
連載第48回
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
今回は、没後9年。日本でもファンの多いサッカースター、ヨハン・クライフについて。初来日は今から45年前の1980年。監督としては1990年にバルセロナを率いて来ました。Jリーグ開幕前の低迷期だった日本で、今では考えられない衝撃的な話があります。
【未来のサッカーを披露したファンのアイドル】
秋春制で行なわれている女子サッカーのWEリーグは終盤戦。5月4日には3位のINAC神戸レオネッサが首位の日テレ・東京ベレーザを2対0で破って勝点で並んだが、得失点差でベレーザの首位は変わらず、同日、2位につけていた浦和レッズレディースが敗れたため、ベレーザは残り2試合に勝利すれば優勝に手が届きそうだ。WEリーグになってからは初めての優勝だ。
ベレーザは長谷川唯や清水梨紗、藤野あおばなど日本代表クラスが次々と海外のクラブに移籍したため若手中心(I神戸戦の先発11人の平均は22.18歳)。なかでも注目されているのが18歳になったばかりの眞城美春だ。4月のコロンビア戦で日本代表に追加招集されると、非公式のトレーニングマッチにフル出場。終了間際にゴールも決めている。
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遠くのスペースを見抜く目を持ち、パスを駆使してスペースと時間を操ることができる特別な選手。僕にとって、男女を通じて今、最も気になる選手のひとりだ。
そして、この天才少女がベレーザでは「14」をつけているのもうれしい。言わずと知れたヨハン・クライフの番号である。
僕が初めてW杯観戦に行ったのが1974年の西ドイツ大会。オランダのクライフと西ドイツのフランツ・ベッケンバウアーの対決となった決勝戦は西ドイツに軍配が上がったが、独創的なプレーで世界を魅了したのがクライフだった。
オランダはそれまでのサッカーの概念を覆し、チャンスにはDFも積極的に攻撃に参加し、FWも敵陣深くからボールを奪いにいった。のちの時代のゾーンプレスや現代のプレッシングサッカーに通じる、言わば"未来の"サッカーを披露したのだ。
初めてW杯観戦に赴いた極東の島国の青年にとって、戦術的な内容など理解できるものではなかったが、オレンジのシャツに身を包んだオランダの選手たちが何か特別なことをやっているのは伝わってきた。
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当然、クライフは僕にとってアイドルになった。
何か番号を選ぶ時には、必ず14番を選んでいたものだ。そして、50年以上が経過した今でも僕のスマホの待ち受けはクライフの写真だし、眞城が「14」をつけているとうれしくなったりするのである。
【来日時、試合中に相手選手に指導】
そのクライフが日本でプレーを披露したのは1980年の11月。北米サッカーリーグ(NASL)のワシントン・ディプロマッツの一員としての来日だった。
アヤックスで名声を博したクライフは1973年からバルセロナに加わった後、1978年にいったんは引退したが、翌年、現役復帰して北米に活躍の場を移していた(最後はアヤックス、フェイエノールトでプレーして最終的に1984年に引退)。
1980年と言えば、日本サッカーはどん底から這い上がろうとしている時期だった。3月のモスクワ五輪予選で敗退して下村幸男監督が退任。渡辺正監督が就任したものの同監督は病に倒れ、川淵三郎強化本部長が急遽、暫定監督を引き受けて12月のスペインW杯予選に向けて大幅にメンバーを入れ替えようとしていた。新生日本代表はディプロマッツと2試合を戦い、初戦(福岡)は0対1、2戦目(東京・国立)は1対1と善戦した。
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当時、クライフは33歳。まだ老け込む年齢ではなかったが、利き足である右足を傷めており、フル出場はできない状態だった。そして、ディプロマッツのチーム状態もけっしてよくなかった。
それでも、クライフはその才能の片鱗だけは見せてくれた。
ディプロマッツは日本代表との2試合の間に、清水市(現・静岡市清水区)で若手中心の日本代表Bとも戦っていた。「清水」といっても日本平(アイスタ)ではなく、清水総合運動場陸上競技場だ。
当時の日本のサッカー施設は貧弱で、冬になると芝生は枯れて白くなってしまっていた。しかも、清水のスタジアムは芝生が禿げている部分が多く、そこに砂を入れた、現在では想像もできないようなピッチだった。
「クライフに、こんなグラウンドでプレーさせるのか!」と僕は怒りすら感じた。
だが、それでもクライフは前半45分間だけだったが、嫌な顔も見せずにプレーしてみせた。右サイドハーフの位置から中央に顔を出して、前線の選手を操る役割だった(試合は1対2でディプロマッツの勝利)。
アクシデントがあって試合が中断した時のことだ。クライフが、突然、グラウンドの上で自分をマークしていた日本人選手に対して「指導」を始めたのだ。
身振り手振りで「自分がこう動いたら、キミはこうやってマークすべきだ」と、マークする際の体の向きについて指導しているようだった。
僕はこれまでサッカーの試合をかなり多く見てきたが、試合中に相手選手に対して本格的な指導をするなどという場面は見たことがない。まるで本当のコーチであるかのように、クライフの指導はかなりの時間続いた(残念ながら、この時クライフに指導を受けたのが誰だったかは記憶にない)。
これを見て、僕は「ああ、クライフという選手は本当にサッカーが好きなんだなぁ」と感心すると同時に、「彼は将来、有能なコーチになるのではないか」とも思った。
【炎天下のバルセロナ対JSL選抜】
そして、実際、クライフはコーチとしてもすばらしい仕事を成し遂げた。
1984年にフェイエノールトでのプレーを最後に引退したクライフは、翌1985年にアヤックスの監督に就任(ライセンスを取得していなかったので「テクニカルディレクター」という肩書)。1987年にはカップ・ウィナーズ・カップで優勝した。
1988年には古巣バルセロナの監督に就任。その後、「ドリームチーム」と呼ばれるチームを構築し、パスをつなぐ攻撃的なサッカーで一世を風靡。バルセロナのサッカーのアイデンティティーを確立したことは広く知られている。
その「ドリームチーム」を率いてクライフが来日したことがあるのをご存じだろうか? 1990年7月のイタリアW杯直後のこと。「JALカップ」という大会で日本サッカーリーグ(JSL)選抜と対戦した。対戦相手が代表でないのは、同時期に横山謙三監督率いる日本代表は中国・北京で開かれた第1回ダイナスティカップ(現E-1サッカー選手権)に出場していたからだ(3戦全敗)。JSL選抜の監督は元ブラジル代表のオスカー。当時は日産自動車(横浜F・マリノスの前身)監督を務めていた。
バルセロナにとってはクライフ体制3年目の開幕前で、新チーム立ち上げの段階。しかし、広島での初戦は気温が33度もあり、長旅の疲れが残るバルサは本調子ではなく、試合は1対1の引き分けに終わる。
そして、東京・駒沢での第2戦。駒沢陸上競技場には照明がないから、キックオフは14時30分。猛暑のなか、炎天下の試合だったのだ。GKにはアンドニ・スビサレッタがいて、中盤の底にはロナルド・クーマン、2列目にミカエル・ラウドルップ、トップにフリスト・ストイチコフ......。ざっと名前を挙げただけでその豪華さが伝わってくるのだが、Jリーグ開幕前の日本ではそれほど大きな扱いはされなかった。
第2戦ではJSL選抜が柱谷幸一とレナトの得点でリードしたものの、バルセロナがチキ・ベギリスタイン、フリオ・サリーナス(2G)、アモールの得点で4対2と逆転勝利した。
それにしても、選手としての来日では砂混じりのひどいピッチ。監督としての来日では猛暑のなかの炎天下とは! 日本はクライフに対してなんとも失礼な扱いをしたものである。
なお、ベギリスタインは1997年から99年まで浦和レッズでプレーした。当時、僕は彼にロングインタビューをしたことがあり、その時に雑談としてこの時の試合について訊いてみた。
「暑かったことだけ覚えているよ」とベギリスタイン。僕も、まさに同感だった。
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