画像はイメージです「最初は誰も信じなかったですね。あんなことが本当にあるなんて」
そう語るのは、居酒屋店のオーナー、大井和人さん(仮名・52才)だ。繁華街の裏路地にひっそりと佇むこの居酒屋は、地元の常連客に愛されてきた。カウンター席には仕事帰りのサラリーマンたちが集まり、無駄話をしながら手作りの肴を楽しむ憩いの場だ。しかし、そんな場所でも事件は起きる。
事件が発覚したのは、昨年の秋のことだ。5年勤めていたアルバイトの石田琴美さん(仮名・28才)が、店の財務に深刻な問題を引き起こしていた。
◆「手書きの伝票」を悪用し、不正行為に手を染める
「石田は最初から元気で明るい子で、常連のお客様にも好かれていました。遅刻もしないし、仕事にも真摯に取り組む子でしたね。私だけじゃなく、みんな彼女のことを信頼してましたよ」
石田さんは、日々の接客業務をきちんとこなし、特に一人で黙々と働く姿勢が目立った。そんな彼女が、店の会計で不正を働いていたとは思いも寄らなかった。
彼女が行っていた手口はシンプルかつ、巧妙だった。
居酒屋の会計システムは手書きの伝票を使っており、複写式になっている。1枚目は会計の際に客に渡され、2枚目の複写された伝票は店側が保管する仕組みだ。
◆酔っている客からは大胆に…
彼女は客から多く取り、差額を懐に入れた。
ただし、客から受け取った金額と店が保管する伝票に差が生まれると、ネコババはすぐにバレる。逆にいえば、この数字が合ってさえいれば、店から疑われることはない。
これを逆手に取り、石田さんは不正を働かせた。 まず、インクの出ないボールペンで金額を記入する。すると、複写式の2枚目にだけ金額が写り、1枚目には何も書かれない。次に、インクの出るペンで1枚目にだけ別の金額を書く。たとえば、店に残る2枚目には「8,000円」、客に渡す1枚目には「10,000円」と記載すれば、差額2,000円が生まれるという仕組みだった。
具体的には、1人客からは取らず、2人客からは数百円、そして3人以上の客からは千円〜数千円を不正に取っていた。客のテンションや酔っている状態、細かい性格か大雑把なのかも見極め、さらに泥酔していると見える客からは1万円近く多く取ることもあったという。これにより、彼女は毎日のように不正を重ね、かなりの額を着服していった。
だが、この巧妙な手口も、ついには発覚することとなった。きっかけは、ある常連客のささやかな疑念だった。
◆客からの指摘を受け、問い詰めてみると…
「山田さん(仮名)っていう常連のお客様がいましてね。よく一人で飲みに来てくださる、落ち着いた方なんですが。その方が、ある日、3人で来店されたんです」と店長は話す。
その日、山田さんはなぜか注文内容をすべて自分でメモしていたという。
「普段は伝票の内容なんてあまり気にしない人なんですが、その日はなんとなく引っかかったらしくて。会計のときに、伝票と自分のメモを見比べて、『ちょっと高くないか?』って気づいたらしいんです」
計算し直すと、約2千円の差が出た。金額としては大きすぎるほどではないが、明らかな誤差だった。山田さんは会計後、こっそりとそのことを店長に伝えてくれた
「最初はまさか、と思いましたよ。でも、山田さんの会計伝票の1枚目が、どこにもなかったんです。当然探しましたが、どこにもない。会計を担当した石田に聞いても、知らない、わからないと。まだ若い彼女の将来を潰したくなかったので、閉店後にじっくり話し合いました。そのとき、彼女がくしゃくしゃになった証拠を出しました。伝票の1枚目です。山田さんに渡した伝票と、2千円違っていました」
◆“被害総額”は100万円を超えていた
不正の実態が明らかになったのは、そのときだった。
ネコババを繰り返していたとはいえ、その人となりは一見すると無害なものであった。彼女は他のスタッフからも愛され、遅刻や無断欠勤を一度もしたことがない優秀なアルバイトとして見られていた。
「彼女はいつも静かで、真面目に働く姿勢が印象的でした。まさか、こんなことをしていたなんてね……」と、店の他のスタッフも驚きを隠せなかった。
事件発覚後、彼女は罪を認め、その動機を語った。「お金がほしかったわけではないんです。スリルを感じたくて、やってしまった。お金は全部返します」と彼女は話したという。当然ながら店を去ってもらうことになった。
後日、彼女はクリーニング済みの制服とともに茶封筒に入ったお金を渡しにきた。大井さんが金額を確かめると、100万円以上あった。その金額に驚きもしたが、微塵も気づけなかった自分の愚かさに呆れたという。
「正直なところ、今でもあの事件を引きずっていますよ。こっそり盗み食いするとかはかわいいもんだけど、大金を盗むのは笑えません」と、大井さんは声を震わせながら話す。
◆思い出すたびに胸が痛くなる
事件後、伝票の管理方法は見直され、レジのシステムも簡易的ながら電子化された。「紙の伝票には温かみもあるけれど、そこに甘えすぎていました」と、大井さんは話す。これまでの信頼だけに頼った運営が、結果として店の信用を損ねる結果を招いた。
とはいえ、大切なのは過去を責めることではなく、同じことを二度と繰り返さないための仕組みづくりだ。
「今でも、彼女のことを思い出すたびに胸が痛くなります。でも、これを教訓に、もっといい店をつくっていくしかないんです」
信頼は一度壊れると取り戻すのが難しい。しかし、誠実に積み重ねていけばまた新しい信頼が生まれるはずだ。あの事件から1年、店には少しずつ、またあの頃の笑顔が戻りつつある。
<TEXT/山田ぱんつ>