
ベテランプレーヤーの矜持
〜彼らが「現役」にこだわるワケ(2025年版)
第4回:中島裕希(FC町田ゼルビア)/前編
取材に訪れた6月上旬。トレーニング開始から1時間半が過ぎた頃、FC町田ゼルビアの中島裕希がぶち込んだ、強烈なミドルシュートにチームメイトから歓声が上がった。
41歳、チーム最年長。シーズン序盤こそケガで離脱していたものの、戦列に戻った今は強度の高いすべてのメニューを淡々とこなしていく。チーム全体に疲労が見え隠れし始めたトレーニング終盤も、足は止まらない。
「あのシュートは本当にたまたまです! あんなの、出したことない(笑)。いいタイミングで見てもらえてよかったです」
そこに続いた言葉が、中島の今を物語っていた。
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「僕は言葉で人を動かせるようなタイプでもないので、ただただ日頃の練習から絶対に手を抜かず、100%でやることにめちゃめちゃこだわっています。それを見て、他の選手がどう感じるのかはわからないですが、僕の思いとしては、それがチームにいい影響を与えるとか、みんなの活力になればいいなって思っています」
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そのプロキャリアは2003年、鹿島アントラーズで始まった。今から22年も前のこと。上書きされた記憶も多いかもしれないなと思い、「当時のことは覚えていますか?」と切り出したら、「とにかくガムシャラにやっていただけでした」と返ってきた。
「僕にとっては、鹿島でプロの道にチャレンジさせてもらって、19〜21歳というプロとしての土台を作る時期に鹿島で過ごせたことが、すべてでした。周りの選手のほとんどが日本代表クラスという環境に身を置いて、吸収することしかない毎日を必死に、ガムシャラに過ごせて本当によかった。
マジで毎日、ついていくのに必死すぎて何を学んだとか、覚えていないことも多いけど、気づいたら成長している、勝手に吸収できているってことばかりだったな、と。それは、2006年にベガルタ仙台に行ってから、めちゃめちゃ痛感したのを覚えています」
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事実、当時の鹿島の所属選手に目をやると、クラブを象徴するような、錚々たる顔ぶれが名を連ねている。柳沢敦、鈴木隆行、小笠原満男、本山雅志、中田浩二、相馬直樹、名良橋晃、大岩剛、岩政大樹、曽ヶ端準ら。そのなかで感じた「足りないことだらけ」の日々は、プレーを磨くうえでも、フィジカルにさらなる磨きをかけるうえでも、プロサッカー選手としての基盤を作る時間になった。
「そもそも、僕は全国高校サッカー選手権大会にも1年生の時しか出場できなかったので、鹿島に加入できたこと自体、運がよかったと思っています。プロになることは目標にしていたものの、鹿島に決まるのも遅くて、もしどこからも声がかからなければ、地元の社会人チームで、カターレ富山の前身であるYKK APサッカー部や、北陸電力サッカー部アローズ北陸でプレーできたらいいなと思っていました。
それが運よく鹿島に声を掛けていただいて......2003年の新加入選手は、深井正樹さんと僕のふたりだったのに、そのうちのひとりに選んでもらえたのは本当にラッキーでした。しかも、僕が加入したシーズンに同じFWのヤナギさん(柳沢)が海外移籍をされたこともあって、1年目の途中から公式戦にも絡めましたしね。それ以外にも、サテライトリーグへの出場や、ふだんの練習から代表クラスのセンターバック陣と対峙することで学ぶこともたくさんありました。
また、僕は高校時代から身体能力でサッカーをしていたタイプでしたが、そこはプロの世界でもめちゃめちゃ自信があったので、スピードを生かした裏への飛び出しといったよさを発揮して......というか、周りのクオリティに助けられ、生かしてもらいながら、プロの世界でも戦える選手になっていった気がします。当時の鹿島のチームメイトに会うと、総じて『おまえがこんなに長く現役でいるとは思っていなかった』って言われますけど(笑)」
そんなふうに、鹿島で過ごした時間が"成長"につながっていると確信したのは、J2の仙台に期限付き移籍をした2006年以降だ。戦うステージはJ2リーグに下がったとはいえ、その当時のことを中島は「最初からすごくラクにプレーできる気がした」と振り返る。
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それが公式戦の舞台で余すことなく表現されたのは、2年目の2007年だ。シーズンを通してほとんどの試合に先発出場した彼は、プロキャリアで初のふた桁得点を実現。これを受けて仙台への完全移籍を決断すると、その後もチームの主軸として存在感を発揮し、2009年にはクラブのJ2リーグ初優勝にも貢献した。
「まだまだガムシャラに勢いでプレーしていた時期でしたが、正直、点にはこだわっていなかったというか。もともと、点をバンバン決めることより、アシストも裏抜けもできるし、スピードでも切り裂けて、シュートも打てる、というような"なんでもできるFW"が理想だったので、仙台でもそこは常に意識していました」
その言葉どおり、中島は今も自身を"ストライカー"と思ったことはないという。もちろん、FWという肩書きがつく以上、数字にこだわらなければいけないことは自覚している。だが、逆にそこに固執しすぎずに、自分らしさを追求してプレーの幅を広げてきたことも、キャリアで関わったさまざまな監督に"求められる選手"であり続けた理由かもしれない。
「今も昔も、得点はできなくても点に絡めればいい、チームが勝つための貢献ができればいいという考えは変わっていません。とか言いながら、自分が取れたらうれしかったりもするんですけど(笑)、常々『自分は点を取るだけの選手じゃない』と思っていました。また、どんなタスクであれ、まずは監督に求められることを表現することも心がけてきたことのひとつです。監督に『こいつを使ってみたい』と思わせられる選手じゃなきゃダメだという考えは、いつも自分の軸にありました」
話を戻そう。そうして仙台でのプレーも6シーズン目を迎えた2011年。中島は、サッカーはおろか、人生を考えさせられる出来事に直面する。東日本大震災だ。未曾有の災害に直面した経験は今も彼のなかで息づいている。
「J1リーグのホーム開幕戦を迎える前日だったんですけど、人生で一番の衝撃でした。その後、津波による甚大な被害を受けた石巻市などにも足を運びましたが、もう本当に......家も、何もかもなくなって、ただの更地みたいになっていたんです。
あの状況を目の当たりにした時には、現実だとは思えないような、言葉にし難い気持ちになったのを覚えています。と同時に、今日という一日が当たり前じゃない、明日があるかもわからないということを実感して、心から"目の前の一日"への思いが強くなりました」
"想い"が人を動かすことを実感したのも、このシーズンだ。チームを率いる手倉森誠監督のもと3月末に活動を再開したチームは、練習の合間を縫ってボランティア活動なども行ないながら、4月23日、J1リーグ再開の日を迎える。
その第7節の川崎フロンターレ戦は今も忘れられない試合だという。
アウェーの等々力陸上競技場のスタンドに掲げられた「宮城の希望の星になろう。共に歩もう、前を向いて」の横断幕。サポーター同士が、隣の人と堅く手をつないで両手を掲げ、"共に"の想いを伝えてくれた選手入場のシーン。被災地への想いを込めた黙祷。それらを含めて、すべての人たちの"想い"が宿った一戦は、ドラマチックな逆転勝利で結実した。
「川崎戦の太田(吉彰)さんの同点ゴールは鮮明に覚えています。そのゴールも、セットプレーに合わせた鎌田(次郎)の逆転ゴールもですけど、2011年はこれまでなら絶対に入っていなかったシュートがゴールに吸い込まれていく、みたいなシーンがたくさんあって奇跡の連続でした」
事実、その一戦を皮切りに、地元・仙台はもちろん、世界中から届けられた想いや、それに応えようとする選手、スタッフの想いは、シーズンを通してチームの魂として宿り続けた。
「僕たち選手、スタッフの『仙台のために』って想いはもちろん、その家族や応援してくれる方たち、サポーターの想いなど、本当にいろんな人の想いがチームに宿っているのを感じたシーズンでした。"見えない力"がこんなにも人を動かすんだと知ったのも初めてで......結果的に前年度14位に低迷したチームが4位という成績を収められたのも、間違いなくその"見えない力"のおかげだったな、と。
それを肌身で感じたからこそ、その後に所属したチームでも常に、クラブを取り巻く人たちの想いはいつもありがたく大切に受け止めてきたし、一日一日を大切に過ごしてきました」
仙台でのキャリアに終止符を打ち、2012年からモンテディオ山形に活躍の場を求めたのも日々の大切さを実感すればこそだろう。
「2010、2011年と出場時間が減っていったなかで山形に声をかけていただいて、選手として求められるのは大事だと思ったし、試合に出てナンボの世界に身を置いているという自覚のもと、移籍を決断しました」
戦うステージは再びJ2リーグに下げることにはなったが、鹿島時代に選手とコーチという立場で仕事をした奥野僚右監督に求められたことも決断につながったと振り返る。当時は27歳。キャリアも後半に差しかかりつつある状況に危機感を覚えたところもあったのかと尋ねると、「正直、そこまで先のことは考えていなかった」と笑った。
「今もそうですけど、自分の先のキャリアとか、未来を想像したことがないんです。その時々で、このキャリアをどう歩みたいかを考えるというよりは......ちょっと格好よく言うと『今を、一瞬一瞬を生きていたい』みたいな。
実際、その積み重ねで未来が決まると信じているし、決まってきたと思っているから。これは間違いなく、東日本大震災を経験してその時々にできることを精一杯でやっていくことでしか前には進めないと肌身で感じたからだと思います」
だから、4シーズンを過ごした山形から契約満了を告げられた時も、キャリアで初めてトライアウトに参加することになった時も、動じることはなかったという。
「今、やることをやっていたら、きっと誰かが見ていてくれる」
結果的に、代理人からの「まだやれるってことを、トライアウトで証明してみるのもいいんじゃないか」という提案もあって参加を決めたものの、「よし、アピールするぞ!」的に肩に力が入ることもなく、あくまでいつもどおりのプレーをしようと会場に向かったと聞く。
だが、到着した会場の空気は想像以上に、緊迫感に包まれていた。
(つづく)◆中島裕希がジーコ、カズ、ゴンを抜く日は来るか...>>
中島裕希(なかしま・ゆうき)
1984年6月16日生まれ。富山県出身。富山第一高卒業後、2003年に鹿島アントラーズに入団。「常勝軍団」のなかでもまれて、2006年にベガルタ仙台へ期限付き移籍。2008年に完全移籍する。その後、2012年にモンテディオ山形に期限付きで移籍し、翌年完全移籍。2015シーズン終了後、契約満了となるが、トライアウトを経て2016年にFC町田ゼルビアへ加入した。身体能力に優れた万能FW。