倉田真由美が語る、夫の「抗がん剤を使わない」という選択…「命を丸投げ」しない生き方

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2025年05月04日 12:01  サイゾーオンライン

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倉田真由美氏(写真=石川真魚)

 漫画家の「くらたま」こと倉田真由美が、2月に著書『抗がん剤を使わなかった夫〜すい臓がんと歩んだ最期の日記〜』(古書みつけ) を出版した。映画プロデューサーで夫の叶井俊太郎が、すい臓がんで余命宣告を受けてから「標準治療を受けない」と決断し、56歳で亡くなるまでの1年9カ月の日々を倉田の視点でつづったものだ。

 本作は夫婦の愛の物語であると同時に、「抗がん剤を使わない」という選択に焦点を当てた、一種のタブーに踏み込んだ作品だ。発売2カ月で3刷により累計発行部数1万部を突破し、Amazonのがん関連売れ筋ランキングで1位を獲得するなど話題を呼んでいる。

 なぜ倉田は夫との日々を本にまとめようと思ったのか、標準治療を受けないという選択は患者や家族にどんな生活をもたらしたのか。今回は倉田にインタビューし、がん患者やその家族、今後重い病気になるかもしれない人たちへの「伝えたいこと」を語ってもらった。

『抗がん剤を使わなかった夫〜すい臓がんと歩んだ最期の日記〜』(古書みつけ)
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■商品情報
書籍名:「抗がん剤を使わなかった夫 〜すい臓がんと歩んだ最期の日記〜」
ISBN:978-4-9912997-3-5
発売日:2025年2月14日
サイズ:四六判/208ページ(予定)
価格:1,650円(税込)
発行所:古書みつけ
販売元:日販アイ・ピー・エス株式会社

「情報がない」という大きな不安

 大ヒット作『だめんず・うぉ〜か〜』などで知られる倉田は、2009年に映画界の名物プロデューサーだった叶井と結婚。叶井は海外の映画買い付けや宣伝などを手がけ、『八仙飯店之人肉饅頭』『キラーコンドーム』『ムカデ人間』『キラーカブトガニ』といった数々のカルト作品を世に送り出した。ポップなフランス映画『アメリ』をホラーと間違って買い付け、若い女性を中心に想定外の大ヒットになったという逸話も有名だ。

 叶井は2022年6月にすい臓がんと診断され、余命半年の宣告を受けた。当初のステージは「3寄りの2b」。すい臓がんは「早期発見や治療が難しいがん」として知られており、抗がん剤でがんが小さくなって手術できたとしても、ステージ2の5年生存率は2割ほどとされ、すべてのがんの中でもかなり低い。

 倉田と共に病院を巡ってセカンドオピニオンを聞いて回った叶井は、抗がん剤や手術、放射線治療といった「標準治療」を受けないという決意を固める。人生に何の未練もないといい、「治療や手術で痛い思いをしたり苦しんだりしたくない」という思いから、標準治療を拒否したのだ。

 当初、倉田は「抗がん剤を使わなければ死期が早まるのでは」と不安だったというが、夫の決断を支持し、彼を支えながら横で見守り続けた。その後、がんはステージ4まで進行するが、叶井は以前とさほど変わらない生活をしながら仕事を続行。結果として「余命半年」の宣告を大きく上回る、1年9カ月後の2024年2月に自宅で亡くなった。

 叶井をそばで支え続けた倉田は、彼との日々を本書にまとめた理由をこう語る。

「夫が標準治療をやらないと決めた時、同じような状況の人たちはどうしたんだろうと思って調べてみたのですが、体験記やデータとか、そういったものがほとんどないことが分かりました。がんの闘病記って基本的に標準治療をする人の話なので、そうじゃない人のものはほぼ見つからない。あったとしても、高齢の末期がん患者のようなケースですが、それすらもあまりないのが実情です。そうした状況もあって、抗がん剤をやらないという選択肢を選びにくいんですよね。それにもし抗がん剤をやりたくないと思っている人がいたとしても、標準治療をしないのは愚かだとか、命を無駄にしているみたいに言われてしまう。とくにSNSなどを見ていると、その圧がとても強く感じられます。

 でも自分の命なのですから、どうやって生きようが死のうが、すべて責任を取るのは自分じゃないですか。それなのに大半の人は、なんとなく病院に行って、医者の言いなりで治療をしている。それがいいと思っているのだったらいいのですが、そうじゃない人は『標準治療をしない生き方』のガイドとなるものがないので、どうしたらいいか迷ってしまいます。私も何より情報がなかったことが最初の大きな不安だったので、この本で抗がん剤を使わなかった人間がこういうふうに生きて、こういうふうに亡くなったということを、一例として提示できたのはよかったと思っています。標準治療を受けないという選択肢があっていいはずですし、それを実行した夫は一度も後悔を口にしませんでした」

最後まで「食」を楽しみ続けた

 本書で印象的なのは、叶井が末期がん患者とは思えないほど「食」を楽しんでいる様子だ。病院食のようなものとはまったく異なる、好きな刺身やジャンクフード、ケーキなど、健康な人間とさほど変わらないメニューと、好物を食べた時の彼の幸せそうな反応などが詳細に記されている。

「夫は下戸でお酒を全然飲まないので、その分、食べることがふつうの倍くらい好きでしたね。夫は最後まで好きなものを食べました。亡くなった当日だけはなにも食べられなかったけど、前日までは好きなものを食べていましたから。だって亡くなる前日に『ファミチキ』を食べているんですよ」

 叶井にとって「食」は人生の大きな楽しみだった。もし入院して抗がん剤などの標準治療に入っていたら、そのような食生活を送ることはできなかっただろう。食の楽しみが「人生の最後」の活力になっていたのは想像に難くない。

倉田は夫の決断をサポートし、よりよい道を模索するため、標準治療以外の方法を提示する開業医などを訪ねて意見を聞いた。ただこれも難航したという。

「開業医の中には、独自で勉強しているような人たちがいて、それぞれ抗がん剤などに対する意見がかなり異なります。中には『抗がん剤なんてやっても、寿命が延びない代わりに苦しい期間が延びるだけだよ』とハッキリ言う医師もいました。ただ、そのような抗がん剤を使わない方法に対応したり、相談に乗ったりしてくれる医師はすごく少ないです。探すためのガイドもないので、自力でそういう医師を見つけるしかない。自分で頑張って探す努力をしないと、セカンドオピニオンを聞こうが、サードオピニオンを聞こうが、一般の病院では標準治療をするべきだという、同じことしか言われません。このような状況も、抗がん剤をやらないという選択肢が広まらない原因だと思います」

誤診から始まった闘病……「すべて医者任せ」の危険性

 どうしても、私たちは「病気のことは素人に分からないから、とにかく大きめの病院にかかって医者に任せれば安心」と思いがちだが、倉田はそのような考え方は危険だと説く。

「ほとんどのお医者さんって『素人考えはよくない』『全部プロに任せなさい』と口をそろえて言うのですが、すべてプロに任せていたら逆に危ないと私は思っています。実際、ウチの場合がそうでした。夫の具合が悪くなって黄疸(すい臓がんの症状)が出ていたのですが、最初に診察を受けた病院で『胃炎だ』と誤診されたんです。都内の大きめの厚生病院でしたが、薬をもらった程度で診察は終わってしまいました。もしその診断を信じていたら、すい臓がんだと知らないうちに胆管が詰まって胆管炎になり、そのまま敗血症で早い時期に死んでいた可能性は十分にありました。

 その場合は敗血症で亡くなったことになりますから、本人も家族も最後まですい臓がんが隠れていたことにすら気づかない。そうしたら『まさかこんな急に……』なんて言いながら真実を知らないまま夫を見送っていたでしょうし、この本も書くことがなかった。そんなふうに本当の病気に気づかずに亡くなったり、家族を見送ったりした人は世の中にたくさんいるでしょう。だから、私は自分や家族の命に関わることで『医者に丸投げ』はよくないと思います。丸投げしたほうが気持ちが楽だという人はそれでもいいでしょうが、私はそうはしない。ちゃんと自分で考えて動かないと命取りになることがあります」

 叶井は標準治療を選ばなかったことで、亡くなるまで自宅で家族との日々を過ごすこともできた。

「夫は家で死にたいと言っていましたから、自宅で最期まで看取ることができたのはよかったです。これは私にとっても本当によかった。だって、夫がいつも一緒にいてくれたもの。もし病院に入院していたら面会時間しか会えませんから、当然ながら一日のうちで顔を見られない時間のほうが長くなります。自宅で過ごすことで、夫が『リンゴ食べたいなあ』と言ったら皮をむいてあげたり、お茶を入れてあげたり、身体が辛かったら肩や脚を揉んであげたり、日常のちょっとしたことをたくさんしてあげられた。それはどれも、一緒にいるからしてあげられたことばかりなんです」

元気すぎるがん患者「自転車で雪道疾走」

 この日々は患者だけでなく、家族にとってもかけがえのない時間になった。そう考えると、標準治療という選択は「誰にとっても最善なのか」という疑問が浮かぶ。

「医療界では、抗がん剤を使った治療が一番いいとされています。医師は学生のころからそのように勉強してきていますし、上からのお達しもそうですから、大きな病院に属している医師は標準治療以外の選択肢を提示することはできません。でも『最高の治療』であるはずの標準治療を受けても、亡くなる時は早く亡くなりますし、日本人の死因は長らくがんがトップクラスのままです。それなのに標準治療を受けた人は『よくがんばった』と言われ、受けなければ『愚かだ』と言われちゃうのはおかしいんじゃないかと思いますね」

 抗がん剤を使わないという選択をした叶井は、結果として余命宣告よりも大幅に長く生存し、寝たきりになるようなこともなく、亡くなる直前まで健常者と大きく変わらない生活の質を維持した。

「がん患者の亡くなり方としては、抗がん剤をやって効かなくなると別の薬をやって、延々と続く副作用で身体がボロボロになり、最後は『病院にできることはありません』となって、衰弱した状態でホスピスに移って最期を迎えるパターンも少なくない。自分で納得して選んだならそれも一つの選択なのですが、夫は医師や病院に丸投げせず、抗がん剤を使わなかったからこそ、亡くなる直前まで元気だったのかなと思っています。

 これは解釈次第なので本当のところは分かりませんが、夫は亡くなる10日くらい前、雪が降りしきる中を自転車で20〜30分くらいかけて家まで帰ったりもしていました。私も後ろから自転車でついていったのですが、顔に雪がバシバシ当たって、病気じゃない私でもヘトヘトになるくらいだったのに。少なくとも、私の知っている抗がん剤を使った人で、そんなに元気だった人はいません。フジテレビのドキュメンタリー番組の取材依頼があった時、ディレクターの方も『こんな元気な末期がん患者を見たことがない』と驚いていました」

 本書の帯にコメントを寄せた経済アナリストの森永卓郎氏(今年1月にがんで他界)のケースも、その選択が「間違いでなかった」と思える根拠になった。

「森永卓郎さんは抗がん剤を一度やって、体力がガクンと落ちてしまった。ちょうどそのころ、私はLINE通話で森永さんとお話しさせていただく機会があったのですが、本当にヘロヘロの状態でしたね。あれでもう、抗がん剤は二度とやらないと決めたそうです。そのおかげか、森永さんも『余命4カ月』という宣告より10カ月ほど長く生きられて、亡くなる前日までラジオに電話出演されるなど、ずっと仕事されていました。好きな物も食べられて。そういうところも夫と似ていました」

見送る側の家族に伝えたいこと

 その一方、倉田には後悔もあるという。患者の家族に伝えたいこととして、倉田はこのように語る。

「夫が食べたがったものを食べさせてあげられなかったことがいくつかあったので、それに関しては後悔がありますね。たとえば、あのときモツ鍋を食べさせてあげられなかったとか、キャビアを食べさせてあげられなかったとか。食べさせようが食べさせまいが、もう相手は亡くなっているのだから、今さら考えたところで何も変わらない。でも、相手が亡くなってもすべて『無』になるわけじゃないんですよ。ずっと心の中に『あの時、してあげられなかった』という後悔として残っちゃうんです。

 私が夫を看取った経験から、見送る側のご家族に伝えたいこととして、相手がなにか欲しがったり、なにかをしてもらいたがったりした時、『まあいいか』とか、『今度にしよう』とか、そう思ってできなかったことがあると消えない悔いが残るから、できる限り相手の希望はかなえてあげてほしいと思います。自分のためにもね」

「標準治療を受けない」という選択肢のタブー感を払拭する使命

 本書において、倉田は標準治療を否定しているわけではない。がんの進行度に関わらず「標準治療が絶対に正しい」という風潮が強すぎる現状を憂い、抗がん剤を使わなかった夫の生きざまを別の選択肢として世に提示し、これから同じ道を歩もうとする人たちの道標にしようとしているのだ。

「もちろん、標準的な医療に頼らないとどうしようもないこともたくさんあります。夫の場合だと、胆管の閉塞を解消するステントを入れる手術や、胃と小腸をつなげるバイパス手術などを受けました。こればっかりは自分でしようとしてもできませんから医療に頼り、自分で決めることは自分で決める。どれを医療に頼り、どれを自分で決めるか、私たちはそれを選択できるわけです。ですが、多くの人はその選択肢があることすら分からず、病院に丸投げで『先生、お任せします』となってしまう。

 間違えようのないような病気であれば任せて安心でしょうけど、がんに限ったことじゃなく、医師もなんらかの誤診をしたとしてもおかしくはないと思います。その誤診の率が高いか低いかは、かなり個人で差があるんだろうなと思いますし、これは外から分からないのが恐ろしい。飲食店だったら、食べログを見たらある程度おいしいかどうか分かるかもしれないけど、病院の口コミって本当に参考にならない。とくに大きな病院だと、1つの科に何人も先生がいて、名医とヤブ医者が混在していることがあるわけですから」

 「標準治療をしない」という選択肢は一つの生き方として尊重されるべきもののはずだが、SNSなどでは風当たりが強く、メディアでも一種の「タブー」扱いとなっている。

「この情報化社会においても、抗がん剤を使わないという選択肢が伝播してこなかったのは、それがメディアなどでほとんど扱われてこなかったことも影響していると思います。実際、私も夫が標準治療を受けなかったことについて、あるメディアで『あまりそこをフィーチャーして話をしないでください』とくぎを刺されたことがあります。そのようなタブー感を払拭していきたいという思いがありますね。

 だって、何にも悪いことではないから。抗がん剤はすごく強い薬ですから、ただでさえ病気で弱っている身体をますます弱らせることになります。がんが進行した患者などに対して、はたしてそれがどのくらいの意味があるのか。意味があると思う人は納得したうえでやればいいと思いますが、やらない人を否定するような世の中であってはいけない。自分の命なんだから、自分で選択するべきです」

 大事なことは自分で考えて自分で決める。ごく当たり前のことのように聞こえるが、倉田はこのように警鐘を鳴らす。

「病気に限ったことではありませんが、上が決めたことに全部従いますみたいな人が増えたらいけないと思うんですよ。コロナの時もそうだったけど、上が決めたからそうしましょうとか、それに従うしかないよねとか、自分の頭で考えずに従う人が多くなってしまうと、もし上が間違っていた時に取り返しのつかないことになります。戦争だって同じですよね。一部の人間が『戦争しよう』と決めて、それに多くの人たちが自分の意思と関係なく従うから起きてしまう。自分の頭で考えて、時には上の決定に逆らうということもできる人が増えないと、国としてよくないと思います。まずは『自分の生き方や死に方は自分で決めましょう』という、当たり前のことを伝えていきたいですね」

 本書を出版したことで、倉田はある思いを強くしたという。

「この本で抗がん剤を使わないという選択肢があると提示できたことで、『これを人に伝えなきゃ』という、自分の使命がはっきりしました。『だめんず・うぉ〜か〜』の時は、ダメ男と付き合ってしまったらいつ別れてもいいんだよ、ダメ男で失敗しているのはあなただけじゃないよ、くらいのことを伝える感じだったのですが、今はもっとはるかに強い使命感があります」

 叶井はがんに負けなかった。最初から「がんに抗う」という道を選択しなかったうえで、最後まで自分らしく、愛する妻や子どもとの日々を過ごし、大好きな食をできる限り楽しみながら、亡くなる直前まで生活の質を保って亡くなった。これは一つの選択として尊重されるべきものであり、誰にも彼の生きざまを否定することはできない。

 彼の生きざまを最も近くで見てきた倉田の言葉に耳を傾けた時、私たちは抗いがたい病に襲われたときの「新たな選択肢」を見つけることができるのではないだろうか。
(文=佐藤勇馬/写真=石川真魚)

『抗がん剤を使わなかった夫〜すい臓がんと歩んだ最期の日記〜』(古書みつけ)

『エンドロール! 末期がんになった叶井俊太郎と、文化人15人の“余命半年”論』(サイゾー)

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