高勝率のタイトルを僅差で争っていて、どうしても最終戦で1勝を挙げたかった。試合は途中までリードしていて、私は4回からリリーフ登板しました。しかし、打たれて逆転を許し、「このままでは黒星がついてしまう」と。

 それでも9回表まで投げ抜き、その裏の攻撃を祈る気持ちで見ていました。すると、ルーキーだったキヨ(清原和博)が2点タイムリーを放ち、サヨナラ勝ち。この勝利で私は最多勝、最高勝率に加え、最多奪三振のタイトルも獲得し、「投手三冠」を達成しました。本当に大きな1勝でした。

中編につづく>>

渡辺久信(わたなべ・ひさのぶ)/1965年8月2日、群馬県出身。前橋工高から83年のドラフトで西武から1位指名を受け入団。2年目に8勝11セーブを挙げ、リーグ優勝に貢献。86年には最多勝、最高勝率、最多奪三振のタイトルを獲得するなど、西武黄金時代の中心投手として活躍。98年、ヤクルトへ移籍。99年から2001年は台湾・勇士隊で選手兼コーチとしてプレー。引退後は解説者を務め、04年から西武二軍コーチ、05年は二軍監督を兼任し、07年は二軍監督専任。08年に一軍監督に昇格し、就任1年目で日本一に導く。13年限りで退任し、シニアディレクターに。19年からGMとなり、昨年は5月28日から監督代行を兼任し、チームの指揮を執ったが、シーズン終了後に退団

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