アンドリー・シェフチェンコの笑顔がもう一度見たい ウクライナの英雄は今、祖国を助けるために奔走している

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2025年05月30日 07:01  webスポルティーバ

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世界に魔法をかけたフットボール・ヒーローズ
【第15回】アンドリー・シェフチェンコ(ウクライナ)

 サッカーシーンには突如として、たったひとつのプレーでファンの心を鷲掴みにする選手が現れる。選ばれし者にしかできない「魔法をかけた」瞬間だ。世界を魅了した古今東西のフットボール・ヒーローたちを、『ワールドサッカーダイジェスト』初代編集長の粕谷秀樹氏が紹介する。

 第15回は「ウクライナの英雄」アンドリー・シェフチェンコを取り上げる。世界屈指のDFが集まるイタリア・セリエAで、ウクライナから来た青年は飄々(ひょうひょう)とした表情でゴールを量産した。ロッソ・ネロのユニフォーム姿は、今も鮮明にファンの記憶に刻まれている。

   ※   ※   ※   ※   ※

 あいかわらず若々しい。48歳になった今も、30代と言っても誰も疑わないようなフレッシュな魅力を維持している。

 アンドリー・シェフチェンコだ。

 世界に衝撃が走ったのは、1997-98シーズンのチャンピオンズリーグ(CL)だった。「ウクライナのディナモ・キーウに驚異的なスピードを誇るアタッカーが現れた」とは聞いていた。

 だが、実際に見てみると、驚異の度合いがケタ違いだった。

 瞬く間にトップギアに入り、シュートを撃っても身体の軸がぶれない。極めて直線的であり、マジックのようなフェイクは用いなかったが、シェフチェンコのスピードなら特別な技巧は不要だった。

 また、相手DFとの間合いをはかるために、いったんストップした状態から再び動き始めても、要するに急激な緩急で下半身に負担をかけても、ハムストリングやひざ、足首が悲鳴を上げることはなかった。天性の柔軟性、強靭のなせる業(わざ)だ。

 しかも、ゴール前では落ち着き払っている。相手GKとの1対1は氷のようにクールで、駆け引きを楽しんでいるかのようにすら映った。さらに裏抜けを繰り返し、オフ・ザ・ボールの動きは攻守ともに申し分ない。

【ファビオ・カペッロも絶賛した】

 そして、身長183cmと決して大型ではなかったものの、空中戦も強く、巧みだった。シェフチェンコの全盛時に対戦したシニシャ・ミハイロヴィッチ(ラツィオ)、ワルテル・サムエル(インテル)、ファビオ・カンナヴァーロ(パルマ)といった超一流のDFが、口を揃えて次のように語っている。

「ジャンプするタイミングはもちろん、上半身のあずけ方とか腕の使い方が巧かった」

 手がつけられないアタッカーである。

 CLでの活躍が高く評価され、シェフチェンコがACミランに新天地を求めたのは1999-2000シーズンのことだった。

 カルチョ・イタリアーノの魅力は、各クラブが戦術の細部にこだわることだ。

 ディナモ・キーウで名将ヴァレリー・ロバノフスキーに戦術の重要性を仕込まれていたとはいえ、ウクライナとセリエAではレベルが違う。「慣れるまで時間を要するのではないか」と、シェフチェンコを疑問視するメディアも少なくなかった。

 移籍初年度に24ゴールで得点王。1999年と2000年にはバロンドールの最終候補にまで残っている。メディアの不安を、シェフチェンコはいとも簡単に一掃してみせた。ミランの監督を務めたこともあるファビオ・カペッロも絶賛していた。

「独善的なストライカーではない。連係を心得、味方に生かされ、よく生かしもする。相手ボールになった際のファーストリアクションも、熱心に研究している」

 自他ともに戦術家と認め、細部にこだわり続ける男の高評価だ。勲章といって差し支えない。

 CL、スクデット、コッパ・イタリアをミランにもたらし、自らは2回のセリエA得点王、2004年にはウクライナ人としてオレグ・ブロヒン、イゴーリ・ベラノフに次ぐ3人目となるバロンドールを受賞するなど、シェフチェンコは眩(まばゆ)いばかりの異彩を放った。充実の7年間は296試合・173ゴール。見事というしかない。

【チェルシー移籍は失敗に終わった】

 2006-07シーズン、ミランからプレミアリーグのチェルシーに移籍した。

 遅きに失した感は否めない。なぜならシェフチェンコは30歳になり、フィジカルの上積みが期待できなかったからだ。

 プレミアリーグはセリエAよりプレー強度が高く、DFは直線的に襲いかかってくる。身体をぶつけ合ってバランスが崩れる。抜き去ったはずなのに追いつかれる。

 さらに、この移籍は現場の声が反映されていなかった。当時、チェルシーのオーナーを務めていたロマン・アブラモヴィッチの肝いりで実現したにすぎず、ジョゼ・モウリーニョ監督は最後までシェフチェンコ獲得に難色を示していたという。年齢が引っかかっていたのだろうか。

 シェフチェンコの動きは芳しくなかった。手を抜いているわけではない。だが、スピードもパワーも本来のレベルからはほど遠い。スタミナが切れるケースも散見した。

「2006年のドイツワールドカップでひざを痛め、身体のキレが失われてしまった。ヘルニアも併発し、気力すら維持できなくなっていた」

 シェフチェンコの述懐である。頑健と思われてきた肉体には、いつの間にか甚大なダメージが蓄積していた。

 もちろん、仕組みの違いも苦戦の要因ではあるだろう。ミランは中盤にアンドレア・ピルロ、クラレンス・セードルフ、カカといったパサーを擁し、速攻も遅攻も自由自在だった。

 一方、チェルシーの中盤はフランク・ランパード、マイケル・エッシェンのハードワーカーが軸だった。前線では強力なポストワーカーのディディエ・ドログバが待っている。シェフチェンコが戸惑ったのは致し方ない。

 2006-07シーズンは51試合・14ゴール。翌シーズンはニコラ・アネルカに定位置争いで敗れ、24試合・8ゴール。結果として、チェルシー移籍は失敗に終わった。

 しかし、ケガをしていなかったら、チェルシーよりもテクニカルで中盤に極上のパサーを擁する、スティーヴン・ジェラードとシャビ・アロンソが居並んでいたリバプールを選んでいれば、シェフチェンコはプレミアリーグでも通用したのではないだろうか。移籍の難しさを如実に表す一例である。

【ウクライナサッカー連盟会長として】

 ミランへのローン移籍を経たあとの2009年夏、シェフチェンコは古巣ディナモ・キーウに復帰。2012年のヨーロッパ選手権を最後に現役から退いている。ウクライナ代表で記録した111試合・48得点は同国最多記録であり、国際舞台でも類稀(たぐいまれ)な得点力を発揮した。

 そして今、シェフチェンコはウクライナサッカー連盟会長の要職にある。ロシアとの戦争は3年の長きにわたり、停戦・終戦の気配は一向にない。アメリカのドナルド・トランプ大統領、EUの仲介も奏功していない。無人機が各地を破壊する映像が、今日もまた繰り返し流されていた。

「私にとって、もはやフットボールは存在しない。ほかのスポーツも見ない。祖国をどうやって助けるか、私に何ができるのか、それだけを考えている」

 開戦直後、シェフチェンコがスペインのスポーツ紙『AS』のインタビューに応えていた。

 若々しかった彼の表情が曇り、額には深い皺(しわ)が刻まれている。戦争はいつ終わるのだろうか。いつになったら、シェフチェンコはフットボールを楽しめるのだろうか。

 もう一度、少年のような笑顔が見たい。

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