【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.5
森下広一さん(中編)
陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。五輪の大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。
そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回は1992年バルセロナ五輪で、日本男子マラソン史上2人目の銀メダルを獲得した森下広一さん。輝かしい栄光を残した一方で、その後の競技生活は苦難の連続で、マラソン出場はわずかに3回、バルセロナが最後となった。
全3回のインタビュー中編では、バルセロナ五輪出場を決めた東京国際マラソンでの中山竹通との激闘、そして五輪本番までの取り組みを振り返ってもらった。
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【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶】
【レースで勝つため、"強い自分"を演じていた】
1992年になり、バルセロナ五輪のマラソン代表選考レースを兼ねた東京国際マラソンが近づいてきた。森下広一(旭化成)は調整を進めてきたが、年が明けたくらいのタイミングの練習中に、脚に痙攣を起こし、10日間ほど休まざるを得なくなった。
旭化成を指導する宗(茂・猛)兄弟からは、出場する選考レースを2月の東京国際から3月のびわ湖毎日マラソンに変更したらどうかと打診を受けたが、森下は「選考レースは1カ月ずらせても、五輪はずらせない。出ると言った以上は東京国際に出ます」と断った。
選考レースなのだから万全の状態で走ることが最も重要に思えるが、森下はなぜ東京で走ることにこだわったのか。
「レースを延期すると、(その準備で)集中する時間がさらに長くなるじゃないですか。自己ベストが2時間8分(53秒)なので、そのタイムに沿ってキツい練習をするんですけど、私はメンタル的な持久力がないので、キツい練習は集中しないとできないんです。しかも、性格的にここでやると決めたらいっさいずらしたくない。これで出てダメなら五輪もダメだろう、そのくらい割りきっていました」
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練習やレースに集中するため、森下はピリピリした空気を全身にまとい、人を寄せつけないようにしていたという。チームの先輩である谷口浩美は当時の森下の様子を「殺気すら感じた」と語ったが、それほど自分の世界に入っていた。
「今の子たちはSNSなどで『ケーキが美味しかった』『ディズニーランドが楽しかった』と、弱いところというか、競技者として見せなくてもいいところも見せている感じがするんです。
私はあえてそういう部分を見せず、俳優のように"強い自分"を演じるくらいじゃないとレースでは勝てないと思っていました。あいつは何考えているのかわからない。そういうふうに相手が意識する存在になれば勝ちだと考えていたんです」
もともとは人と話すことが大好きで、大きなレースが終われば、「こんなにしゃべる人だったんだね」と驚かれることも多かった。だが、極端なほど自分を追い込まなければ勝てないくらい、選考レースは厳しいものだと考えていた。旭化成の寮でも孤独な時間を貫いていた。
「練習が終わると、部屋で1500ピースのジグソーパズルをやっていました(笑)。もともとひとりっ子ですし、ひとりの世界には慣れているので寂しいとかはなかったです。強い自分を演じることに疲れることもなかったんですよね。すべて東京で勝つためだったので」
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【バルセロナ五輪をかけた中山竹通との再戦】
前年の東京世界陸上のマラソンを制した先輩の谷口は、すでにバルセロナ五輪のマラソン代表に内定していた。森下は、谷口が優勝したのを見て、「自分も(東京国際で)勝てる」と思っていた。
「そう思えたのは、ずっと谷口さんと練習してきましたし、駅伝の練習では勝つこともあったからです。しかも、谷口さんは私のように目一杯追い込むようなタイプではない。マイペースですが、しっかりと東京の世陸で勝ったので、同じ練習をして、さらに自分はもっとやっていたので負けるわけがない。絶対に勝てると信じていました」
実際、レース前日の記者会見では「(1988年ソウル五輪マラソン4位の)中山竹通(ダイエー)選手に勝てますか?」という質問に対して、森下は「中山さんが最初からスパートをして逃げたとしても、最後、胸の差で勝ちます」と自信に満ちた表情で答えた。
レースの先頭争いは、体力も徐々に限界に近づいてくる35km過ぎで森下、中山、早田俊幸(鐘紡)の3人に絞られた。森下は、中山の戦い方は理解していたが、初マラソンの早田がどんなレースをするのかわからず、不気味に感じていた。どこでスパートをかけるのか、そのことばかり考えて走っていた。
38.5km過ぎ、上り坂に差し掛かったところで中山が前に出た。このままレースが進めばラストスパートでは森下や早田にかなわないと考え、ロングスパートをかけたのだ。
「中山さんは本来ラストスパートをしないタイプですが、(このタイミングで)行かないと負けるから前に出たんだと思います。でも、中山さんは上りがそんなに得意じゃないんですよ。かなり脚を使った様子が見えたので、(結果、思ったほど引き離せず)不利な走りになってしまったと思います」
早田が遅れはじめ、森下は鬼気迫る形相で中山とのデッドヒートを演じた。
「あれが自分のファイティングポーズなんです。人に弱い顔を見せたくない。完全にスイッチが入っているので、あの顔になった私は怖いですよ(笑)。余談ですが、そういう必死さってすごく大事だと思っていて、だから、うちのチーム(監督を務めるトヨタ自動車九州)で(順天堂大学時代に『山の神』と言われた)今井正人(現・順天堂大学コーチ)を採ったんです。彼も歯を食いしばって、必死の顔をして走りますから」
ゴール地点の国立競技場に入る手前で中山が前に出て、森下と少し差が開いた。このままトラックまで並走していくのかと少し油断した隙を突かれた。それでも森下は追いすがり、今度は中山を抜き返した。
「国立競技場前の最後の坂で追いついて、トラックに入ったんです。自分では加速しているつもりなんですけど、脚に疲れがきていて思うように進まない。でも、中山さんも(38.5km過ぎの)上り坂からずっと引っ張ってくれていたので、かなり脚にきていたと思います。必死にもがいて走ったら中山さんが離れていってくれたのでよかったですけど、ラスト100mは本当にキツかったです」
2時間10分19秒で優勝した森下は、谷口に続いて2人目となるバルセロナ五輪のマラソン代表の座を射止めた。
「2回目のマラソンで五輪のマラソン代表になれたのですが、今思うと宗さんたちの敷いいてくれたレールの上に乗り、ふたりが描いたシナリオどおりになったなと思いました」
【ピーキングの難しさを感じながら、五輪本番へ】
バルセロナ五輪に向けて、森下は谷口らと合宿に入った。だが、途中で谷口は疲労骨折をして離脱してしまった。
「ひとりになったんですけど、そのほうがストレスなく取り組めました。谷口さんと一緒だと、どうしても比べてしまって。谷口さんは(練習を)あまり追い込まないタイプで、自分はとことん追い込むタイプなので、何が正解なのかと考えこんでしまいますから。ただ、ひとりになって追い込んだ結果、想定よりも10日くらいピークが早く来てしまって......。これはまずいと思いましたね」
その後、ロンドンで時差調整をして、調子のバロメーターとして5000mを14分15秒ぐらいで走り、動きを確認した。問題なく走れたことにホッとしたのか、その夜は37度7分まで発熱し、「やばい、終わった」と思ったが、翌日には平熱に下がった。
五輪本番のレースプランは特になかった。大きな故障もなく、東京国際マラソンからいい流れで大会前日まで調整することができていた。
1992年8月9日、バルセロナ五輪の男子マラソンがスタートした。
スタート時の気温は31℃。厳しい暑さの影響もあり、10kmで31分程度かかる超スローペースとなるなか、森下は誰かがペースを切り替えてくれないかと思っていた。
レースが動きだしたのは20km過ぎ。スローの展開に痺れを切らした中山やサルバトーレ・ベッティオル(イタリア)らがペースを上げて振り落としにかかった。
「それについていったら後ろと差が開いてきたので、このままのペースで行こうと思っていました。その時点で谷口さんの姿が見えなくて......。転倒しているなんて知らないので、『あれ? いないな』と思っていました」
谷口は22.5km地点の給水を取る際、後ろの選手のつま先がかかとに引っかかり、シューズが脱げて転倒。再びシューズを履いて走り始めるまでに30秒ほどロスしていた。
森下は、スローペースのまま進めば谷口が有利だなと思いながら走っていたが、ペースが上がったのに加えて谷口が転倒と、気づかぬうちにメダルを争う身近なライバルがひとり消えていた。
(つづく。文中敬称略)
>>>後編を読む
森下広一(もりした・こういち)/1967年9月5日生まれ、鳥取県出身。八頭高校卒業後に旭化成に入社。宗(茂・猛)兄弟のもとで力をつけ、1991年に初マラソンの別府大分毎日マラソンで、初マラソン日本最高記録(2時間08分53秒)で優勝。翌1992年の東京国際マラソンでも優勝し、バルセロナ五輪の出場権を得ると、その五輪本番では銀メダルを獲得。その後はケガなどで低迷し、再びマラソンを走ることなく1997年に現役引退。1999年にトヨタ自動車九州の監督に就任し、現在まで後進の指導にあたっている。