冬至堅太郎さん(冬至克也さん提供) 「戦争には不条理な被害と加害の連鎖がある」。80年前の6月19日、福岡市に焼夷(しょうい)弾の雨が降り、母親を失った元陸軍主計大尉の冬至堅太郎さんは翌日、捕虜の米兵を処刑した。戦後絞首刑判決を受けた冬至さんが獄中で記した日記を手に、三男の克也さん(71)=同市=は複雑な心境を口にする。
米軍のB29による市街地爆撃で1000人以上の死者・行方不明者が出た福岡大空襲。手記や裁判資料によると、冬至さんは空襲後の1945年6月20日、旧陸軍西部軍司令部(同市)で母親のひつぎを準備中に捕虜だったB29搭乗員の処刑現場に遭遇し、志願して4人を斬首した。
戦後はBC級戦犯として巣鴨プリズン(東京都豊島区)に収監され、「巣鴨日記」と題した日記を残した。入所した46年8月から、52年10月まで約3000ページにわたり、残された家族への思いや裁判の状況、生活の様子などが詳細につづられている。冬至さんは死刑判決から終身刑に減刑された後、58年に出所した。
「絞首刑!これが私に与えられた判決である」。判決当日の48年12月29日の日記には、「深い海の底にしんしんと沈む様な思いがした」との記載とともに、率直な心情がにじむ。軍律会議を経た正式な処刑と信じていたことや、2人目以降の処刑は命令されたことなどから再審に意欲を示す一方、翌年1月1日には「戦争の一様相、人類進歩のための犠牲、あるいは無限の因縁の果として私は素直にこれを認める」とも記した。
朝鮮戦争が始まり、看守の米兵が戦線に出動していく記述のある50年7月14日は「二十歳前後の若い兵が北朝鮮軍の銃火にバタバタと死ぬのかーと思うとかわいそうでならない」と同情を寄せ、「戦争は嫌だ」と締めくくった。
看守に処刑当時の心境を問われた場面もある。「志願するまでは本当に怒っていた」と吐露する一方で、妻から「(処刑された)飛行士たちには奥さんや子どもがあったでしょう」と諭されたことも明かした。
冬至さんは出所後、処刑した米兵を思い4体の地蔵と小さな地蔵1体を自宅の庭に置いた。晩年にはアジアからの留学生を自宅に招くなど交流を重ね、熱心に支援。克也さんに「アジアの国に迷惑をかけた。それを忘れてはいけない」と語っていた。
83年に68歳で亡くなった冬至さんは「戦勝国が敗戦国を裁くのは理不尽で間違っている」と説いていた。克也さんは「これがまかり通ると、降伏できなくなる。父の日記は戦争がいかに不条理かを感じることができる」と話した。

冬至堅太郎さんの「巣鴨日記」を広げ、説明する克也さん=5月12日、福岡市中央区

冬至堅太郎さんの「巣鴨日記」=5月12日、福岡市中央区

処刑した米兵を思い、冬至堅太郎さんが自宅の庭に置いていた地蔵を眺める克也さん。地蔵は現在、別の場所に移されている=5月13日、福岡市城南区

戦後、留学生らと交流する冬至堅太郎さん(写真上下ともに中央)(冬至克也さん提供)