
米野智人インタビュー 前編
プロ野球の2025年シーズンも、スタジアムに集うファンの大歓声とともに、さまざまな名場面が生まれるだろう。西武の本拠地、ベルーナドームで飲食店を2店舗(ヴィーガン料理専門店「BACKYARD BUTCHERS」、ポテト&チュロス「& Butchers」)営む米野智人氏も、シーズンを盛り上げているひとりだ。
かつてヤクルト時代には"ポスト古田敦也"として期待され、その後は西武、日本ハムと渡り歩いた米野氏に、現役時代のエピソードを語ってもらった。
【ヤクルト時代に感じた古田敦也のすごさと、掴んだチャンス】
北海道の北照高校時代に強肩の捕手として注目を集めた米野は、1999年のドラフト3位でヤクルトに入団。少年時代に憧れていた古田敦也が在籍するチームで、プロ野球選手としてのキャリアをスタートした。
「まさか、古田さんと同じチームに入れるとは思いもしませんでしたから、やっぱりうれしさはあったと思います。ひとつしかないポジションを争う立場でしたけど、不動のレギュラーとして活躍されていた古田さんとは比べものにならないほどの実力差があって、はるか彼方の遠い存在だと思っていました。なので、入団したばかりの頃は、テレビに出ている有名人を間近に見るような感覚で、古田さんの背中を見ていたような気がします」
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そして、初の春季キャンプに臨んだ米野は、ブルペンで主力投手のボールを受けることに。そこでもレベルの違いを思い知らされることになる。
「石井弘寿さんのスライダーや、五十嵐亮太さんの投げるフォークボールにはただただ驚かされましたね。150キロを超える速球ももちろんすばらしいんですけど、これまでに見たことがないような鋭い軌道を描くので、最初のうちはきちんとボールを受けることができなくて......苦労したことを覚えています」
だが、プロ入り前から定評のあった強肩やキャッチングの技術を磨き上げた米野は、プロ入り2年目の2001年に一軍初出場を果たすと、徐々に出場機会を増やしていった。そして、長年ヤクルトの正捕手を務めてきた古田が選手兼任監督に就任した2006年には、古田の後継者候補と目され、周囲から大きな期待をかけられるなかでシーズン開幕を迎えた。
「古田さんが監督の仕事にシフトしていくなかで、僕をレギュラーで起用してくれるような雰囲気をひしひしと感じましたね。期待してもらえていることが本当にありがたくて、『絶対に目の前のチャンスを掴むんだ』という思いでシーズンに臨みました」
そう話す米野は2006年、チームトップの116試合に出場。それまで課題と言われていた打撃も成長し、新たな時代の到来を感じさせた。
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「古田さんの考え方を教えていただいたこともありましたけど、基本的には試合状況を見極めながら『まずは自分でリードを組み立ててほしい』という方針で、サインなどは僕の判断に任せてくださいました。さまざまな苦労や重圧もありましたけど、今振り返ってみると『球界ナンバーワン捕手』の影響を間近で感じながらプレーした日々は、僕の野球人生にとって有意義な時間だったと思います」
開幕から先発として出場を続けた米野に大きな自信をもたらしたのが、リック・ガトームソンのノーヒットノーラン達成(2006年5月25日・対楽天)だった。
「この日は初回から三者凡退が続いていて、『今日はやけにリズムよく投げているな』と思っていました。でも、記録には全く気づいていなかったんです。7回を終えてベンチに戻ると『ノーヒットだな......』と宮本慎也さんに話しかけられて、そこで初めて記録を意識するようになりました」
試合が進むにつれて、「選手たちの口数は徐々に減り、ベンチ内の空気もだんだん張り詰めていった」そうだが、その後もガトームソンは無安打投球を続けて大記録を達成した。
「残り6個のアウトを取るまでの重圧はすさまじいものがありましたけど、後世に残る大記録の達成をサポートできたことは本当にうれしかったですし、捕手としても大きな自信になりました」
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【"ポスト古田"の重圧に押しつぶされそうになった日々】
その後も充実した日々を過ごしていた米野だったが、シーズン終盤に差しかかろうとしていた8月に異変を感じるようになった。
「マウンド上の投手にボールを投げ返す時、なぜか送球が散らばり、真っ直ぐに投げられなくなっていることに気づいたんです。ちょうど同じ時期に、肩が"詰まっている"ような違和感を覚えたんですけど、『疲れのせいかな?』と思って、最初はあまり気にしないようにしていました」
徐々に悪化していく違和感が確信に変わったのは、夏場の連戦が続く中日戦(8月22日・ナゴヤドーム、現バンテリンドーム ナゴヤ)でのことだった。
この試合で、米野が盗塁のランナーを指すべく二塁に投げたボールは、高めに抜けて大暴投に。延長戦でも再び大暴投を投じた際に、自身の「イップス」の症状を認めざるを得なくなった。
米野は試合出場を続けながらスローイングの練習を繰り返したものの、焦る気持ちとは裏腹に症状は悪化。肩の痛みは悪化し、試合に出れば暴投でピンチを広げ、精神的に追い込まれていくという負のスパイラルに陥った。
「僕の送球難が相手にバレてしまったら、『相手チームに走られ放題になってしまう』と思ったので、イップスについては決して話しませんでした。でも、コーチやチームメイトはおそらく僕の異変に気づいていたと思います。腫れ物に触るような雰囲気で周囲の人が話しかけてくるのは、本当につらくて......。ひとりで抱え込まないといけない状況が、自分をさらに苦しい方向に追い込んでいきました」
シーズン終盤にレギュラーを奪われる形で2006年を終えた米野は、その後もレギュラーを目指したが、ポジションの再奪取には至らず。そして、最下位に沈んだ2007年秋には、低迷の責任を取る形で古田監督の退任が発表された。その一報を二軍で聞いたという米野は、「少なからず期待してもらったのに、力になれずに申し訳ない気持ちでいっぱいでした」と、当時の心境を振り返る。
翌年の2008年7月には、二軍戦の試合中に右手親指を脱臼骨折。約2カ月で症状は回復したものの、ボールを握った時の感覚は戻らず。『本当に終わったかもしれない......』と、気持ちはさらに落ち込んだという。
「肩の強さを評価されてプロの世界に入ったのに、それができていない。『もう野球選手をやっていても仕方がないな』と思いました」
試合に出ることすらも怖くなり「毎日、嫌々ながら球場に向かっていた」という米野は、2010年5月に苦しい胸の内を当時の二軍監督に告げたが......。その約1カ月後に伝えられたのは、西武へのトレードだった。
【30歳で未経験の外野手に転向】
「『もう捕手としてプレーするのは無理かもしれない』と思っているのに、西武では捕手としての活躍が期待されている。獲得してくださった恩を感じつつも、内心では『きっとチームの力にはなれないだろう』と思っていました」
そんな米野の言葉どおり、途中加入の2010年は一度も一軍に上がることなくシーズンを終えると、2011年もわずか3試合の出場となった。
「まったく戦力になれていない自分に不甲斐なさを感じていました。『このまま現役を続けているのも申し訳ない』と思ったので、自分から引退を切り出そうとしてみたんですけど、ひとまずシーズン終了後に言い渡されるであろう戦力外通告を待ってみることにしたんです」
だが、米野の思いとは対照的に、シーズン終了後には何事もなく秋季キャンプが始まり、チームの一員として汗を流すことに。しかし、自身が置かれた状況にやや戸惑いながら出場した紅白戦でホームランを放ったことで、野球人生最大の転機が訪れる。
「僕の打撃を見た光山英和バッテリーコーチと渡辺久信監督(いずれも当時)が、『外野手として勝負したほうが、もしかしたらチャンスが増えるかもしれない』と声をかけてくださって。これまでに一度も守ったことがないポジションでしたけど、『最後くらい楽しくプレーして選手生活を終えたいな』と思って、思い切って外野手に転向することを決めました」
その後もキャンプやオープン戦で存在感を示した米野は、2012年に開幕一軍入りを果たすと、相手の先発が左投手だった試合では外野手として先発出場するなど、チーム内で存在感を示した。
「ヤクルトにいた頃は『打撃が課題だ』と言われていましたから、もしトレードがなかったら打撃を評価されることも、外野手への転向もなかったと思います。意外性のある打撃や勝負強さを評価してくれたことが、西武での活躍につながりました」
2012年4月26日の対ソフトバンク戦(ヤフードーム、現みずほPayPayドーム)では、当時"絶対守護神"と言われていたブライアン・ファルケンボーグから、逆転満塁本塁打を放った。2点リードを許した9回2死での一打は、「奇跡のグランドスラム」と呼ばれることになった。
西武の選手として放った米野の本塁打は、結局この1本だけだったが、米野は2015年まで西武に在籍。その後は日本ハムで1シーズンを過ごし、2016年に現役を退いた。
「僕は子どもの頃から捕手をやってきたので、まさかプロ入り後に別のポジションでプレーすることになろうとは、まったく思いもしませんでした。最初は『絶対に通用しないだろう』と思っていた外野手としても試合に出られたことは、その後の自分の人生でも少しだけ自信になっているんです」
引退後の米野は飲食店の経営者として辣腕を振るい、現在はかつて所属した西武の本拠地ベルーナドームで飲食店2店舗の運営を任されるなど、多岐にわたって活躍している。引退後もさまざまな形で挑戦を続けられるのは、現役時代に必死に自分自身の居場所を探し求めた経験、苦労があってこそなのかもしれない。
(後編:プロ野球3球団でプレーした米野智人が語る選手のセカンドキャリア 自身は飲食店経営、イベントMCも>>)
【プロフィール】
米野 智人(よねの・ともひと)
1982年、北海道生まれ。北照高から1999年ドラフト3位で捕手としてヤクルト入り。入団当初から"ポスト古田"の一番手と期待された。古田兼任監督が就任した06年には自己最多の116試合に出場。2010年に西武へ移籍、2012年に外野手にコンバートされたが、2015年限りで退団。同年オフ、日本ハムと捕手兼2軍バッテリーコーチ補佐として異例の契約を結び、2016年限りで引退した。引退後は、"体の中から綺麗に健康"がコンセプトのカフェ、「westside cafe」を4年経営。現在は、古巣である埼玉西武ライオンズの本拠地・ベルーナドームにて新規店舗を出店し、Westside合同会社代表を務めている。