井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち09:鬼塚勝也
1990年代、日本のボクシング界は、ひとつの黄金時代を作った。辰吉丈一郎(大阪帝拳)が数々の伝説を作る。さらにキャラクター豊かなスターたちが、リングに輪舞した。鬼塚勝也(協栄)もその個性派スターの重要なひとりである。スーパーフライ級としては長身で、ロングヘアーをなびかせながら、難敵にとことん迫っていく。見た目は"今どき"でも、その実、自らとの戦いに明け暮れたストイックな生きざまがファンの胸を射った。
<文中敬称略>
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【スタイリッシュながらも激闘を追い求める】
1990年ころ、熱心なボクシングファンに向けた月刊誌『ボクシング・マガジン』は、ニュースターたちにニックネームをつけようと提案した。海外にはシュガー・レイ(ロビンソン、レナード)、マーベラス・マービン(ハグラー)、モーターシティ・コブラ(トーマス・ハーンズ)など、ちょっと洒落たニックネームがあふれているのに、日本の選手のそれは猛獣ばかりの動物園のよう。日本のボクサーにもっとかっこいいセカンドネームをつけたい、と考えたのだ。
そして、鬼塚勝也の取材に携えていったのが、"エレクトリック・ウォリアー"。グラムロックの走り、Tレックスのアルバムタイトルからそっくりパクった。電光のスピードに乗せて、常に厳しい戦場を追い求める鬼塚にぴったりではないか。
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「それなら、必要ありません。ニックネームはもう決めていますから」
鬼塚にいきなり"拒否られた"。
「スパンキー・K(Spanky K)です。『K』は勝也からですが、スパンキーは勇敢、元気という意味です。この言葉を口にすれば、一気に走り抜けるという感じがしませんか?」
鬼塚の回答は、たしか、そんなふうだったと思う。言われてみれば、"スパンキー"というのが、この男のボクシングを表すのに、もっとふさわしい響きなのかもしれない。
闘魂のボクサーだった。何が何でも勝ち抜くために全力疾走で戦った。18歳のプロデビューから24歳の引退まで常にそうだった。小さくステップを踏みながらの、スピード豊かなワンツーストレートこそ最大の持ち味なのだが、対戦者が望むのならエスケープに走るのを潔しとしない。近距離から打ち込むコンビネーションブローは、どのパンチも強く、正確に敵の急所を打ち抜いた。ことさらに多彩な角度を持つ左フック、ここぞのタイミングで跳ね上げる右のアッパーカットは強烈だった。
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福岡県北九州市の名門・豊国学園高校2年生時にインターハイ・ライトフライ級優勝の実績を残しながら、1988年のプロ転向後は4回戦でスタートを切る。いきなり3連続初回KOを含む5連勝で東日本新人王戦(スーパーフライ級)を勝ち上がり、決勝は判定勝ちで"チャンプの登竜門"を楽々とクリアした。
全日本新人王決定戦から再びKO街道を走る。1990年5月にはノンタイトル戦ながら、東洋太平洋チャンピオンの杉辰也(山口協栄)を一方的に攻めつけ、7ラウンドに相手側タオル投入によるTKO勝ち。そして、最初の関門、日本チャンピオンのベルトに挑んだ。同年10月のことだ。
中島俊一(ヨネクラ)との対決こそ、鬼塚の強さを天下に知らしめた最初かもしれない。典型的なファイタースタイルの中島はとにかくしぶとい。相手が音を上げるまで攻め続けてくる。基本的にはスタイリッシュな鬼塚とは対照的なスタイルながら、勝利への執着心は等しい。激烈な戦いの予感に、会場の後楽園ホールには、あふれんばかりのファンが集まった。期待どおりの打撃戦となったこの戦い、鬼塚は最終10ラウンド、右ストレートからチャンスを切り拓くと、連打の雨を降らせてTKO勝ち。5カ月後、待望の再戦も寸暇の余白がいっさいない打撃戦の末、判定で勝利をもぎ取った。
実績をきちんと積み上げ、1992年4月10日、鬼塚はWBAのスーパーフライ級王座決定戦に臨む。タノムサク・シスボーベー(タイ)に小差ながらも3−0判定勝ちで、ついに世界チャンピオンとなった。
デビューから4年半。19戦全勝(16KO)。だが、その疵(きず)ひとつない戦績も、あふれんばかりの才能によって、やすやすともたらしてくれたものではなかった。
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【少年時代から重ねたストイックな日々】
鬼塚が「世界チャンピオンになる」と決意したのは小学生のときだった。それまでは、ただのやんちゃ坊主だったのが、その決意とともに一変したという。はや、体力強化、節制の準備を始めたのだろう。動作所作まで別人のようになったという。「そういう人だから、世界一になったのかもしれません」。その変身ぶりを実地に見てきた人は、いまさらながら感心したと言いたげだった。
世界の最高地点を目指したからこそ、貫き通したのは勝利へのこだわりだった。高校3年生のインターハイは優勝候補として臨んだ。1年前のタイトル獲得時から、プロ垂涎の存在でもあった。だが、準決勝、こちらものちの世界チャンピオン、川島郭志(徳島・海南高校)に大差の判定負けを喫した。鬼塚の攻防は、川島の巧みな試合運びに、ずっと空回りしていた記憶がある。
翌日、決勝戦を前に、体育館の廊下で鬼塚に出会った。「残念だったね」と声をかけると、苦々しく顔を歪め、ぷいと背を向けて歩き去った。よほど、悔しかったのだろう。二度とこんな気持ちになりたくない。その思いが、勝利への執念により結びついた。
プロになってからの鬼塚の戦いから伝わってくるのは、一刻一秒たりとも打ち負けたくないという激しい闘志だった。周囲から「安易な闘い」と見られることも嫌った。被弾が少ない選手ではなかったが、打たれるごと、手数を倍加させて反撃に移る。その勢いは終盤戦になっても褪せることはない。圧倒的なスタミナとともにパンチを打ち続けた。
それができるだけの練習量があった。延々と重ねたストイックな日々があった。常に『自分の限界を越えてやる』という思いがあった。さらに、決してくじけることのない決意があった。
マネージャーが片岡鶴太郎ということで話題性を作り、目立つファッションも好んだ。しかし、それも鬼塚勝也というボクサーのただの一側面にしか過ぎない。自分に厳しい男だった。
【痛恨のTKO負けで王座陥落。そして引退】
世界チャンピオンになってからの鬼塚は、まずは快調な足取りで防衛戦をこなす。初防衛戦でTKO勝ちした松村謙一(加古川神戸)は世界挑戦4度目のベテラン。次の挑戦者、"モンストラオ"(怪物)という異名を持つアルマンド・カストロ(メキシコ)は信じられないほどに打たれ強いタフガイだったが、最大11ポイント差をつける大差判定勝ち。
だが、V3戦以降は厳しい戦いの連続だった。林小太郎という名前で京都のジムに所属していた林在新(韓国=リム・ジェシン)、タノムサクとの再戦、さらに一撃強打に定評があった李承九(韓国=リ・ソンク)とクロスファイトが続く。いずれの試合もホームタウン・デシジョンとの厳しい声も上がった。判定など見方次第とわかっていても、だれもが認める世界一のボクサーになりたかった青年にとって、あまりにも苦い評価だったろう。そんな心の成り行きがつぶさに反映されたのが、6度目の防衛戦だった。あまりに悲壮な戦いだった。
1994年9月18日。挑戦者の李炯哲(韓国=リ・ヒョンチョル)はタフな武闘派で、厳しい打撃戦を得意にする。鬼塚はそんな李を相手に、まったく足を使わなかった。真正面からの打ち合いを自ら望んだ。チャンスとピンチが再三にわたって交錯する打撃戦の果てに迎えた9ラウンドだ。李の右ストレートに効かされ、長大なラッシュの嵐に直面した。打ちまくられること80秒間。グロッギー状態だったが、鬼塚は倒れることを拒んだ。すでに危険な段階に進んでいた戦いを、やっとレフェリーが止めた。9ラウンド2分55秒のことだ。
鬼塚は病院に直行、入院する。翌日、網膜剥離を理由に引退を発表した。眼疾はむろんながら、この試合で負ったダメージを考えても、適切な判断だった思う。
5年後、福岡市内にボクシングジム『スパンキーK・セークリット・ボクシングホール』をオープンさせる。選手の指導とともに、画家としても活動し、何度も個展を開いている。
この4月、福岡県立美術館で『鬼塚勝也ファイティングアート展』が開催された。この原稿を書く前、そのオープニングで開催されたトークショーをYouTubeで確認する。かつての戦友、片岡鶴太郎とともに登壇した鬼塚は、絵画の話題の中にボクシングにかけた情熱をこう織り込んだ。
「自分の才能を感じたことは一度もない。だけど、なれる、なれないじゃなくて、これしかないと思ってやってきたから世界チャンピオンになれたのだと思う」
ボクシングであっても、絵画であっても、自分自身の限界をえぐりとるまで挑み続ける。
鬼塚勝也。やっぱり、カッコいいぜ。
Profile
おにづか・かつや/1970年3月12日生まれ、福岡県北九州市出身。本名・鬼塚隆。小学生で世界王者を目指すことを決意。豊国学園高校2年生でインターハイ優勝。高校卒業後に協栄ジムからプロに転向した。1988年4月18日に初回KO勝ちでプロデビュー。同年、東日本新人王、翌春には全日本新人王戦も制した。1990年10月15日、老練な中島俊一(ヨネクラ)を破って日本スーパーフライ級タイトル獲得。1992年4月10日、タノムサク・シスボーベー(タイ)と空位のWBA世界同級王座を争い、判定勝ちで世界王座奪取。5度の防衛後、李炯哲(韓国)にTKOで敗れた一戦がラストファイトになった。右利きのボクサーパンチャー。身長、リーチとも173cm。25戦24勝(17KO)1敗。現在はボクシングジムの経営とともに画家としても活動している。