バルセロナ五輪マラソン銀メダルの森下広一に待ち受けていた「抜け抜け病」の試練「40km走で女子に抜かれていた」

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2025年06月29日 07:20  webスポルティーバ

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【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.5
森下広一さん(後編)

 陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。五輪の大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。

 そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回は1992年バルセロナ五輪で、日本男子マラソン史上2人目の銀メダルを獲得した森下広一さん。輝かしい栄光を残した一方で、その後の競技生活は苦難の連続で、マラソン出場はわずかに3回、バルセロナが最後となった。

 全3回のインタビュー後編では、バルセロナ五輪の激闘と、その後に迎えた試練、そして現在、実業団の監督として選手たちに伝えていることを聞いた。

>>>前編を読む

>>>中編を読む

【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶】

【今でも1位になれなかったのかなと考えることはある】

 1992年8月9日、バルセロナ五輪の男子マラソンは超スローペースで始まった。ところが、中間点でペースアップすると、そこからは次々に選手が脱落していくサバイバルレースとなった。

 34km付近からは森下広一(旭化成)と黄永祚(韓国)のマッチレースとなり、森下は歯を食いしばり、気合いの入った形相で黄と並走した。

「このままついていって、最後のトラックで勝負しようと思っていました。(五輪選考レースの)東京国際マラソンを思い出しながら、このまま行けばいけると感じていました。でも、モンジュイックの丘を上りきって、『ふぅーっ』とホッとした表情をした瞬間、黄選手と目が合ったんです。弱い顔を見せてしまったと思いました。それが相手を勢いづかせてしまったようでした」

 モンジュイックの丘を上りきると、黄はそこからの下りで一気にスパートをかけて、森下を突き放しにかかった。

「あんなところに下りがあるなんて聞いてないよと思いました(苦笑)」

 その下りは、旭化成の先輩である谷口浩美が事前に勝負ポイントとして挙げていた下りだった。谷口がそう考えたのは、1992年3月に下見で行った際、ほぼ同じコースを練習でジョグしていたからだった。

 1991年の東京世界陸上で優勝し、いち早く五輪代表に内定していた谷口は試走を行なっていたのだ。当時、森下も谷口に同行していたのだが、まだ代表に決まっていなかったためコースを走らず、その下りの重要性を理解できていなかった。

「私は知らなかったので、教えて欲しかったなぁと思いました(苦笑)。最後、スタジアムに入るところの上りで追いつきたかったんですけど、そこまででかなり差が開いていたので厳しかったです」

 黄はガッツポーズでゴールすると、その場に倒れ込み、担架で運ばれた。2位の森下もゴール後、そのまま倒れてしばらく立ち上がれなかった。夏のバルセロナは、かくも厳しくタフなレースになった。

「今でも1位になれなかったのかなと考えることはありますよ。でも、当時はそこまでの悔しさを感じませんでした。(うれしさと悔しさで)気持ちは半分半分でしょうか。有森(裕子)さんと同じ順位でゴールできて、これでなんとか日本に帰れるなと思っていました」

 女子がメダルを獲ったので、手ぶらで帰るわけにはいかない。そんなプレッシャーも抱えてレースに臨んでいたが、男子のレースは数日前の女子のレースをなぞるような展開だった。中間点を過ぎてレースが動き、終盤の下りで相手に前に出られて銀メダル。レース後に顔を合わせた有森には「なんで、同じようなレースしてるの?」と言われた。

 森下には、銀メダルを獲得できたこと以外にもうひとつうれしいことがあった。

「谷口さんが8位、中山(竹通)さん(ダイエー)が4位と、日本の3人が全員入賞したんです。それはうれしかったですね。ただ、中山さんは(最後のトラックで)5000mのスタート地点がゴールだと勘違いして『3位だ』と喜んでいたら、まだ先があることに気がついて、残り200mでドイツの選手に負けてしまい、『間違えちゃったよ』と苦笑いしていました」

 男女のマラソンで銀メダルを獲得したことで、日本国内は大きな盛り上がりを見せた。「おめでとう」の声が広がり、森下も帰国後にたくさんの取材を受けた。だが、世間の主役は銀メダリストではなかった。

「(22.5km地点の給水で転倒した)谷口さんの『こけちゃいました』が大きく報道されて、私の銀メダルは霞んでいました(笑)。谷口さんはいつも私の上にいるんです。東京世界陸上のマラソンで金メダルを獲り、バルセロナでは私が谷口さんに勝ったけど、結局、話題を持っていかれて。何をやっても谷口さんにはかなわない(笑)。それもあって、銀メダルを獲っても天狗になることはなかったです」

【コーチの宗猛に泣きながら症状を訴えた】

 バルセロナ五輪が終わり、そこから本当の陸上人生が始まると森下は考えていた。23歳のメダリストに陸上界も陸上ファンも注目し、周囲の期待はどんどん膨らんでいった。

「五輪後は、自分への期待に対してちゃんと応えていかないといけないとずっと考えていました。ただ、会う人、会う人に『体調はどう?』『調子はどう?』と聞かれるんですけど、よくない時でも『いいですよ』と答えているうちに、嘘をついていることへの罪悪感がどんどん大きくなっていきました。

 次のアトランタ五輪に出たい気持ちもあったんですけど、正直、そのための練習ができているかと言えば、できていなかった。ヒザから下の脚の力が抜けるような感じになって、この脚さえ変えてくれればやれるのにとずっと思っていました」

 森下は五輪後、いわゆる「抜け抜け病」に悩まされていた。抜け抜け病は正式な医学用語ではないが、長距離選手によく起こる症状で、脚に思うように力が入らなくなり、例えば真っすぐ前に脚を出したいのにうまくいかなくなったりする。

 森下の場合は、5km、10kmといった短い距離を走る分には問題なかったものの、40kmなど長い距離を走る時に抜ける感じになっていた。これではマラソンは戦えない。先が見えず、目標を立てることができなかった。

「いつもの自分ならもっと追い込めるのに追い込めない。思うように走れない葛藤が続いていたんですが、(現役を)やめる勇気もなかった。『陸上をやめてどうするの?』と考えると、怖くてやめられない。ずっと暗闇の中にいました。

 一度、(旭化成の副監督の)宗猛さんに『(脚の力が)抜けるんですけど、どうしたらいいですか』と泣きながら訴えたんです。『仕方ない。抜けるのを承知で走らないと。やるしかないからやろう』と言われ、もがきながらも練習を続けました」

 ラストチャンスという位置付けで、森下は1997年8月の北海道マラソンに出走することを決めた。だが、札幌での事前合宿で40km走を行なった時のことだった。思うように走れず、女子選手にも抜かれた。

「すごくショックでした。練習後、泣きながら宿に戻りました。その時ですね、引退を決めたのは」

 森下はバルセロナ五輪までのマラソン3レースだけで現役を引退した。成績は優勝、優勝、2位(銀メダル)。強烈なインパクトを残して、惜しまれながらの引退だった。

「今思うと、(高校を卒業して)体力がついたタイミングでマラソンで世界と戦えてラッキーでした。当時の日本の選手はみんな強かった。それは練習量もありますが、性格的な部分も大きかったんじゃないですかね。もうマラソンしかないんだという純粋さと一途さがあって、練習にとことん取り組み、自分のやってきたことに自信を持っていた。

 宗(茂・猛)兄弟、瀬古利彦さん、中山さん、谷口さん、みんなそういう選手でした。だから、マラソンで世界と戦えたんだと思います」

【次の世代にメダルの経験を伝えていきたい】

 現役引退から2年後の1999年、森下はトヨタ自動車九州陸上競技部の監督に就任。マラソン選手では、2015年の北京世界陸上の代表となった今井正人(現・順天堂大学コーチ)らを育てている。現在もマラソンはもちろん、トラック種目も含めて指導を行なっている。

「私の場合は厳しい指導のなか、叩き上げでやってメダルを獲れた。その経験が大きかったので、選手には『勝ったと思える人生を送ったほうがいいぞ』と言っています。そのために練習メニューも変化走などから地道に距離を踏む、昭和時代に旭化成で学んだメニューを軸にしています。

 ウチにいるのはトップレベルの選手ばかりじゃないですけど、地道にしんどい練習を続けていける、そんな"昭和の心"を持った選手をスカウティングしています。そういう選手のほうが陸上だけではなく、のちに社業に専念する時もしっかり働くことができるんですよ」

 今も指導者として走り続けているが、現役当時の森下はなぜ走ったのだろうか。

「自分にはそれ(走ること)しかなかったから。今もそうです。指導をしているうちに、この世界がいいなってあらためて思いました。次の世代にメダルの経験をつなげていきたい、継承していきたいという思いを持って、今も監督として走り続けています」

 ちなみに先日、森下は旭化成の練習拠点である宮崎県延岡市でチームの合宿を行なった。

 その際、今も延岡で暮らす宗兄弟に食事に誘われた。そこで宗猛が「あの時は言えなかったけど、おめでとう」とバルセロナ五輪の銀メダル獲得について、祝福の言葉をかけてくれた。

 実はバルセロナ五輪のレース当日、コーチの宗猛は発熱してホテルの部屋で寝込んでいた。森下はレースが終わり、表彰式を終え、メディア対応をして午後11時過ぎにホテルに戻ると、「2番でした」と銀メダル獲得を報告した。だが、顔色の悪い宗猛は「お疲れさん」とだけ言い、すぐにベッドに戻った。森下は「お疲れさんだけか......」と少し寂しさを感じていた。

 今回、33年越しに祝福の言葉を受けたことに、森下は「バルセロナ五輪での頑張りがやっと報われた気がしました」と笑顔を見せた。

(おわり。文中敬称略)

森下広一(もりした・こういち)/1967年9月5日生まれ、鳥取県出身。八頭高校卒業後に旭化成に入社。宗(茂・猛)兄弟のもとで力をつけ、1991年に初マラソンの別府大分毎日マラソンで、初マラソン日本最高記録(2時間08分53秒)で優勝。翌1992年の東京国際マラソンでも優勝し、バルセロナ五輪の出場権を得ると、その五輪本番では銀メダルを獲得。その後はケガなどで低迷し、再びマラソンを走ることなく1997年に現役引退。1999年にトヨタ自動車九州の監督に就任し、現在まで後進の指導にあたっている。

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