
真っ暗な天井から、ぱちぱちという音が聞こえる。目を開けたくない。でも、確かに聞こえる。夜勤の仮眠室で私は、布団をかぶって震えていました――。
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夜勤の仮眠時間。看護師として私が勤めていた病院では、空いている個室を仮眠室として使うことがありました。その日、仮眠用に指定された部屋は、重症の患者さんがお亡くなりになることもある個室でした。
「あの部屋、出るよー」
仮眠前、霊感があるという先輩看護師が、さらりとそう言いました。半分冗談のような口調でしたが、私の胸にはずっしりと重い言葉が残りました。
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部屋に入るなり、まず窓のカーテンをしっかりと閉めます。夜は、窓に何かが映り込むのが怖いからです。鏡や反射する物にも注意を払い、できるだけ視界に入らないようにします。何かが映っていたら...そう考えるだけで背筋が寒くなります。
夜中の2時過ぎ。照明を落とした部屋に横になると、廊下の非常灯の緑色の光がカーテンの隙間からぼんやりと差し込んでいます。シーツのひんやりとした感触と、消毒液の微かな匂い。いつもと変わらない夜勤の仮眠のはずでした。
ぱちっ。
突然、天井から音が聞こえました。最初は気のせいかと思いました。でも、すぐにまた...。
ぱちぱち、みしっ。
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不規則に、でも確実に何度も繰り返される音。心臓がドクドクと早鐘を打ち始めます。目を開けるのが怖い。開けたら、そこに何かがいるような気がして。
「やだ、やだ、やだ...」
小さくつぶやきながら、布団を頭までかぶりました。汗が背中を伝うのを感じます。結局、その日はほとんど眠れずに仮眠時間が終わってしまいました。
後で調べてみると、この現象は「家鳴り」と呼ばれるもので、建物の構造材が温度や湿度の変化によって膨張・収縮することで発生する音だということがわかりました。でも、あの時の恐怖は、科学的な説明では消えてくれません。
◇ ◇
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同僚の看護師も、似たような不思議な体験をしていました。
「深夜3時ごろ、ナースコールが鳴ったんです。でも、表示を見ると...誰も入院していない部屋からでした」
恐る恐る部屋を確認しに行くと、案の定、ベッドには誰もいません。照明のスイッチを入れると、整えられたシーツと空のベッドが、青白い蛍光灯の光に照らし出されるだけ。部屋の窓に自分の姿が映り込み、一瞬ぎょっとしてしまいます。
「なんで人のいない部屋からナースコールが鳴るの...?」
そんな疑問に、霊感がある先輩看護師は、肩をすくめたそうです。
「あの部屋は出るよ。たまにあるから」
実はこの現象、私が勤めていた病院だけではなく、他の病院でも報告されているようです。機器の故障?電波の干渉?…でも多くは原因不明のまま。
こうした不思議体験の話で盛り上がっていたある日、先輩看護師が言いました。
「でもさ、一番怖いのって幽霊じゃなくて、生きてる人間だよね」
その言葉の意味を、私も身をもって体験することになりました。
夜勤の巡視中、ある患者さんの部屋を確認しようとしました。ベッドで寝ているはずの患者さんの様子を確認して、次の部屋へ...と思った瞬間。
振り返ると、その患者さんが私のすぐ後ろに立っていました。
「ひっ!」
心臓が止まるかと思いました。寝ていると思っていた患者さんが、無言で、じっと私を見つめているのです。トイレに行こうとしたらしい。その時の恐怖は、どんな幽霊話よりも強烈でした。
◇ ◇
「幽霊より怖いのは、生きてる人間」
この言葉は、夜勤看護師の間で共感を呼ぶフレーズです。
天井からの音も、誰もいない部屋のナースコールも、窓に映る謎の影も、確かに不気味です。でも、生身の患者さんの予想外の行動の方が、はるかに心臓に悪い。
今日も夜勤の看護師たちは、窓のカーテンをしっかり閉めて、幽霊の噂話をしながら、でも本当は生きている患者さんたちの予測不能な行動にドキドキしながら、夜の病院を見守っています。
「おばけより怖いのは、想像力...と生きている人間」
そう笑いながら、また今夜も夜勤に向かうのです。
◆松井英子(まつい・えいこ)看護師経験をもつライター・編集ディレクター。