西洋文化の典型として漠然としたイメージで語られがちな「中世ヨーロッパ」だがユーラシア大陸の西側からブリテン島、アイルランド島までいたる広大な範囲の5世紀から15世紀末にまで至る1000年に及ぶ長大で広大な歴史、文化範囲の事を指す。犯罪と疫病と迷信が蔓延った暗黒時代としての側面もあるが、現代西洋文化の根幹をなす時代でもある。当然ながら多くのフィクション作品で題材になっているが、中世ヨーロッパについて漠然としたイメージ以上の姿を頭に浮かべられる方は少数だろう。2025年に4月に発売された『物語のある中世ヨーロッパ解剖図鑑』(エクスナレッジ)はヨーロッパ中世史を専門とする歴史学者の河原温氏がイラストのビジュアル付きで分かりやすく中世の文化、慣習、生活を簡潔にまとめてくれている。
特に建築様式、美術様式の違いについては1000文字の説明を並べられるより、図と最小限の説明文だけの方がはるかにわかりやすい。ヨーロッパを観光しに行く予定の方はガイドブックと一緒に本書もお持ちいただくことをお勧めする。歴史的建造物も美術品も歴史を知らずに見るより知った上でみた方が感動も大きいと筆者は思う。本書はありそうでなかった中世ヨーロッパに関する入門書であり、直接的に中世ヨーロッパを題材にした作品だけでなく、中世ヨーロッパをモデルにした正統派のファンタジーを楽しむうえでも参考になる。よく出来たフィクション作品はそういった前提知識が無くても楽しめるようにできているものだが、知っていた方がよりお得だし、楽しい。
『物語のある中世ヨーロッパ解剖図鑑』は中世ヨーロッパに存在した3つに大別できる身分ごとにセクションを分けて構成されている。今回は同書の3つのセクション「祈る人」「戦う人」「働く人」に倣い、中世ヨーロッパを題材にした作品、またはその文化に影響を受けた作品の描写について3部に分けて述べていきたい。分かりやすくイメージしやすいように映画、アニメ、マンガなどの例も適宜取り上げるがとりわけ、直接中世ヨーロッパを舞台にしている幸村誠(著)『ヴィンランド・サガ』(講談社)と魚豊(著)『チ。-地球の運動について-』(小学館)を中心的に取り上げる。特に注記していないものは『物語のある中世ヨーロッパ解剖図鑑』を参照しているが、適宜他の書籍も取り上げる。
ヨーロッパは階級社会だが立場的には3つの身分しか存在しなかった。その一つであり、『物語のある中世ヨーロッパ解剖図鑑』でもっとも多くの紙幅を割かれているのが「祈る人」すなわち聖職者である。中世ヨーロッパの宗教と言えばキリスト教だが、現代のキリスト教には大雑把に3つの宗派が存在する。カトリック、東方正教会、プロテスタントである。プロテスタントは近世の宗教改革運動で派生した宗派の総称であり、中世ヨーロッパにはまだ存在しない。東方正教会は古代キリスト教から派生した宗派なので歴史の深さはカトリックと同等だが、政治と強く結びつき、より大きな存在感を中世ヨーロッパで示したのはカトリックだろう。
先月(2025年4月)に逝去した教皇(ローマ法王)フランシスコはキリスト教はキリスト教でもカトリックのトップであり、世界最小のミニ国家であるバチカン市国の国家元首でもある。本原稿執筆時点で次期の教皇を決める秘密会議「コンクラーベ」が5月7日から始まると発表されているが、これは「キリスト教の儀式」ではなく「キリスト教のカトリックという宗派の儀式」である。カトリック教会は成立の過程で聖書に書かれていないことも含め、様々な独自の教義を成立させてきた。第97回アカデミー賞で脚色賞を受賞した映画『教皇選挙』(2024年)は中世ではなく21世紀の現代が舞台だが、カトリックのことを全く知らないとよく意味の分からない描写がある。
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かなり重要な部分なので、まだご覧になっていない方には『物語のある中世ヨーロッパ解剖図鑑』は良い予習教材になるだろう。教皇の逝去により、『教皇選挙』の観客動員数と各種配信サービスでの視聴時間が激増したとの報が入っている。カトリックの信徒はヨーロッパと南米を中心に世界で10億人を大きく超える。最大の宗教勢力であり、教皇の逝去は「ただ有名な宗教指導者が逝去した」という程度の意味ではなくもっと大きな意味がある。だからこそこれほど多くのメディアで取り上げられるし、注目されるのだ。
カトリック教会がこれほど大きな力を持つようになった起源はローマ帝国崩壊後の中世ヨーロッパにある。中世ヨーロッパにおいてキリスト教は人々の精神的支柱であり、民衆を中心に拡大し続け、国家権力とも結びつくようになった。決定的だったのが古代ローマ帝国の崩壊後、ローマの後ろ盾を失ったローマ教皇がフランク王国に接近したことである。フランク王国のカール大帝は時の教皇レオ三世によって戴冠され政治と宗教の結びつきは強固なものになった。教会は王に「神が認めた支配者である」という宗教的な正当性を与え、王は教会を軍事的、政治的、経済的に支持した。政治と結びついたカトリックは肥大化し、残念ながらその後腐敗していく。それが結果、宗教改革運動へとつながりさらにアメリカ建国の遠因になるのだが、世界史の基本的な話なのでこの経緯は教科書や参考書に譲ることとしよう。
信徒が増え、キリスト教が世俗化すると静かに信仰と向き合いたいと考える者もあらわれた。それが修道士である。日本に布教に来たイエズス会のように世俗は捨てずに修道士として活躍する修道会もあったが、修道士の一般的なイメージは人里離れた土地で隠遁するタイプのものである。前者を「托鉢修道会」と言い、後者のような典型的なイメージの修道会を「観想修道会」と呼ぶ。
中世キリスト教は政治権力との結びつき、民衆の精神的支柱という側面の他に「学術研究の発展への貢献」という側面もあった。ルネサンス時代が来て活版印刷が普及するまで書籍はすべて手書きによる「写本」だった。一冊の本を作るコストは当然ながら高くついたため、本は書店で簡単に買えるものではなく置かれている場所も限られていた。写本の作成は修道士にとって重要な労働の一つであり、修道士の作成した写本は盗難防止のための鎖に繋がれて修道院の図書館に保管された。これがのちに聖職者や知識人の教育機関として大学の母体になる。
『チ。-地球の運動について-』第2部の重要キャラクターの一人、バデーニは頭頂部を剃る独特の髪型「トンスラ」から聖職者は聖職者でも在俗司祭ではなく修道士であることが分かる。バデーニは研究に邁進する『チ。』の「知」の側面を代表するキャラクターだが、バデーニが在俗司祭ではなく(劇中では出家と表現されていた)修道士なのは研究するうえでその方が都合が良かったからともとれる設定である。文学研究者でありながら作家としても活躍したウンベルト・エーコの名作『薔薇の名前』も修道院が舞台で、主人公で探偵役のバスカヴィルのウィリアムも修道士である。『薔薇の名前』は枠組み的にはミステリーだが、軽い娯楽と思って読むと気絶するタイプの内容である。そんな読者の知的能力に挑むような作品の舞台は時代設定を中世にするなら修道院がふさわしいのだろう。
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『物語のある中世ヨーロッパ解剖図鑑』は大量のイラストも掲載されているが、イラスト付きだと特にわかりやすいのがキリスト教美術である。カトリックではロマネスク様式とゴシック様式、東方正教会ではビザンツ(ビザンティン)様式が誕生した。石造りの建物は長持ちするため、これらは文化財としての保護を受けながら現在も存続している。同書に掲載されているキリスト教の建築物は筆者も訪問したことがあるものがいくつかあるが、これらはやはり本書のような予備知識を持ったうえでも見た方が楽しめるし感動も大きい。教養レベルのキリスト教知識については筆者が別記事で参照した山我哲雄 (著)『キリスト教入門』(岩波書店)が充実した内容だったが、イラスト付きの本書の方が建築、美術の項目についてはより分かりやすい。教えや歴史的経緯についても本書の方がより平易で、ビジュアル化されてわかりやすく入門向けと言えるだろう。
異端審問についても述べておこう。『チ。』の劇中では「教会正統派」と呼ばれていたが、狭義で「正統派」と呼ばれるキリスト教の宗派は東方正教会のみである。正教会は英語で"Orthodox Church"と呼ばれるが直訳すると「正統教会」となる。だが、『チ。』に登場する教会は法王をトップとして抱いていることが明言されている。前述のとおり法王はカトリック教会のトップである。異端審問は中世以降のカトリック教会に存在した正統信仰に反する教えを持つ(異端である)という疑いを受けた者を裁判するために設けられたシステムである。そのことから劇中の「C教」のモデルはカトリック教会と考えて間違いないだろう。「異端」に該当するものは色々あるのだが、聖書に基づく世界観に反する科学理論はその典型例であり地動説はそれに該当する。16世紀イタリアの哲学者、神学者、天文学者だったジョルダーノ・ブルーノは地動説を支持する立場を取っており「宇宙は無限であるという」自説を撤回しなかったため火刑に処されている。『チ。』のバデーニと同じくブルーノは修道士でもあった。
だが、これは『チ。』の作者である魚豊氏自身も言及していたが、地動説を主張したことでそこまでの厳罰を受けた例は意外に少ない。ガリレオ・ガリレイとコペルニクスの二人は地動説の歴史において特に重要な人物だが、この二人は二人とも天寿を全うしている。ガリレイは異端審問で有罪判決を受けているが、当初の終身禁固から自宅軟禁に減刑され、さらに来訪者と話してはいけないという条件も緩和されており、晩年のガリレオは住み込みの若手研究者との共同研究も行っている。ガリレオの晩年と言うと不遇だったイメージばかりが先立つが、実際、愛娘に先立たれ、失明する苦境ではあったものの力学の重要な研究成果も発表している。「悲劇の科学者」ではなく「苦境にも負けずに研究を続けた不屈の魂を持つ科学者」の方が実際の姿に近いようだ。
細かいところだが、『チ。』のある種名物でもある拷問器具にも目を向けてみよう。『チ。』の劇中でノヴァクをはじめとする異端審問官が頻繁に用いていた拷問器具「親指締め器」だが、これは実在の拷問器具である。正確な発祥元は不明だが14世紀のロシアで発祥したとされ、後にイギリスに伝わり、そこから西ヨーロッパ各国に伝わった。『チ。-地球の運動について-』の舞台は15世紀のポーランド(P王国)だが、イギリス経由で西ヨーロッパ各国に伝わったのは17世紀のことなので当時のポーランドに伝わっていたかどうかは怪しいところだ。この辺はフィクションと考えた方がいいだろう。
持ち運びやすくコストパフォーマンスに優れているため重宝されていたとのことだ。同じく印象的に何度か登場する口腔に裂傷を生じさせる「苦悩の梨」も実在の拷問器具である。「口が悪の源」という考えから現実世界でも宗教的犯罪者の拷問によく用いられたようだ。ただし、苦悩の梨の普及は現実では16世紀以降であり、宗教改革運動で派生したプロテスタント相手に主に用いられていたようだ。『チ。』の時代より後のことなので、これもフィクション的な描写と考えるべきだろう。拷問器具について詳しく知りたい方は高平鳴海(著)、福地貴子(イラスト)『図解 拷問と処刑の歴史』(新紀元社)をご参照いただきたい。
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