
後編:メジャー&NPB入りを目指すハワイ大ふたりの日本人選手
今季のハワイ大には、メジャーリーグ、日本のプロ野球のスカウトがそれぞれ注目する日本人選手がふたりいる。ひとりは7月のメジャーリーグでドラフト候補に上がる2年生の武元一輝(いつき)、もうひとりが今回紹介する日本のプロ野球入りを目指す4年生の境野竣介だ。
幼少期は千葉からカリフォルニアへ居住地が変わるなか、生活環境の変化においても野球との縁で、ここまで育ってきた過程を振り返る。
【大学最終学年にハワイ大に転校し活躍】
全米大学体育協会(NCAA)1部のハワイ大で今季レギュラーシーズン52試合すべてに出場(先発50)し、3年連続3割以上の打率.314、出塁率も3年連続4割以上で.448、長打率.419、OPS.867。ハワイ大の頼れるシニア(4年生)として存在感を発揮したのが、境野竣介だ。
大学最初の3年は、ハワイ大と同じビッグウェスト・カンファレンスに所属するカリフォルニア州立大ノースリッジ校でプレーしていた。大学キャリアの1号を満塁本塁打で飾り、21試合連続出塁も果たした。3年生時には出場した52試合すべてを二塁手として先発出場し、エラーはわずか2。大学ではレギュラシーズン通算181試合に出場して9エラーにとどめている。
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昨季を終えて「環境を変えたい」と、転校する意思があることを示す"トランスファーポータル"に登録し、一番早くに連絡が来たのが、これまで3年間、"敵"として戦っていたハワイ大だった。同大のリッチ・ヒル監督は、「とにかく守備がうまい。彼のおかげでダブルプレーになる機会も多い。バットにボールを当てるのもうまい」。それだけにとどまらず、「竣の姿勢が好きだ。本当にいい選手。非常に競争力があり、頭もとてもいい」とつけ加えた。
境野は、ハワイ大に移って最初のシリーズとなる対マーシャル大4連戦で、12打数7安打(二塁打3)、7打点、6得点し、チームの開幕4連勝に貢献。ビッグウェスト・カンファレンスの週間最優秀選手を獲得した。シーズン最初の11試合の間は打率4割以上を保ち、シーズンを通しても一度も3割を切らず、主に2番打者としてヒル監督の期待に応えてきた。そんななかでも「波がある」と自らに厳しく、「野球は難しい。でも一貫性を持たせられるようにしていきたい」と課題を挙げた。
【野球が身近にあった日米での少年時代】
野球との縁――。境野は、人生のなかでそれを感じずにいられない出来事に何度も出くわしてきた。始まりは、千葉県で過ごした幼少期にさかのぼる。
幼い頃から祖父の勲夫さんが新聞紙を丸めたボールで遊んだり、休日には父の裕介さんと公園で幼児用の軽いボールを打つなど野球に親しんできた境野だが、野球がより大きな存在となったのは、千葉ロッテマリーンズの本拠地・千葉マリンスタジアム(現・ZOOマリンスタジアム)の近くに住み、その隣人が2006〜07年にマリーンズでプレーしたマット・ワトソンだったことだ。
陽気な性格のワトソンとは家族ぐるみのつき合いとなり、境野の家族を試合に招待してくれたり、何かと親切にしてくれた。当時のボビー・バレンタイン監督とも偶然路上で出くわしたりするなど、日常的に野球に触れる環境にいた。
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だが、境野が5歳の時、裕介さんの仕事の都合で米カリフォルニア州のサンディエゴに移住することになった。「日本語しかしゃべれないまま、キンダーガーデン(日本の幼稚園にあたるが、アメリカの多くの学区では小学1年生に就学前の準備学校的な存在)の年齢でこっちに来たので、英語ができなくて、学校では泣いたりしていました」と母の宏美さん。そんな境野の心を開き、自信を持たせてくれたのが、野球だった。
「泣きながら野球のレクリエーションに参加して、『あれ? 僕が一番うまいかも』っていう感じになって(笑)。英語はしゃべれないけど、野球だとみんなが褒めてくれるので、(本人も)自信が持てて。学校では英語ができなくて泣いていましたけど、野球に行くとすごく元気いっぱいでした。だから野球に助けられました」と宏美さんは懐かしそうに振り返る。
サンディエゴに住んでいたことで、当地で行なわれた2009年ワールド・ベースボールクラシック(WBC)第2ラウンド、そしてドジャースタジアムで行なわれた決勝ラウンドを現地で観戦。日本代表の雄姿を目の当たりにしたことも、境野が日本の野球に敬意を表し、日本人として野球をすることに誇りを持ち、憧れる要因となった。
昨年転校したハワイ大ではイチローの代名詞である「51」が空いておらず、今はデレク・ジーター(元ニューヨーク・ヤンキース)がつけていた「2」をつけているが、その前の背番号は51番。当時6歳で、「野球を始めたのは、イチローさんの影響です」と言うほどのファンだった境野にとって、WBCで日本を引っ張ったイチローさんを実際に球場で見た時間は特別だった。それに加え、イチローさんとともに世界を相手に、時には圧倒し、時には根気強く戦い、勝ち上がっていった侍ジャパンに夢中になった。
「カッコイイですよね。日本を背負って。憧れます」。日本の野球への思いは年々増し、「日本でプレーしたい」という気持ちが強くなった。
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【アメリカの高校・大学で結ばれた人間関係】
アメリカでTボール(ティーに乗せたボールを打つところから始まる競技)から始めた野球も小学4年生頃からサンディエゴで注目のクラブチームに所属し、高校までプレーした。ハイレベルな選手が集まるクラブチームでは、レギュラーの座を巡って熾烈な競争を経験した。「周りのスタンダードが高かったので、置いてかれないようにずっと頑張ってやっていました」。
高校のチームではレギュラーが確約されていた一方で、高校のオフシーズンに活動するクラブチームでは同じチームといえども、仲間としのぎを削り合ってきたことは心身ともに大きな成長につながった。
小学校の時に引っ越した地域で野球部のレベルが高いと言われたランチョ・バーナード高で過ごした日々も、境野の野球人生でかけがえのないものとなった。
同校は、2013年メジャーリーグのドラフトでヤンキースから2巡目全体の66位指名を受け、現役最後は日本ハムでプレーした加藤豪将(現・トロント・ブルージェイズのメジャーリーグ・オペレーション補佐)や元メジャーリーガーの大塚晶文氏の息子で、メジャーリーグのドラフト候補に挙がっていた大塚虎之介(独立リーグ、茨城アストロプラネッツを経て現フィラデルフィア・フィリーズ国際スカウト)らを輩出した縁もあり、境野は歳が離れていたものの、ふたりの先輩から気にかけてもらっていた。加藤からはバットをもらったり、家に招かれたこともあり、大塚がサンディエゴ大でプレーしていた時には同大の練習場で一緒に練習をさせてもらうなど、モチベーションを上げていった。
「僕もそこ(ふたりがいる位置)までいきたいという思いで、高校の時はずっとやっていました」と振り返る。
高校時代のチームメイト、ジャクソン・カスティーヨは2年前にヤンキースとマイナーリーグ契約を結び、現在はヤンキース傘下のハイAで奮闘中。また、昨年まで境野が在学していたカリフォルニア州立大ノースリッジ校の元チームメイトのアリ・キャマリヨも、昨年のドラフトでオークランド・アスレチックスから12巡目で指名された選手で、現在1Aでプレーしている。ふたりとも、クラブチームでもチームメートだった選手だ。
大学野球に終止符を打つ時が来た境野も、ふたりの"球友"たちと同じようにこれからも野球を続け、自らをさらに高めていくつもりだ。
「日本でやってみたいという思いが強いので、できれば日本に行きたいです」
プロ野球はもちろんのこと、社会人野球の挑戦も思い描いている。
今のロールモデルは広島の菊池涼介。「やっぱり守備がうまい。(彼のように)いろんなことができる選手になりたい」。
野球との縁が生まれてから約20年。成人になった境野は日本に戻り、再びボールを追いかけるつもりだ。
今度は、野球選手として。