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2025年7月10日、東武東上線は池袋(東京都豊島区)−寄居(埼玉県大里郡寄居町)間の全線開通から100周年を迎える。これを記念して東武鉄道では7月13日から100年前の客車の色である「ぶどう色」に塗装した車両1編成を走らせるなどの記念事業を行う予定だ。
【写真12枚】鶴ケ島駅の駅名横には「折り鶴」のマークがあしらわれている
今回は、東武東上線の鶴ケ島駅へとまずは向かう。池袋から急行で約40分、埼玉を代表する観光地・川越駅の3つ先の駅である。
●鶴ヶ島の地名の由来は?
「鶴ヶ島って、どこにある?」と聞かれたならば、もしかすると多くの人が、地図で八丈島の周辺や小笠原諸島を探すかもしれない。だが、鶴ヶ島市は埼玉県のほぼ中央に位置する。
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「海なし県」の埼玉になぜ「鶴ヶ島」という地名が存在するのか。その答えは、関越自動車道の鶴ヶ島ICを下りてすぐの西入間警察署のすぐそばにある「地名“鶴ヶ島”発祥の地記念碑」を見れば分かる。
その昔、この辺りは池を中心とする湿地帯が広がっており、その池に浮かぶ島の「松の樹に鶴が巣を作り、ひなを育て、やがて大空高く飛翔した」(記念碑の碑文)という言い伝えがある。鶴は長寿の象徴でもあるように縁起がいいことから、1889(明治22)年に、近隣の村々や新田と合併して新たな村を発足させるにあたり、「祥瑞であるとされる『鶴ヶ島』という村名を新たに採用した」(『鶴ヶ島町史』)のだ。
この昔話に登場する池は、今も存在する。記念碑の場所から南へ1キロほど離れた場所にある雷電池(かんだちがいけ)がそれである。現在は児童公園内の小さな池になってしまっているが、かつては相当に大きな湖沼だったのだ。
雷電池では4年に一度、鶴ヶ島市を代表する民俗行事「脚折(すねおり)雨乞」が催される。麦わらや孟宗竹などで長さ36メートル、重さ約3トンもある「龍蛇(りゅうだ)」を作って雨乞いする、大変に勇壮な祭りだ。祭りの日、龍蛇は近隣の白鬚(しらひげ)神社で入魂され「龍神」となり、約300人の男たちに担がれて神社から池まで約2キロを練り歩き、最後は池の中に入り動き回る。
実は、今回の記事の本題はここから先だ。龍神の入魂が行われる白鬚神社の所在地は鶴ヶ島市脚折町だが、隣接して「高倉」という地名がある。そしてこの「白鬚神社」と「高倉」という2つの地名のセットが遠く離れた神奈川県にも存在する。
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しかも、それは単なる偶然ではない。この地名のミステリーを追いかけてみよう。
●埼玉と神奈川に共通する地名の謎
ここで言う神奈川県の白鬚神社とは、伊勢原市の日向(ひなた)薬師の参道入口付近にまつられている地元の小さな神社、別名・日向神社である。また、「高倉」の地名は伊勢原市域のすぐ東側に「高座(こうざ)郡」というエリアがあるが、この「高座」=「高倉」なのだ。
「高座」と「高倉」では全然違うと思うかもしれないが、平安時代中期に成立した『和名類聚抄』は、この地を「太加久良(たかくら)」と表記している。また、『日本書紀』には「高倉郡」とある。これが後に「高座(たかくら)」と変化し、やがて近世になって「こうざ」と読まれるようになったのだ。
ちなみに「高倉」という地名は、朝鮮半島の古代王朝・高句麗と縁が深い。高句麗王族の子孫とされ、従三位という高位まで上った官僚である高倉福信(たかくら の ふくしん、709〜789年)が、高麗朝臣から高倉朝臣へ改称しているように、高倉(タカクラ=コウクラ)は元々、高麗(高句麗=コウクリ)なのだ(高倉は「深い谷」や「豪族の倉」に由来するとの説もある)。
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では、遠く離れた埼玉と神奈川に、ともに「白鬚神社」と「高倉」が存在する意味とは何なのか。ここでポイントとなるのが、「白鬚神社の髭は、誰のものか?」である。これについて伊勢原市の文化財課が発行している『いせはら 史跡と文化財のまち』という冊子には、次のように記されている。
「日向薬師の旧参道入口には、日向の鎮守日向神社がある。御神体は『白鬚明神』と呼ばれる神で、長いあごひげをたくわえ、異国の冠をつけた木像の姿でまつられている。
天智7年(六六八)、朝鮮半島北部にあった高句麗は唐に滅ぼされ、高麗王若光(じゃっこう)に率いられた一団は海を渡って日本へと亡命、大磯の浜に上陸し、唐ヶ原(大磯町と平塚市にこの名が残っている)に居住した。当時、渡来した人々は高い文化をもっていたので、このあたりには早くから高度な大陸文化がひらけることとなった。この高麗王若光こそが白鬚明神である」
●若光とは誰なのか?
さて、ここに登場する若光とは誰なのだろう。その名は古代日本の史書である『日本書紀』と『続日本紀』にも登場する。まず『日本書紀』を見ると、天智天皇5年(西暦666年)、高句麗(朝鮮半島北部から中国東北部の一部を領有していた国名)の外交使節が日本の大和朝廷を訪れたことが記されており、この使節の中に「二位玄武若光」の名が見られる。
高句麗は当時、唐と新羅の連合軍に攻められ、存亡の危機にあった。若光らは救援を求める使節として日本に遣わされたものと思われるが、その後間もなく668年に高句麗は滅亡する。
こうしてみると『史跡と文化財のまち いせはら』に書かれている話(大磯町にも類似の高句麗系渡来人の伝承がある=『大磯町史 6』に掲載)と、『日本書紀』に記されている内容は整合していない。『いせはら』では、若光は亡命移民の統率者として描かれており高句麗滅亡後に日本にやってきたことになっているが、『日本書紀』では外交使節の一員として祖国の危機を救うために来朝したこととされている。
この2つの物語に登場する若光が同一人物だとすると、どのように考えれば話のつじつまが合うだろうか。資料が少ないため推測による部分が多いが、次のように考えてみたい。まず、若光が外交使節の一員として日本に来た直後、高句麗国内では内乱が起き、間もなく高句麗は唐・新羅の連合軍に攻め滅ぼされてしまう。
祖国を失い日本にとどまらざるを得なくなった若光は、そのまま都で朝廷に仕えたのかもしれないし、あるいは亡命してきた祖国の人々を率いて、当時、渡来人の定住が進みつつあった東国を目指し、難波津(現・大阪)あたりから船で東へ向かい、大磯に上陸したのかもしれない。
後者のように考えると、2つの話は1つの流れとして整合するし、ロマンも感じる。その場合も、後述するように若光は朝廷から位階を授けられていることから地方官的な役職には就いたのだろう。
ちなみに当時の東国の様子を見ると、これより少し前、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いに敗れて滅亡した百済(くだら=朝鮮半島南西部に存在した国)からの亡命移民2000余人が、666年に東国に移されている。当時、東国は朝鮮半島からの難民の受け皿になっていたのだ。若光が高句麗難民たちを率いて大磯に移住した可能性は十分にあるのではないか。
●悠久の歴史のある高麗郡
大磯町には、今も若光らの上陸地と伝わる「唐ヶ原」(行政上の地区名としては平塚市)という地名が残っている。
さらに唐ヶ原から花水川を少し遡った場所には「高麗山」があり、その麓には高来(たかく)神社がまつられている。同神社は、元々は高麗寺という神仏混淆(こんこう)の寺院だったが、明治初頭の神仏分離で高麗寺が廃され高麗神社となり、さらに1897(明治30)年に高来神社と改称し、現在に至っている。このように大磯には、若光渡来伝承が史実かどうかは別として、高麗人が移り住んだ名残ともいえる地名や遺構が今も見られる。
この大磯に上陸した高麗人は、前述の伊勢原の白鬚神社(日向神社)や高座郡という地名が示すように、大磯から内陸部に向かって勢力を広げていったものと思われる。白鬚神社付近を流れる日向川は1946(昭和21)年に開削された新玉川を経て、現在は相模川に流入しているが、それ以前は大磯町高麗付近を流れる花水川に注いでいたというから、川の流れに沿って北上した可能性がある。
また、高座郡の名称について『藤沢市史 第四巻』は、「もと帰化系高麗人が多く移住して、開拓にあたったことから、この郡名を得たのではなかろうか、とも推察される」とする。『関東地方における高麗人・新羅人の足跡』(荒竹清光著)は、「騎馬民族であり勇壮で騎射にたけ、狩猟を得意とする高句麗人は、移動式焼畑耕作を背景に、山地民的性格を発揮しつつ拡大移住していったであろう」との見解を示している。
さて、若光の名が国の正史に再び登場するのは大宝3(703)年のこと。『続日本紀』に「従五位下、高麗若光に王(こきし)の姓(かばね)を賜う」との記述が見られる。ここでいう「王」というのは、「臣(おみ)」や「連(むらじ)」などと同じく、朝廷から与えられる称号である姓の1つである。「王」は、主に外国の王族出身者に与えられた姓であることから、若光も高句麗王家の一族だったと考えられる。
さらにその13年後、716(霊亀2)年、高麗系の移民に大きな転機が訪れる。『続日本紀』に「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七国の高麗人千七百九十九人を以て、武蔵国に遷し、高麗郡を置く」と記述されているように、この年、新たに武蔵国に高麗郡が建郡され、高麗系渡来人1799人が東国各地から集住させられたのである。
この新たに建設された高麗郡の中心だったのが、前述した鶴ヶ島市に隣接する日高市および飯能市の一部だった。日高市には今も、高麗王若光の子孫と称する高麗一族が宮司を務める高麗神社(祭神は高麗王若光・猿田彦命・武内宿禰命の三柱)がある。
『続日本紀』の高麗郡建郡に関する記述に、若光の名は見られないが(この時点での生死不明)、若光が高麗郡の初代郡司(首長)を務めたという説がある(高麗神社社伝)。もし、そうならば大磯付近を拠点としていた若光は、このとき領民を率いて日高へと移住したのだろう。来日時に20代だったとして、この頃にはすでに70歳を越える老齢となり、まさに「白鬚明神」のような容貌になっていたはずだ。
ちなみに全国にある白鬚神社の総本宮である近江の白鬚神社の祭神は猿田彦命である。猿田彦は白髭を湛えた老人として描かれ、天孫降臨の物語においてニニギノミコトを高天原(たかまがはら=天上界)から葦原中国(あしはらのなかつくに=日本)まで道案内したことで知られる。高麗の人々を安住の地へと導いた若光と、その姿が重なる。
なお、千余年の悠久の歴史のある高麗郡の名称は、1896(明治29)年に高麗郡が入間郡に編入されたことにより消滅している。
●筆者プロフィール:森川 天喜(もりかわ あき)
旅行・鉄道作家、ジャーナリスト。日本ペンクラブ会員。旅行、鉄道、ホテル、都市開発など幅広いジャンルの取材記事を雑誌、オンライン問わず寄稿。メディア出演、連載多数。近著に『かながわ鉄道廃線紀行』(2024年10月 神奈川新聞社刊)などがある。同書は日本旅行作家協会より第7回「旅の良書」に選出。2025年6月より神奈川新聞日曜版にて「かながわ鉄道英雄伝」連載開始。
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