【追悼】ルーキー原辰徳がセカンド→控えになった篠塚和典に長嶋茂雄が「腐るなよ」 巨人の安打製造機が振り返る救いの言葉

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2025年06月03日 12:01  webスポルティーバ

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 プロ野球・読売巨人軍の選手、監督として活躍し、「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督が逝去した。なぜ長嶋氏は誰からも愛されたのか。スポルティーバでは今回追悼の意を込めて、巨人軍の愛弟子のひとりである篠塚和典さんが、「人生を変えた」という長嶋氏との出会いを振り返ったインタビュー記事(全3回)を再掲載します(2023年4月掲載)。謹んでご冥福をお祈りします。

野球人生を変えた名将の言動(10)

篠塚和典が語る長嶋茂雄 中編

(前編:巨人のドラ1指名を喜べなかった篠塚が「ミスターに恥をかかせちゃいけない」と思った瞬間>>)

 指揮官として巨人を5度のリーグ優勝、2度の日本一に導いた長嶋茂雄監督。長らく巨人の主力として活躍した篠塚和典氏に聞く長嶋監督とのエピソードの中編は、熾烈なレギュラー争い時にかけられた言葉や、練習時に受けたアドバイスなどについて聞いた。

【ルーキー原がまさかのセカンド起用で「冗談じゃない」】

――長嶋監督は、選手とコミュニケーションを積極的にとる方でしたか?

篠塚和典(以下:篠塚) そうですね。特に第一次政権(1975年〜1980年)の頃はミスターも若かったですし、バッティングも守備も手取り足取りで指導を受けました。ミスターが実際に動きを見せてくれるのですが、選手たちはそれを見て学ぶことが楽しみでしたね。あんなに動ける監督はあまりいなかったですから。

【他のミスター話を動画で見る】原辰徳、地獄のキャンプ裏話 篠塚和典×定岡正二 スペシャル対談

――(前編で聞いた)ドラフト会議の時の言葉をはじめ、野球人生の節目で長嶋監督からさまざまな言葉をかけられてきたと思いますが、印象に残っている言葉は?

篠塚 1981年のレギュラー争いの時ですね。その前年にプロ入り後初めて100試合以上に出場できて、1981年は「セカンドのレギュラーを確保したい」と意気込んで臨んだシーズンでした。そんなタイミングで、原辰徳(1980年ドラフト1位)が入ってきたんです。

 彼はサードでしたし、「セカンドにくることはないだろう」と思っていたのですが......サードには中畑清さんがいた関係で、原がセカンドにきたんですよ。それは確か、ベロビーチ(米フロリダ州)でのキャンプの最終クールの時だったと記憶していますが、「まさか」と思いましたね。

――予期せぬ事態だったわけですね。

篠塚 そうですね。「冗談じゃない」という思いもありましたが、まだキャンプの段階ですし、「勝負はこれからだ」と気持ちを切り替えました。ただ、オープン戦でだいたい使われ方がわかるじゃないですか。オープン戦が残り少なくなってきた頃には、僕がベンチにいて、原がセカンドで起用されていました。

 そんなタイミングで、ミスターが電話をかけてきたんです。ミスターは前年で監督を退任していたのですが、気にかけてくれていたんでしょうね。「腐るなよ。必ずチャンスがくるから、チャンスをもらった時にしっかり力を出せるように準備しておけ」と。さらに、「ベンチにいる時も、練習中も、常に"試合"を意識して取り組め」と言われたんです。

 その言葉をきっかけに、バッティング練習をする時はランナーを自分で想定して「どういうバッティングをしたらいいのか」、ノックを受ける時は「打者は足が速いのか、普通なのか、遅いのか」といったことを想像しながら動くようにしました。

【狙って首位打者を獲り「初めてミスターに恩返しができた」】

――長嶋さんの言葉があったからこそ、頑張ることができた?

篠塚 本当にそうです。ミスターにドラフト1位で指名してもらって以降、5年ぐらい経っているにもかかわらず恩返しができていなかったわけですし。勝負の年として臨んだシーズンも、ルーキーの原にセカンドのスタメン争いで後れを取る形になり......。

 シーズン開幕後も、チャンスがきた時には「必ずものにしなきゃいけない」という思いが強かったですが、ある試合でそのチャンスがきたわけです。

――1981年シーズン、篠塚さんは5月5日の中日戦で、同シーズン初のスタメン出場(2番・セカンド)となりました。

篠塚 5月に入って、中畑さんがケガで離脱してサードが空いて、原がサードに、僕がセカンドに入ったんです。最初の1、2試合くらいはあまり打てなかったのですが、その後の大洋戦でいきなり「3番を任せる」と。そこからですよね、打っていけたのは。

 それでも「そこそこ打っている」程度では、中畑さんが復帰したらまたスタメンで起用されなくなってしまう。だから、首脳陣やチームメイト、ファンの人に対しても、「中畑さんが復帰したとしても、篠塚は外せない」と思わせるぐらいの成績を残さなきゃいけないと思っていました。

――同年、篠塚さんは打率.357をマーク。わずか1厘差で首位打者の藤田平さん(阪神/打率.358)に届きませんでしたが、レギュラーを確固たるものにしました。

篠塚 中学時代から藤田平さんのバッティングを見て、「あんなふうに流し打ちができたらいいな」と思ってやってきましたから、藤田さんと首位打者を争えたのは大きな自信になりました。

 当時は「3年続けて打率3割を達成できたら、ある程度のバッターとして認めてくれる」という時代でしたが、実際に1981年から3年連続で3割を打つことができた。そして1984年は、首位打者を狙ってシーズンに入り、無事に獲得することができました。

 そこで、「初めてミスターに恩返しができたな」と。僕の指名に反対していた人たちに対しても、「『篠塚をドラフトで獲って間違いなかっただろう』と胸を張って言ってもらえるだろうな」という気持ちになりましたね。

【「試合が終わるまでそこで打っとけ」】

――ちなみに、長嶋監督の第一次政権時に指導を受けたなかで、特に覚えているアドバイスはありますか?

篠塚 すべての言葉を聞き逃さないように耳を傾けていましたが、最初にバッティングのアドバイスをもらった時のことが、今振り返ると面白いんです。僕が特打をやっている時に、外野を走っていたミスターがいきなりバーッて走ってきたんですよ。それでバッティングピッチャーに「俺が投げるから代われ!」と言って、長嶋さんが投げてきたんです。

 ど緊張でしたよ。「どういう球がくるのかな」と思って初球を振らずに見たら、真ん中にスーッときて。すると、「なんで打たねえんだ?」という感じで次の球を僕の頭の上に投げてきたんです。

 その後にミスターが近づいてきて、こう言ったんですよ。「ピッチャーが代わったからって、初球を見るのか? もし代打で出て、甘い球が1球目にスーッときたとして、それを見ていたら負けだ。最初から準備していないとダメなんだ」と。

――それは篠塚さんがふだんからそういう傾向があって、長嶋監督も気にしていたということですか?

篠塚 どうなんですかね。とにかく、僕らの悪い部分が目についた時、ミスターはバッティング練習をしているところまでやってきて、「シノはここがこうなっている。これをこうするんだよ」と言われることはよくありました。

 あと、一軍に上げてもらって最初のオープン戦で言われたこともよく覚えています。ミスターから前もって「先発で起用する」と伝えられて、「球場に家族を呼べ」とも言われたんです。それで後楽園球場での試合に家族を呼んだのですが、1打席目に見逃しの三振をしてしまったんですよ。

 それでミスターを怒らせてしまって、後楽園のライトの下にバッティングマシーンが設置されていた"穴ぐら"があったのですが、「試合が終わるまでそこで打っとけ」と。ミスターは見逃しの三振をすごく嫌う方でしたから、僕の打席が納得いかなかったんでしょうね。それで、「見逃しの三振は、もう絶対しない」と心に誓いました。

――篠塚さんのバッティングスタイルにも影響を与えた?

篠塚 そうですね。それがきっかけで自分のなかでストライクゾーンを少し広くしました。本来のストライクゾーンから、ボール1個半ぐらい外れていても打っていこうと決めたんです。

 ストライクとボールの見極めはけっこう大変なことですし、ミスターの教えもあり、「フォアボールを選ぶよりも打っていこう」と。フリーバッティングをやる時も、「どんなボールでも全部打とう」と意識して取り組むようになりましたね。

(後編:長嶋茂雄監督から「準備しなくていい」の直後に「代打・篠塚」 ミスターの直感は多くの人を困惑させ、惹きつけた>>)

【プロフィール】

篠塚和典(しのづか・かずのり)

1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番打者などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年〜2003年、2006年〜2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。

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