
語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第16回】菊谷崇
(御所工高→大阪体育大→トヨタ自動車→サラセンズ→キヤノン)
ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。
第16回は、2011年ワールドカップのキャプテン「キク」ことFL/No.8菊谷崇を取りあげたい。セブンズ日本代表で頭角を現し、2008年に15人制でも初キャップを得ると、そのリーダーシップを買われてキャプテンを任された。また、日本代表FW最多記録となる23トライを挙げたトライゲッターでもあった。
※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)
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「天性のキャプテンシーがある」
オールブラックスの伝説的ランナー「JK」ことジョン・カーワン(元日本代表ヘッドコーチ)が惚れ込んだ男である。
2003年と2007年のワールドカップで日本代表のキャプテンを務めていたNo.8箕内拓郎。その「ミスターキャプテン」の後継者としてカーワンHCが指名したのが、同じポジションの菊谷崇だった。
菊谷は常に笑顔。自然体で仲間たちに接する姿勢が、チーム全体にやる気を起こしていた。そのキャプテンシーを最も強く感じたのは2011年ワールドカップの最終戦、ニュージーランドのネーピアで迎えたカナダ戦だった。
0勝3敗ですでに予選プール敗退が決まっていた日本代表は、最終戦のカナダ戦でワールドカップ20年ぶりの白星を奪いたかった。しかし、前半17-7で折り返したものの、後半35分にPGを決められて23-23でノーサイド。悲願の勝利は、寸前で手からこぼれ落ちてしまった。
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【燃え尽きるほどジャパンに捧げた】
このワールドカップでの最終戦は、JK体制5年の集大成だった。あと一歩のところで勝利をつかみ損ね、「ラグビー人生をかけた試合をしたい」と意気込んでいた菊谷は、グラウンドで悔し涙を流した。
しかし試合後の菊谷は、スキッパーとしての責任感か、気丈に振る舞った。
「引き分けという結果は本当に残念ですが、われわれが経験してきたことは次の世代に伝える必要がある。そうすれば、私たちが実現できなかった目標を達成してくれる。キャプテンとして仲間と一緒にやってきた3年間、日本代表は成長した。ホンマに素敵なチームでした」
大会終了後、日本代表はエディー・ジョーンズを指揮官に迎え、4年後に、叶えられなかったワールドカップでの勝利を誓った。菊谷は当時31歳だったが、「若い選手が多いので来てほしい」とジョーンズHCに説得され、グラウンド外のリーダーとして日本代表に関わり続けた。
だが、2015年ワールドカップに菊谷が出場することはなかった。理由は本人いわく「燃え尽きちゃって(笑)」。燃え尽きるほど、菊谷は全身全霊で日本代表に己を捧げた。
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2008年に菊谷が15人制で初キャップを獲得してから2013年に離れるまでの出場68試合で、多くのファンが覚えているテストマッチのひとつと言えば、2013年6月のウェールズ戦ではないだろうか。今から12年前、強豪相手に対して菊谷が強烈なリーダーシップとパフォーマンスを発揮したことで、ジャパン史上初となるウェールズ戦勝利をもぎ取ることができた。
その強靭なメンタルは、どうやって形成されていったのか。菊谷は奈良県北葛城郡新庄町(現・葛城市)に生まれ、小学校時代は野球に熱中していた。中学時代は補欠が多かったと言うが、中学3年の夏以降に急に身長が伸びて、卒業時には180cmくらいになっていたという。
その見事な体躯に注目したのが、当時ラグビー強豪校の道を歩み始めていた奈良県内の御所工業(現・御所実業)。竹田寛行監督に誘われたことで、菊谷は楕円球の道へと進んだ。
【セブンズ日本代表から15人制へ】
入部当初は練習がつらくて、何度も辞めようとした。しかし、「竹田先生が怖くて言い出せなかった(笑)」。ただ、竹田監督はボールキャリーとしての才能を菊谷に見いだしていたという。ラダーを使ったステップのトレーニングを課し、それが将来の大きな飛躍へとつながった。
高校3年時になると身長は187cmまで伸び、FWの中軸として活躍。奈良予選で天理高を下して花園の切符をつかみ、自身も高校日本代表に選出された。
「勝っても負けても、仲間と分かちあえる、ラグビーの楽しさを竹田先生には教わりました」
高校卒業後、菊谷は一般企業に就職するか、消防士になろうとしていた。しかし、竹田監督に「大学に行け!」と諭されて、憧れの先輩だったSO内村力(元・豊田自動織機)のいる大阪体育大に進学。これもまた、ひとつのターニングポイントだった。
「ラグビーに出会っていなければ、今は何をしているかわからない。ラグビーを始めたから、今の自分がある」
大阪体育大に進学したのは正解だった。1年時から公式戦に出場。在学中に7人制ラグビーの日本代表も経験。4年時には大学選手権2回戦で早稲田大と戦い、54-58と接戦を演じた。
「社会人でラグビーを続けるつもりはなかった」
大学卒業を控え、菊谷はそう考えていた。ただ、セブンズでの活躍を評価されて2002年にトヨタ自動車へ。2005年にはセブンズのワールドカップにも出場し、同年11月に行なわれたスペイン戦で15人制の初キャップを獲得すると、さっそく初トライも記録した。
菊谷のラグビー人生は順風満帆に思えた。だが、2007年ワールドカップはケガの影響で代表メンバーから落選してしまう。しかし、2008年からはコンスタントに選ばれ続けてキャプテンも託され、2011年のパシフィック・ネーションズカップでは優勝に大きく寄与した。
トヨタ自動車で11年間プレーしたのち、2013年にはイングランドのサラセンズに加入。海外挑戦を経て、2014年からキヤノンイーグルス(現・横浜イーグルス)でプロ選手となった。そして2018年、菊谷は惜しまれつつ引退する。
【竹田監督のような指導者に...】
トヨタ自動車からキヤノンへ移籍したのには理由があった。それは「将来はラグビーの指導者になりたい」と強く思い、その勉強時間を確保するためだったという。
夢を実現するべく、現在は解説者としてラグビーの普及活動を行ないながら、ユースの代表チームのコーチを務めている。さらには箕内拓郎や小野澤宏時と「ブリングアップ・ラグビーアカデミー」を立ち上げ、小中学生を指導する日々だ。
自分をラグビーの道に誘い、大きく成長を促してくれた竹田監督のような指導者に──。その思いは今も変わらず、次世代の選手の育成にあたっている。