
5月26日施行の改正戸籍法で、戸籍に氏名の読み方を記すことになった。法務省は各自治体が出生届を受理する際の判断基準となる指針を発表。
それによると「漢字の意味や読み方との関連性をおよそ又は全く認めることができない読み方」などを認めない方針だという。
今後、日本人の名前はどうなるのか? 法務省、市役所職員、国語学者に取材した。
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■改正戸籍法って何?
命名の文化が変わろうとしている。5月26日、改正戸籍法が施行されたのだ。
今後は戸籍の氏名に読み方(フリガナ)を付記することが義務づけられる――というと、「大したことじゃない」と思われるかもしれない。
だが、これから新しく生まれてくる子供たちの名づけにこそ大きな影響があり、かつ判断を委ねられる各地の自治体では大混乱が起こることが危惧されている。
改正戸籍法が施行されると、戸籍に登録されている人宛てに本籍地のある市区町村長から、読み方の届け出に関する通知書が送られる。通知内容に誤りがあった場合は、2026年5月26日までに市区町村の窓口、マイナポータル、郵送、いずれかの方法で氏名の読み方を届けなくてはならない。
といっても届け出をしなくてもペナルティはない。ただ、市区町村長が、住民基本台帳などから読み方を記載するので、誤った読み方で登録される可能性がある。
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ちなみに市区町村が誤った読み方で登録した場合は、一度に限り家庭裁判所の許可なしで変更が可能だ(その後の変更については家裁の許可が必要)。
今回の法改正は「行政手続きの円滑化」「本人確認の利便性の向上」「金融機関などでの本人確認の潜脱防止」などのメリットがあるといわれている。確かに金融口座の読み方をわざと変えることで別人を装うといった不正も今後は難しくなるだろう。
とはいえ現状では、国民の暮らしよりも管理をする行政の利便性に比重があるようだ。マイナンバーカードの導入から始まった電子政府、行政手続きのDX化が目的にあるのは間違いない。
また、先述のとおり、大きな影響と混乱があるといわれているのが、新生児の出生届だ。ふりがなを記載するにあたり、法務省が「一定の基準」として、事実上の規制を設けているからだ。
なぜ出生届のふりがなにも規制を設けることになったのか、法務省に問い合わせたところ、メールで次のような返答が届いた。
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「戸籍実務上、氏名と関連性のないふりがなが届け出られた際の対応を考えると、氏名とまったく関連性のない読み方によるものは認められない旨の規定を設ける必要があるとされたこと等を踏まえ、戸籍法に『氏名として用いられる文字の読み方として一般に認められているものでなければならない』とする旨の規定を設ける案が採用されることとなりました」
なお出生届の受理については、これまで同様、市区町村が判断するという。2007年に富山県で「稀星(きらら)」という名前が、立山町(たてやままち)では受理されず、隣の富山市では受理された――ということがあった。各市町村の担当者次第となりかねないのだ。
とある市役所の職員に取材を申し込んだところ、「守秘義務があるので、匿名であっても取材は受けられない」とした上で、以下のように答えてくれた。
「以前は子の名前に使える漢字の音訓読みの範囲で読める名前が多かったが、いつの間にか読めない名前が増えていた。今回、読み方が法制化されることで、元の形に戻るのではないか」
■悪魔ちゃん事件
出生届の漢字の読みについては「悪魔(あくま)ちゃん事件」が思い起こされる。
1993年8月、東京都昭島市役所に「悪魔」という名前が届けられた。「悪」も「魔」も常用漢字の範囲であることから窓口では受理。その後、戸籍課職員の間で疑義が生じ、法務省に受理の可否について照会したところ「問題ない」との回答があり、受理手続きに入った。
だが、後日「子の名を『悪魔』とするのは妥当ではない」という旨の指示が法務省から出された。そこから届け出者である父親が家庭裁判所へ不服申し立てをした――というものだ。
結局、94年2月、父親が不服申し立てを取り下げた。その後、父親は「阿久魔という名前はどうか」と市役所に問い合わせたが、「法務局は当て字でも『あくま』はだめという立場」と返答。父親は5月に新しい名前を届けている。
「悪魔ちゃん命名騒動」としてウィキペディアに項目もあるこの騒動から、「親の命名権」「命名権の自由」といった問題が、政治の場でも取り上げられるようになった。
94年、当時の三ヶ月章(みかづき・あきら)法務大臣は「社会通念に照らして、親の命名権の濫用」とした法務省の見解を支持。
同時に「命名の基準のような価値評価がからむ事案に行政庁が一律の基準を作るのは難しい」との見解を示している。今回の戸籍法改正は「行政庁が一律の基準を作る」ことにはならないのだろうか。
■新しい発想の名前が今後生まれなくなる
「日本の人々は自由な発想で新しい表現を生み出すことで、日本語を豊かにしてきました。名前もそのひとつですが、今回の改正が、命名する親を過剰に萎縮させることにならないか、と心配しているんです」
そう語るのは『氏名の史実・現実』(恒春閣)などの著書がある、国語学者の笹原宏之(ささはら・ひろゆき)早稲田大学教授だ。笹原教授は日本製漢字である国字研究の第一人者であり、文化庁文化審議会で常用漢字の選定・改定作業にも携わってきた。
法務省では法制審議会「人名用漢字部会」で幹事を務めたほか、今回の法改正を議論した「戸籍法部会」のメンバーでもある。
「審議会の委員になったとき、議論するためのデータがかなり不足していると思いました。識者の方々は『キラキラネームは規制したほうがよい』と常識的に考えます。けれど、キラキラネームの概念そのものがはっきりしていません。
20年ほど前に誰かが言い出して流布したのですが、そこには『新しく感じる表現による名前を認めたくない』という気持ちがあったのではないでしょうか。
なぜなら年月がたち、新しかった名前が浸透するとキラキラネームと呼ばれなくなっていったからです。私は研究者ですから、データを集めなくては議論にならないと考えました」
そこで笹原教授は早稲田大学などで研究を開始。北海道から沖縄まで日本全国800万人に及ぶ名前のデータを調査の対象とした。
「実際に調べると、名前に関してマスコミで取り上げられる言論も感覚的なものが多いとわかりました。実態を十分に知らないまま『近頃の名前は』と言われていたんです。
例えば『大和(やまと)』という言葉がありますが、『和』だけで『やまと』と読み、『大』は添えてあるだけです。西暦700年代の日本では『漢字2文字のほうが中国っぽくてよい』という理由で、読まないけれども『大』を添えた。
こうした用法を漢文の「置き字」になぞらえることがあります。700年代においては新しい命名です。このように自由な発想で表現を豊かにしてきたのが日本語の漢字と表記なんです。
これを踏まえると現代の、『美空(そら)』『彩夢(ゆめ)』と読む名前も、1300年の歴史をもつ、漢字の読み方の伝統的な方法にのっとっていると言えます。『心愛』を『ここあ』と読ませるのは最近ですが、『心』を『ここ』、『愛』を『あ』と読む例は、『心地(ここち)』や地名の『愛宕(あたご)』など昔からあります。
審議会では『こういう類型にはこのような前例がある』と示して、なるべく多くの表現の余地を残さなくてはと考えました。キラキラネームといわれていた名前の中にも、日本語の伝統にのっとったものがあると知ってほしいです」
ちなみに笹原教授は「運命(さだめ)」「時代(とき)」「本気(マジ)」など、社会では流通しているが辞書には記載されにくい表記を採録した『当て字・当て読み漢字表現辞典』(三省堂)も手がけている。
「ほかにも『飛鳥』をなぜ『あすか』と読むようになったのか、実は今でも明確にはわかっていません。方法としては『本気と書いてマジと読む』と同じ熟字訓なんです。飛鳥時代には『こんな読み方は例がない、だめだ』と感じる人もいたかもしれない。けれど人々に受け入れられて現代まで残りました。
昭和の当時、女性の人口で1位だった『和子(かずこ)』は戦後に流行した名前ですが、なぜ『和』を『かず』と読むのか実はわかっていません。平安時代に名づけに現れた読み方で、算術の『数(かず)』との関連からではないか、いや『かつ』という動詞からではないかなどと推測されていますが、はっきりしない。でも現在まで残りました。
新しい発想の命名を認めないとなれば、『飛鳥』や『和子』のような表現は、今年を限りとして未来には一切生まれなくなってしまいます。一方で、新しい表現も時間とともに更新されて、良くない表現は消えていきます。行政が規制するのではなく、名づけ親がよく学ぶべきだと思うのです」
今回、法務省は「置き字を用いること」はOKとし、「明らかに異なる単語を読み方として付加することは認められない」としている。その理由を法務省に質問したところ次のような回答があった。
「美空(そら)や彩夢(ゆめ)といった置き字は、社会において受容され、慣用されていると考えられる一方、『健』を『ケンイチロウ』『ケンサマ』とする読み方は、社会において受容され、慣用されているとはいえず、社会を混乱させるものと考えられるため」
■キラキラネームの行方
過去に受理されたキラキラネームで、漢字の意味や読み方と関連がないものについては今後どうなるのだろうか? 出生届の受理の判断を任される市区町村の窓口では混乱が起こらないのだろうか。
「一般に認められている読み方かどうかは、社会において受容され、慣用されているかという観点から判断されることになります。個別の読み方については、現在使用されている方もいらっしゃる可能性があることから、当否について言及することは差し控えさせていただきます」(法務省)
なお、出生届がはじかれそうな場合は、漢字の由来や読み方の意味を説明する書類を一緒に提出することができるという。今回の戸籍法の改正にあたり「日本の命名文化を踏まえて運用する」という付帯決議もついているからだ。
「1億人の名前がどのような言葉であるのか、今回、読み仮名によって初めてわかるようになります。その点で日本人が名前について考えるきっかけになるでしょう。名前には他者との識別のために個性があってよいのです。
一方、名づけるときにはその名前が社会でどう受け取られるのか、命名権をもつとされる親にはしっかりと考える義務と責任があると思います。漢字や言葉、そして名前には、歴史と社会性と意義があるからです。
姓名判断を気にする人もいますが、これは昭和に登場した新しい占いであることが知られています。日本語や漢字、名前に関する本も読んで、その名前が社会でどうとらえられるのか、想像してみていただければと思います」(笹原教授)
核家族化したことは、子供の名づけにも影響を与えているだろう―と、笹原教授は言う。極端な名前について、意見を言う上の世代が介在しないからだ。
漢字と仮名をもつ日本語ならではの「読み方」問題。豊かな日本語の未来につながるかどうかは私たちの選択が決めることになりそうだ。
●国語学者・笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
1965年生まれ、東京都出身。国語学者。早稲田大学社会科学総合学術院教授。ティーチングアワード受賞。日本語と漢字の研究者。『国字の位相と展開』(三省堂)で第35回金田一京助博士記念賞、第11回立命館白川静記念東洋文字文化賞受賞。編著書はほかに『日本の漢字』(岩波新書)、『当て字・当て読み漢字表現辞典』(三省堂)、『方言漢字』(角川ソフィア文庫)、『謎の漢字』(中公新書)、『氏名の史実・現実』(恒春閣)など多数
取材・文/矢内裕子 写真/イメージマート