フィリピン・スラム街の日本人“ネオギャル校長”が明かす、パリピ生活から“寺子屋”を作るまでの紆余曲折

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2025年06月16日 09:20  日刊SPA!

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NGO Anya's HOME INC.代表 /“ネオギャル校長”のAnya(あにゃ)さん
青い海に白い砂浜、フィリピンで人気の観光地として知られるセブ島。しかし、そんなリゾート地の陰には、経済格差や貧困などの深刻な社会課題が見え隠れしている。
じつはセブ島にはスラム街が多数存在しており、路上で物乞いや物売りをするストリートチルドレンが目立つ。誘拐や人身売買などの犯罪も頻発している。

こうしたなか、スラム街などで恵まれない子どもたちの居場所や学びの場を提供する寺子屋「Anya’s HOME」を運営しているのがNGO Anya’s HOME INC.代表のAnya(あにゃ)さん。

その見た目から“ネオギャル校長”と呼ばれているが、小さい頃から「将来は孤児院を建てる」という目標に向かって前に進んできた女性である。

セブ島のスラム街でNGO活動を行っている背景や、その原動力になっている想いについてAnyaさんに話を聞いた。

◆テレビを見て衝撃!小学5年生で知った「世界の現実」

Anyaさんの今の活動は、小学校5年生のときにテレビ番組「世界がもし100人の村だったら」を見たのが原点になっているという。

世界には食べ物が手に入らずに、ごみを拾いながら生活している子どもたちがいる。

このような現実を知り、強い衝撃を受けたAnyaさんは、不公平な世の中を変えるために「孤児院を建てる」ことを胸に誓った。

「小学校から中学校までずっと給食があったんですが、9年間で一度も『給食が足りない』」と思ったことはなくて。もちろん、幼少期には誰にでも好き嫌いがありますし、私は自分が好きなものを、あまり食べなさそうな子たちからもらって、その代わりに自分の嫌いな給食をあげていました。そんな“トレード”を自然としていたんですが、食べものの交換みたいなことが、広い意味での助け合いや支え合いにつながるのではと、当時は漠然と考えていましたね」(Anyaさん、以下同)

孤児院を建てたいと思うようになってからは、お小遣いを募金したり、国境なき医師団やユニセフといったNGO団体に寄付したりしていたという。しかし、その頃はスマホもSNSもなく、「自分の募金がどんな子たちに届いているのか、どの国にいっているのかが全く見えない状態で、支援している実感が持てなかった」と、もどかしさを感じていたそうだ。

そのため現在の活動では、メルマガのように一方的な情報発信よりも、SNSを通して「目で見てもわかる形」で活動報告するように心がけているのだとか。

「SNSは受け取る人が見たいときに見ることができるし、見たくなければスルーできる自由さがあります。このSNSの仕組みはすごく時代にも自分の考え方にも合っていて、本当に助かっています」

◆カナダでのホームステイと家庭環境が育てたチャリティー精神

そんなAnyaさんだが、小学生時代に何度かカナダへホームステイに行く機会があり、「日本とは異なる教育環境に触れたことが、すごく大きな経験になっている」と話す。

「今思えば、日本の学校や社会のシステムが、当時の自分にはちょっと合わなかったのかもしれません。カナダでは『チャリティーする文化』が身近にあったのに対し、その頃の日本にはそういった文化がまだ根付いていなくて、子どもながらにその差を感じていました」

このような価値観に出会えた背景には、「家庭環境も大きく関係している」と佐々さんは付け加える。

「私の祖父は、近所の子どもたちを自家用の観光バスでいろいろな場所へ連れて行ったり、パン屋さんでたくさんのパンを買っては、ホームレスの方に配りに行ったりしていたんです。また、祖父家ではたくさんの動物を飼っていて、保護活動のようなこともしていました。こうした自然と誰かに手を差し伸べる姿勢や優しさを幼い頃から見ていたのもチャリティーに関心を持ったきっかけだと思っています」

◆「毎日が“パリピ生活”だった」ギャル時代のクレイジーライフ

その一方で、中学校から“ギャル”に目覚めるようになる。

浜崎あゆみ、安室奈美恵、モーニング娘。など、テレビや雑誌に出ている芸能人たちに憧れ、とにかく“可愛い人になりたい”という気持ちが芽生えたそうだ。

「小さい頃はピアノや家庭教師、スキー教室、テニスや体操など、習い事もたくさんしていて、毎日何かしらの予定があったんです。でも正直、それがちょっとしんどくて……。ときには習い事に行くふりをして、公園で休んだり友達と遊びに行ったりしていましたね。中学校ではバレーボール部に一応所属していたんですが、ほとんど練習に参加しない幽霊部員でしたし、勉強もろくにやってこなかったんです」

高校は訳あって中退。その後、大学検定(大検)を取得して、2歳から習っていた英語を活かすためにアメリカの大学へ通うことになる。だが、ここでも“パーティーざんまい”で留年してしまい、結局は中退することに。

「大学時代は友人とナイトクラブに行ったり、ホームパーティーを開いたりと、毎日が超楽しくて。だいたい朝方に帰宅することが日常茶飯事でしたね。

あの頃は本当にアメリカに行った理由が『パリピになる』ことだと言えるくらい、破天荒な生活を満喫していました。でも、そんな“クレイジーライフ”を送っていたからこそ、Anya’s HOMEの子どもたちが嘘をついていたり、ズルをしていたりするのが手に取るように分かるんですよ」

◆マニラでサロン経営も失敗。一文無しで始めたキャバクラ嬢は天職だった

大学中退後、孤児院設立の資金を工面するため、高校時代の友人の母親からフィリピン・マニラの知人を紹介してもらうことに。すると話がトントン拍子に進み、マニラでトータルビューティーサロンを立ち上げることになった。だが、起業したのも束の間、そこから挫折と失敗を味わうことになる。

「経営の知識や経験はおろか、現地の文化や商習慣も知らずにいきなり始めてしまったのが間違いでした。従業員にお金を横領されたり、出資者からは軽く見られたりとトラブルが続き、なかには『愛人契約する気はあるか?』などと言ってくる人までいて、ナメられているんだなって悔しかったし、怖かったです。

ここまで自分を犠牲にしてまでやりたくなりと思い、日本に帰国しようと決意しました。ちょうどビザも切れていたタイミングで、お金も一文無しだったことから、まずは生活のためにキャバクラで働くことにしたんです」

キャバクラでの仕事は、Anyaさんにとって“天職”だったという。

最初は地元の名古屋でナイトワークを経験したあと、東京に上京して六本木や赤坂のキャバクラで働いていたそうだ。

「学生時代からイベントごとやパーティーが大好きだったこともあって、毎晩髪をセットし、ドレスを着てエレガントな空間で働けるのが、もう楽しくて仕方なかったんですよ。毎日がお祭りみたいな感覚でした。私自身、お酒は飲めないんですが、お客さんからお酒を勧められても『どうやったらうまく乗り切れるか』というある種のゲームとして楽しんでいました。

幸いにもお客さんに恵まれて、私がお酒を飲めないことを理解してくれる優しい方が多くて。同僚やお店の黒服(スタッフ)さんにもたくさん支えてもらいました。キャバクラは3〜4年ほど働きましたが、月収は最高で200万くらいは稼いでいたと思います」

◆寄付されたお金には「責任」がある

Anyaさんは数年働いたキャバクラで稼いだ資金をもとに、孤児院を建てるという目標を叶えるために、2019年にセブ島へ移住する。じつは17歳の頃に、英語留学でセブ島に一度訪れており、そこで寄付金や支援物資を送るだけでは掴めなかった現実を知ったことが、この地で施設を建てようと思った原体験になっている。

「最初は南国のリゾートを思い描いていたんですが、実際にはジャングルのような環境が広がっていて、歩くたびに物乞いをされ、怖くて泣いてしまうほどでした。私に何ができるだろうと思って、子どもたちにお金を渡せば状況が少しは良くなるかもしれないと信じていました。

でもある晩、昼間にお金を渡した子が薬物を使っているのを見かけてしまって。その瞬間に怒りが込み上げてきましたが、お金の使い方や生活の基本、マナーを学べる機会がなかったのかもしれないと考えるようになりました。それ以来、必ずこの場所に戻ってきて、教育や支援を届けられる施設を立ち上げようと心に決めたんです」

2019年に再び訪れた際は、かつてスラム街だったところが綺麗になっていたりと、状況が一変していたため、タクシー運転手に貧困エリアへ連れて行ってもらったのが最初のスタートだった。そこから、クラウドファンディングで資金を募り、2019年7月に寺子屋「Anya’s HOME」を正式に開校した。その後も、継続的なクラウドファンディングを通じて、運営体制の強化やスタッフの増員、さらにはスクールバスの購入など、着実に活動の幅を広げている。

そんななか、最初の頃は従業員を雇わずに寺子屋を運営していくつもりだったとAnyaさんは言う。

「以前にマニラで事業を始めた際、従業員にお金を抜かれてしまった苦い経験があったからこそ、支援金は私にとって特別な意味がありましたし、とても重たい責任を感じていました。もし、横領されたりしたら、自分がどれだけ謝罪しても、自腹を切ってカバーしようとしても、信頼はもう戻ってこないわけで、最初は一人でやろうと思っていました。

それがいざ支援活動を始めると、ご飯を作ったり洗い物をしたり、子どもたちに勉強を教えたり面倒を見たりと、想像以上に大変でした。現実的に考えても一人で回すのは無理だと悟ったので、人を雇う方針に変えたんです」

◆簡単には引き下がれない「想い」と「覚悟」

だが、現地スタッフの雇用を始めたことで運営が回ると思いきや、今度は文字の読み書きができない、英語も話せない、遅刻や無断欠勤が当たり前と、スタッフの働き方や仕事への姿勢について悩みを抱えるようになってしまう。

「郷に入っては郷に従え」という気持ちで育ってきた環境や文化の違いを受け入れながら、スタッフと向き合っていかなければならない。

Anyaさんは、なぜ自分がこの国を選んだのかという理由を理解してもらい、もしもそのスタッフが無理ならば他の場所に行って(辞めて)もらって構わないというスタンスを貫いているという。

すべて包み隠さず話し、表も裏も全部さらけ出して伝える。そのような覚悟を持ち、スタッフとコミュニケーションしていくうちに、少しずつ仲間が増え、チームとして成長していく実感を得られるようになったという。

「そもそも私の行動は、幼少期からの経験や家族全員が辛くても耐えるという環境で育ったことも大きく影響しています。誰かに頼まれてやっているわけじゃないし、むしろ大反対されながらも自分で決めてやってきたからこそ、プライドや意地もあります。もちろん、悩むこともたくさんあって、声をあげて泣いたり発狂したりと、感情を爆発させることもありました。

そうやって自分と向き合い、どうしたらいいかを何度も考えながら、『ここで諦めるわけにはいかない』と自分を奮い立たせてきたんです」

楽しいときは思いっきり全力で楽しみ、辛いときはとことん落ち込む。どんな状況であっても、今という時間を全力で生きる姿勢こそ、Anyaさんらしさであり、NGO活動を続ける原動力になっているのではないだろうか。

「国際協力と聞くと、なんとなく誠実で慎ましいというイメージが強いので、派手な化粧やメイク、ファッションが御法度だと思われがちです。でも、外見で判断するのではなく『何をやっていて、どんなことを考えているか』を知ってほしいんです。

私自身、学歴や優れたスキルがあるわけではありませんが、自分なりに努力して10歳の頃から夢見てきた目標を実現できました。こうした実体験を踏まえて、寺子屋で面倒を見ているAnya’s Kidsたちには『生い立ちとかは関係なく、最終的には“自分次第”で人生はどうにでも変えられる』と伝えています」

Anyaさんは「土地の確保や資金面、人材不足といった課題が山積み」だと言うが、将来的には寝泊まりのできる寄宿舎を作りたいという。

子どもたちの人権を守り、安全な場所で生活できる環境を整えることで、新しい世代のリーダーが育ち、フィリピンという国の未来を切り拓いてもらいたい、という願いがあるそうだ。

ネオギャル校長の挑戦はこれからも続いていく。

<取材・文/古田島大介>

【古田島大介】
1986年生まれ。立教大卒。ビジネス、旅行、イベント、カルチャーなど興味関心の湧く分野を中心に執筆活動を行う。社会のA面B面、メジャーからアンダーまで足を運び、現場で知ることを大切にしている

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  • 一人でやれる大きさで始めて、人雇うのはうまく行ってから、と思うけど、まぁ正解は一つじゃないから。
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