これも何者かによって奪われた自分を回復したいという物語なのだ。
参考:杉江松恋の新鋭作家ハンティング ヲタク落語家・春風亭吉好のライトノベル『魔王は扇子で蕎麦を食う 落語魔王与太噺』
上村裕香『救われてんじゃねえよ』(新潮社)を驚嘆しつつ読んだ。表題作は第21回「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞作で、「小説新潮」2022年5月号に掲載されているので初出時に読んだはずなのだが、改めて見返すと、こんなに優れた作品だったのかと目を瞠らされる。1年後に発表された続篇「泣いてんじゃねえよ」(「小説新潮」2023年5月号)と書き下ろしの「縋ってんじゃねえよ」で連作として完結する構成になっている。表題作を読んだときに胸に物語を刻み込まれるような感覚があり、痛みを伴う快さと共にページを繰った記憶がある。刃のように鋭いため、すごいもので斬りつけられたという印象だけが残ったのだが、後の2篇を読むとそれが何だったかがじわじわと理解されてくる。だから1冊にまとまってから読んだ今回のほうがより深い印象があるのだと思う。
主人公の〈わたし〉こと沙智は「救われてんじゃねえよ」で17歳の高校2年生である。母が突如として難病を発症したため、その介護に追われる日々を何ヶ月かの間送っている。投与された薬が効き、介護申請が通るまでは家族が面倒を見なければ日常生活さえままならない状態なのだ。それこそ排泄介護まで必要な状態であるということが高校の教師や級友にまで知れ渡っている。父親は自由業であるらしく、しかも依存症に近いくらいパチンコにも入れ込んでいるような人間なので、ほとんど助けにならない。母親の介護はほぼ沙智の手に任されきりなのである。
金がないため修学旅行にも参加できなくなり、父親が気位だけは高いために進学資金を借りることも危ういというどん底の状況が「救われてんじゃねえよ」では描かれた。沙智はさまざまなことを我慢しながら日々を過ごしているのだが、自分が特別扱いされているのは親の介護をしているためだ、と級友がほのめかすのは耐えがたい部類に入ることだ。この作品の中では、一度も「ヤングケアラー」という言葉が使われない点に注目したい。〈わたし〉はそういう定義で自分の一部を切り取られることを意識して回避しているのだ。
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ヤングケアラーという用語は続く「泣いてんじゃねえよ」で初めて使われる。なんとか大学に進んだ沙智は就職を意識する学年になる。指導教官からは五年後十年後を見据えたキャリアプランを立てることを進められるが、それは沙智にとって気が重いことでもある。「五年後十年後を考えるってことは、お母さんの病気の進行状況を推測することで、わたしの人生はわたしだけのものではないって、直視すること」だからである。エントリーシートに自分がヤングケアラーとして高校生活を送ったと書くことにも躊躇いがある。
「(前略)過去、現在、未来の自分がいるとして、介護をしていない現在のわたしがヤングケアラーって名乗るのは違うし、なんかずっと後ろめたさがあるんです。就活のエントリーシートで過去の介護経験を書くのも、過去の自分を利用しているみたいで気持ち悪くて……」
彼女の相談相手でもあるいとこの恭介は、沙智の言葉を「ヤングケアラーって言葉ができたからむしろ苦しいってことじゃん?」と受ける。このキャラクターは軽薄そうに見えながら、沙智の心の核にあることをときどき指摘するという、主人公の分身の役割を担っている。便利な登場人物を配置して説明がくどくならないようにしているのも本書美点の一つである。
沙智は就職面接で「なんで忍耐強く親御さんの介護ができたんですか?」と聞かれるのだが、自分でも納得のいく答えを返すことができない。「どれも、本当で、本当じゃない」からである。キャリアカウンセラーには「お母さまを助けたいという愛情がなせたことなんですね。幼少期、親御さんに愛されていた証拠ですね」と褒められるが、うなずけずに終わる。
自分という存在は必ず社会のどこかに当てはめられる。自分自身はその必要を感じずとも、他者はそれを行う。ヤングケアラーという言葉は他者が沙智を理解するためには便利なだが、それによって切り取られた部分は自分自身そのものではないのである。自分自身をわかりやすく理解しない、理解することで全体性を明け渡さないという意志が本作には充溢している。三篇の題名がそれぞれ「〜てんじゃねえよ」というツッコミの形になっているのは、わかりやすい物語、たとえば救済や親子愛といったものの中に自分を置いてしまうことを避けるためだろう。物語は便利だ。物語には現実を上書きする魔力が備わっている。だが上書きされた後には何が残るのだろうか。自分で自分の枠を決め、その外に何があるかについて思いを巡らせようとしない想像力の欠如こそが、この作者が最も忌むものである。
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この小説を読んでびっくりしたのは、ツッコミ力もそうなのだが、主人公が自身を笑う言葉の破壊力がものすごかったからである。沙智はBL読者だということが割と早めに書かれているのだが、お気に入りの本を段ボール箱に入れて家族の目から隠している。このBL箱がとんでもないときに小説の中に降臨してくるのである。なんという機械仕掛けの神、なんというドリフコントに降ってくる金だらい。小道具の使い方がこの作者は抜群に巧い。「救われてんじゃねえよ」の冒頭でも事件が起きる。母親の下の世話をしているとき、口元から青いよだれが垂れるのを見て「ブルーレットの詰め替え用飲んだ?」と聞いてしまうのだ。「トイレの洗浄剤がどのくらい減っているか確認」しようとして「うちはそもそもマジックリンだった」と思い至るところまで笑いが完璧にとれている。
前述したように父親には生活破綻者の要素があり、母親も沙智に対して過度に依存して勉強、就職活動その他を妨げようとする。沙智がそこに囚われてしまうのではないか、と読者ははらはらするだろう。沙智は親を観察する。介護が必要になってから両親がセックスする回数は増えた。そして生活不能者である父親は、スマートフォンの画面でAVを鑑賞する趣味があるらしい。そうした下半身事情がわかってしまう家の広さであることにうんざりしつつも、沙智はこう考える。
——人には隙がある。わたしを怒鳴りつけたとしても、その一時間後にこの人はトイレで一人さびしくシコって寝るんだなあって考えると、憎むに憎めない。だからわたしは心の底からこの家から逃げたいとは思えないのかもしれない。悲しいことに、現実に悲劇なんてものはない。
すべてを喜劇として回収することで、沙智は決定的な悲劇の主人公になることから免れているのだともいえる。本作には単純な二項対立を回避する原理が働いている。病身の親がヤングケアラーである子の機会と未来を搾取している、というのが最もありがちな対立関係だ。そうした物語の中に現実を落とし込むこと、わかりやすい解釈の中に自分の生み出した主人公が陥ることを全力でこの作者は防ごうとしている。
どの作品も印象的な終わり方をする。同賞受賞の宮島未奈は『成瀬は天下を取りに行く』(新潮文庫)で成瀬あかりという最強の主人公を生み出し、彼女の力で歪んだ世界が修復されるという物語をさまざまなパターンで書いている。これは素晴らしい発明だった。上村がやっているのは、その対極ともいうべき技法だと思う。どんなに世間が便利な定規を持ってきても、ことごとくそれを外して逃亡するという語りだ。本当に巧い。どんな関節技でも抜けてしまう。このわかりやすさを拒絶する姿勢に惚れ惚れとさせられた。わたしはわたし。誰もそれを奪えない。上村裕香はそう断言する。毅然と、堂々と。
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(杉江松恋)
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