
【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.2
有森裕子さん(後編)
日本が誇るレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回は1992年バルセロナ、1996年アトランタと2大会連続でマラソンに出場し、いずれもメダルを獲得した有森裕子さん。全3回のインタビュー後編は、自身二度目の五輪となる1996年アトランタ五輪への挑戦、その後にゆっくりと長い時間をかけてたどり着いた引退の決断について聞いた。
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【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶
【再び代表選考問題の渦中に】
1995年8月27日に開催された北海道マラソンは、翌年夏開催のアトランタ五輪での戦いを想定し、五輪の代表選考レースのひとつに指定されていた。
有森裕子は山口衛里(天満屋)を意識しながら最初から逃げを打ち、そのままトップでゴールした。ゴール付近では両親がひまわりに「フェニックス(不死鳥)」という花を交ぜた花束を持って待っていた。引退覚悟のレースで優勝したことを誰よりも喜んでくれた。有森は2時間29分17秒の大会新記録で優勝、アトランタ五輪の参加標準記録をクリアした。
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「正直、よくここまで戻ってきたなと思いましたね。(リクルートの小出義雄)監督もビックリしていました」
夏のレースで標準記録を破って優勝したことで暑さに強いことを証明し、メダリストであり、経験も豊富ということでマラソン女子代表の有力候補になった。
だが、また「選考問題」が生じた。
アトランタ五輪の選考レースは、北海道マラソン、東京国際女子マラソン、大阪国際女子マラソン、名古屋国際女子マラソンの4レースだった。北海道は有森が優勝、東京は1993年世界陸上で金メダルの浅利純子(ダイハツ)が優勝、大阪は初マラソンの鈴木博美(リクルート)が2位、名古屋では真木和(ワコール)が初マラソンで優勝した。タイムは鈴木が2時間26分27秒でトップだった。
「この時、タイムは私が一番遅かったんです。でも、夏の北海道マラソンに優勝したことで拾われました。(選ばれなかった)鈴木さんは、たぶん納得できていなかったと思います。タイムが一番よかったので、監督も『お前が出たら金メダルを獲れる』と言っていました。
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でも、彼女はすぐにマラソンから10000mに切り替え、日本選手権で優勝、アトランタ五輪の出場権を獲得した。すごいなと思いましたね。この時もマラソンの選考基準が曖昧だったので、バルセロナに続いて選考問題が起きた。こんなことが続くのはおかしいと思っていました」
マラソンの選手選考の問題は、その後、MGC(マラソングランドチャンピオンシップ)の開催で大きく改善された。MGCは、2年間で対象レースのなかから自分が走るレースを決め、それを選んだ選手、監督が自らの結果に責任を負う。そこで出場権を得た選手が最終的にMGCで決着をつけるシステムだが、それは有森たちの選考問題があって整備されたと言えよう。
【4年前と違い、メダルを獲らないといけなかった】
アトランタ五輪の代表に選出された有森は、4年前のバルセロナの時とは異なる心情でスタートラインに立った。
「この時は、何色でもいいのでメダルを獲らないといけないと思っていました」
バルセロナ五輪以降、ケガに悩まされたが、一番苦痛だったのはメダリストが新たな道を歩もうとする際にぶつかる周囲の無理解だった。有森は、円谷幸吉が東京五輪で銅メダルを獲り、その後、「もう走れません」と遺書を残して自死した時代とは違い、メダルはこれからさらに輝いていくための手形になると考えていた。
だが、実際にメダリストになり、プロ的な生き方を望めば中傷され、厄介者扱いされた。メダリストであることに生きづらさを感じた有森は、飾っていたメダルを引き出しにしまった。たまに見ると黒くくすんでおり、なぜメダリストが思うように生きることができないのか、その思いが募り、泣きながらメダルを磨いた時もあった。
「バルセロナで銀メダルを獲った後、自分が強くなりたいという流れに乗れない。メダルを糧に頑張って生きていこうというのがはばかられるみたいな感じでした。スポーツ選手として、自分の能力や技術を生かして生きていくことがなぜできないのか。そこになぜアマチュアリズムが強調され、『金儲け』『わがままな生き方だ』と言われてしまうのか、納得がいかなかったです。
メダリストが先を描けない人生はおかしい。この状況を変えるには、もう一度、メダルを獲って声を上げるしかないと思いました。メダルはある意味、印籠なのです。プロという概念がなかったこの時代、ものを言えるのは五輪のメダリストだけ。そう思ってメダルを獲りに行きました」
レースは、エチオピアのファツマ・ロバが快走して優勝し、有森は30km過ぎに勝負に出たが、バルセロナ五輪で負けたワレンティナ・エゴロワ(ロシア)に抜かれた。最後、ドイツのカトリン・ドーレに6秒差まで追い上げられたが、振りきり、空を見上げ、まるで何かに許しを請うようにも見える複雑な表情でゴール。2時間28分39秒で銅メダルを獲得した。
レース後のインタビューではこう答えた。
「メダルの色は、銅かもしれませんけれども......終わってから、なんでもっとがんばれなかったのかと思うレースはしたくなかったし、今回はそう思っていないし......初めて自分で自分をほめたいと思います」
【3大会連続の五輪出場を逃す】
汗と涙にぬれた表情でそう語った。その時の心情はどういうものだったのか。
「バルセロナ以降のことをいろいろ思い出して、大変でしたけど、よく(メダルを)獲ったなと思いました。自分で自分をほめたいというのは、素直な気持ちで、(歌手の)高石ともやさんから聞いていた言葉を自分の中に落とし込んでいたのがふっと出てきたんです」
「自分で自分をほめたい」は、その年の流行語大賞になるほどのインパクトを与えた。
レース後、有森はすぐにプロ化推進の活動を始めた。それまで日本の陸上選手の肖像権は、選手からの預託を受けた陸連が、JOC(日本オリンピック委員会)に一括して委託していた。そのため、JOCのスポンサー企業に対してのみ、CM出演が許されていた。
そこに有森は異を唱え、JOCのシンボルアスリートから外れる道を選び、肖像権の自主管理を主張した。日本のプロランナー第1号となり、JOCと関係なく、CMに出演。その後、JOCは選手の肖像権の一括管理を断念した。
「それまで肖像権を主張することさえできず、JOCの『がんばれ!ニッポン!』キャンペーンで当たり前に自分たちの映像が使われていることに対して、おかしいとも言えなかったんです。ただ走って勝てばいいではなく、自分の人生なのだから自分で生きていく感覚を身につけていかないといけない。この肖像権の問題を含めて、ひとりひとりの選手が自立し、自分の足で生きていくという感覚を持てるようになったのはすごくよかったです」
アトランタ五輪後、有森は2年8カ月ぶりのレースとなるボストンマラソンに出場し、2時間26分39秒で3位入賞を果たした。その勢いのまま2000年シドニー五輪での女子マラソン代表を目指したが、選考レースの大阪国際女子マラソンで9位に終わり、3大会連続での五輪出場はならなかった。
シドニー五輪は女子マラソンのゲスト解説を務め、リクルート時代の後輩だった高橋尚子(積水化学)の金メダルを見届けた。その時、ある思いがよぎった。
「シドニー五輪でQ(高橋尚子)が金メダルを獲った時、彼女のスタイルでやれば結果がついてくることがわかって、自分もそうすればと思えたらよかったんですけど、そうはならなかった。プロなら意地でもそうすべきなのに、言い訳ばかりしている自分はもうプロじゃない。自分にがっかりしました」
【「私にとってマラソンは仕事」】
2001年11月の東京国際女子マラソンを走った後、休養に入り、立ち上げた会社での仕事に没頭した。そして、シドニーの高橋に続き、アテネ五輪で野口みずき(グローバリー)が金メダルを獲得したレースもゲスト解説し、彼女たちの走りを見るなかで気持ちが固まっていった。
「私にとってマラソンは仕事。走れればいいってものではなく、2時間30分を切れないようなレベルならやらないほうがいい。仕事として成り立たないからです。もうひとつビジネスをしていたわけですけど、どちらかがうまくいかないと、どちらかのせいにしていました。二兎を追っても自分を高めるものがなかった。最終的にどちらを選ぶのかというと、マラソンは仕事にならないので、2007年に引退を決めました」
引退レースは、大阪国際女子マラソンや名古屋国際女子マラソンが候補に挙がったが、あえて市民ランナーも参加する東京マラソンを選択した。大阪や名古屋は、選ばれた選手が勝負する舞台であり、自分の引退レースをそこにぶつけてはいけないという気遣いからだった。
有森は、なぜここまで走り続けたのだろうか。
「走ることが仕事だからでしょうね。生きていくためには走るしかなかった。そこに目標と意味がないと自分からは走らないです。市民マラソンのゲストで5kmを一緒に走ってくださいと言われたら、それは自分のためではなく、皆さんのために走ります。ただ、来年、還暦なので、記念にマラソンを走ろうと思っています。それを最後にフルマラソンはいっさいやらないぐらいの覚悟でやろうかなと(笑)」
最後のマラソンを終えた時、有森は果たして、どんな言葉を残すのだろうか――。
(おわり。文中敬称略)
有森裕子(ありもり・ゆうこ)/1966年生まれ、岡山県岡山市出身。就実高校、日本体育大学を経て、リクルートに入社。1990年に大阪国際女子マラソンで初マラソン日本最高記録(当時)を樹立し、さらに翌1991年の同レースで日本記録(当時)を更新。同年の東京世界陸上で4位入賞。1992年バルセロナ五輪で銀メダルを獲得。その後は故障に悩まされるも、1996年アトランタ五輪で銅メダルを獲得。2007年にプロランナーを引退後は、国内外のマラソン大会等への参加や『NPO法人ハート・オブ・ゴールド』代表理事として「スポーツを通じて希望と勇気をわかち合う」を目的とした活動を行なっている。また、国際的な社会活動にも取り組んでいる。マラソンの自己最高記録は2時間26分39秒(1999年ボストン)。