
連載第53回
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
今回は、サッカー日本代表がW杯最終予選の最終戦で戦うインドネシアとの対戦の歴史です。初対戦は1934年。過去のW杯予選では劣悪なピッチコンディションで戦ったこともありました。
【昨年まで35年対戦がなかったインドネシア戦】
2026年W杯予選最終戦で日本代表はインドネシアと対戦する。
代表経験の少ない選手を多く招集した6月シリーズ。森保一監督はオーストラリアとのアウェー戦で若手中心のメンバーを送り出した。それでも日本はボールを握り続け、オーストラリアにほとんど攻撃の形を作らせなかったが、オーストラリアは守備を固めて失点を防ぎ、終了間際にこの試合で唯一のチャンスを決めて勝利を手繰り寄せた。
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主力組が出場したホームゲームでも日本はオーストラリアの堅守には手を焼いた(得点はオウンゴール)。W杯で優勝を目指すというのなら、守りを固めた相手から強引にでもゴールを奪いきる力が必要だろう。
いずれにせよ、"まさかの敗戦"を喫した森保監督はインドネシア戦でどのようなラインアップを選択するのだろうか?
日本とインドネシアは過去20回対戦し、日本の12勝2分6敗という成績が残っている。
「意外と多く対戦しているんだな」、「で、意外に負けているんだな」という印象ではないだろうか。
それもそのはず、1989年のイタリアW杯予選で対戦して以来、インドネシアとは昨年1月のアジアカップまでなんと35年も対戦がなかったのだ。対戦が多かったのは1970年代から80年代、つまり日本サッカーの低迷期だった。「6敗」を記録しているのはそのためだ。日本サッカーが急成長した1990年代以降は対戦がなかった。
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東南アジアのなかでは1960年代頃まではビルマ(現ミャンマー)が強く、1970年代にはマレーシアが強化を進めた(1972年と80年には日韓両国をおさえて五輪予選を突破)。その後、シンガポール、タイ、ベトナムが台頭したが、インドネシアはずっと陰に隠れた存在だった。
だから、日本のファンにとってインドネシアはあまり印象に残っていないのだ。
【1989年。泥だらけのW杯予選】
20世紀最後の対戦となった1989年6月11日のホームゲームは東京都北区の西が丘サッカー場で行なわれた。現在は「味の素フィールド西が丘」と呼ばれ、WEリーグの日テレ・東京ベレーザのホームとなっており、大学リーグや関東リーグ、高校サッカーなどで使用されることが多い小さなスタジアムだ。
1972年に東京で初のサッカー専用スタジアムとして完成。1989年当時の収容力は約1万人だった。
なぜ、W杯予選がそんな小さなスタジアムで行なわれたのか?
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Jリーグ開幕のわずか4年前、代表人気はそんなものだったのだ。1968年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得して以来、一度もW杯や五輪予選を突破できずに低迷していたのだから無理もない。
前週6月4日に日本が2対1で逆転勝利した北朝鮮戦は国立競技場で行なわれ、3万5000人が集まったが、かなりの部分は在日朝鮮人の観客だった。そして、西が丘でのインドネシア戦では、その小さな西が丘も満員にならなかった。
JFAは「9000人」と発表したが、実際はもっと少なかったはずだ(Jリーグ開幕前は実数発表なし)。5月にジャカルタで行なわれたアウェー戦はスナヤン・スタジアムに8万人を集めて行なわれたのだからまことに恥ずかしい数字だった。
ちなみに、1週間後の香港戦は神戸ユニバー記念競技場で行なわれ、観衆は2万8000人。スコアレスドローに終わった。
さて、西が丘でのインドネシア戦は雨のせいでピッチは泥沼状態だった。
当時の日本のスタジアム事情は非常に貧弱なもので、初夏に植え替えられた夏芝は冬になると枯れて白く変色。そして、日本サッカーリーグ(JSL)や大学リーグ、高校選手権などで酷使された西が丘の芝は禿げあがってしまっていた。
そこに、雨が降ったものだからピッチは泥だらけ。選手たちのユニフォームはたちまち真っ黒になってしまった。
日本代表は15分にDFの堀池巧が先制し、その後も得点を重ねて5対0で大勝したのだが、インドネシア側からピッチコンディションについて苦情を言われる始末だった。
日本のピッチコンディションの悪さのせいで、相手チームのテクニックが封じられ、それが日本に有利に働くこともあった。
1961年11月にチリW杯予選大陸間プレーオフの韓国戦(ソウル)の帰りに日本に立ち寄ったユーゴスラビア代表が国立競技場で日本代表と対戦したことがあり、日本は0対1と善戦したのだが、ユーゴの監督は「こんな芝生のないピッチで試合をしたことがない」と苦言を呈した。
Jリーグが開幕してから、日本のスタジアムは急速に改良された。
フィールドは地盤から整備し直され、夏芝と冬芝を使い分けて一年中緑の芝生が維持されるようになり、21世紀に入ると日本のスタジアムのピッチは世界のどこと比べても遜色ないものとなった。
そうなると、それまでとは逆に国内のすばらしいピッチに慣れた日本の選手たちがアウェー戦でピッチコンディションに悩まされる事態となった。当時、アウェー戦を報じる記事には「劣悪なピッチコンディション」というフレーズが頻繁に使用された。
たとえば、2001年3月のフランス戦。日本の選手たちはスタッド・ド・フランスの緩いピッチに足を取られ、まともにプレーできたのは中田英寿だけだった。
もっとも、最近は日本選手のレベルがさらに上がり、また海外でプレーする選手が増えたおかげで悪コンディションも苦にせずにプレーできるようになった。そのため「劣悪なピッチコンディション」はすっかり死語となった。
【戦前にも一度だけ対戦】
第2次世界大戦後に独立するまで、現在のインドネシアは「オランダ領東インド」(蘭印)と呼ばれていた。
インドネシアという国は、西はスマトラ島から東はニューギニア島までの広大な領域にまたがる大国で、現在の人口は2億7000万人に達しており、国内には様々な言語を話す多くの民族がともに生きている。かつて海洋大国だったオランダが17世紀に勢力下に置いた地域がインドネシアという国になったためだ。西欧列強は、アジアでもアフリカでも現地の事情に関係なく、自分たちの都合で勝手に国境線を引いた。
その蘭印の代表と、日本は戦前に1度だけ対戦したことがある。1934年にフィリピンのマニラで開かれた第10回極東選手権大会の初戦だった。日本、中国、フィリピンの3カ国が参加して1910年代から行なわれてきた極東選手権大会はこの大会が最後となるのだが、第10回大会には蘭印も招待されていた。
蘭印戦では、前半16分にオランダ系のヤーンに先制点を奪われると、その後も失点を重ね、日本は1対7という大敗を喫した。
現在のインドネシア代表は、オランダ生まれオランダ育ちの選手を数多く招集して強化を図っているが、当時の蘭印代表は現地在住のオランダ人や中国系を含む多民族のチームだった。
蘭印戦の直接の敗因はマニラの暑さと雨に悩まされたことだった。同時に、日本は関東、関西の選手を集めて全日本選抜を作ったのだが、事前合宿で十分なトレーニングができなかったのも影響していた。
日本が中国東北部に作った傀儡国家「満洲国」が極東選手権大会への参加を要求。中国はもちろんこれに絶対反対。サッカー日本代表の竹腰重丸監督は大日本体育協会の役員として、「満洲国参加問題」に忙殺されてしまったのだ。
【幻となった日本のW杯初出場】
その後、1936年のベルリン五輪で強豪スウェーデンに逆転勝ちという殊勲の星をあげた日本は、1938年にフランスで開催されるW杯に初めてエントリーした。そして、アジアから日本以外に唯一エントリーしたのが蘭印だった。
蘭印とのW杯予選は1938年1月に中立地、中国の上海で行なわれることが決まっていた。1934年に大敗を喫したとはいえ、その後の試合で蘭印はフィリピンに敗れていた(日本はフィリピンに勝利)。1936年のベルリン五輪で活躍したことを考えても、日本が蘭印に勝利してW杯出場権を獲得する可能性は大きかった。
だが、1937年7月に北京近郊の盧溝橋で日本軍と中国軍が小競り合いを始めた。戦火はたちまち拡大。翌月には第2次上海事変が発生。日中戦争が始まったため上海での試合は開催不可能となり、結局、日本が棄権。1938年には1940年に東京での開催が決まっていた夏季五輪の開催も返上することになってしまう。
なお、日本の棄権を受けて蘭印はW杯に参加したが、1回戦でハンガリーに0対6と大敗した。
戦争の勃発のために1938年フランスW杯出場の機会を逃した日本のサッカーは、その後の戦争を経て弱体化。初めてのW杯出場は60年後に奇しくも同じフランスで開催された1998年大会まで持ち越しとなってしまった。
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