中畑清が篠塚和典に涙で感謝した、1989年日本シリーズでの現役最終打席「ありがとう、シノ」

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2025年07月01日 17:20  webスポルティーバ

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中畑清×篠塚和典 スペシャル対談(5)

(対談4を読む:同期のふたりが明かすドラフト1位をめぐる裏話 厳しかった伊東キャンプには「感謝」>>)

 巨人のレジェンドOBである篠塚和典氏と中畑清氏による対談。その5回目は、1987年に繰り広げたセ・リーグの首位打者争いや、最も印象深い優勝、中畑氏の現役最終打席の裏に合った篠塚氏のある進言について振り返ってもらった。

【落合、正田との首位打者争い】

――1987年のシーズン、中畑さんと篠塚さんは、落合博満さん(当時、中日移籍1年目)や正田耕三さん(広島)と熾烈な首位打者争いを繰り広げました。この時は、お互いのことを意識していましたか?

中畑清(以下:中畑) 自分は首位打者を狙える打率を残していたのですが、ケガをして途中で離脱してしまったんです。規定打席に到達するため、ケガから復帰後は打席数を稼ぐために1番で起用されていましたが、残り5試合で打率を落としてしまいました。シノは、最終的に正田と争っていたよな。

篠塚和典(以下:篠塚) 最終的にはそうですね。ただ、落合さんとの差もほとんどなかったですよ。中畑さんからは、「落合には絶対に首位打者を獲らせるなよ」って励ましてもらいました。でも、中畑さんも(首位打者を獲る)チャンスがありましたからね。

◆対談を動画で見る↓↓

中畑 残り5試合の時点で巨人が優勝し、気持ちが切れちゃった部分もあったかもしれない。理由にならないんだけどね。残り5試合で、1試合ごとに1本でもヒットを打って規定打席に達すれば首位打者を獲れたと思うのですが、5試合ノーヒットでしたから(最終的な打率は.321。落合は.331)。

篠塚 最終的に僕と正田が同率(.333)で首位打者を分け合いました。確か、正田は最後の打席でセーフティーバントを決めたんです。

中畑 他人事だからあまり見てないな(笑)。自分は優勝して緊張の糸が切れていたね。首位打者よりも日本シリーズのほうに気持ちが傾いているところもあったし。やっぱり、消化試合になるとチーム全体が緩むし、そういう雰囲気のなかでは自分の場合は無理だった。どちらかというとノリで勝負するタイプだから。

【中畑の現役最後の打席は「本当に幸せな瞬間だった」】

――おふたりは巨人で何度も優勝されていますが、どの優勝が印象に残っていますか?

中畑 3連敗した後に4連勝で日本一になった(1989年の)近鉄との日本シリーズです。それと、(1983年の)西武との日本シリーズ。3勝4敗で負けたのですが、お互いにサヨナラ勝ち(7試合中3試合がサヨナラで決着:巨人2度、西武1度)するなど劇的な展開が多く、気持ちの入ったシリーズでしたね。

――第3戦では中畑さんがサヨナラタイムリー、第6戦では9回に篠塚さんと原辰徳さんが出塁、中畑さんが逆転タイムリーを打ち、あと1イニングで日本一寸前でしたが、その裏に追いつかれ、延長10回にサヨナラ負けを喫しました。

篠塚 西武は強かったですよね。

中畑 勝てなかったけど、自分のなかでは「戦えたな」っていう充実感があったというか、そういうシリーズだった。やっぱり日本シリーズは特別な戦いだからね。短期決戦で日本一を争うという、プロ野球では最高のイベントだよ。

 それと、近鉄との日本シリーズは自分にとって現役最後の戦いだったわけですが、その時(3勝3敗で迎えた第7戦)にシノがとってくれた行動は忘れられないね。シノがそういうことをやるタイプではないと思っているから、なおさらインパクトがあるんだよな。

篠塚 やっぱり、中畑さんにとって現役最後の試合でしたし、「どこかで中畑さんを使ってもらえないかな」と思っていて。でも、日本一が決まる大事な試合ですし、藤田元司監督も「勝たなきゃいけない」という考えが第一にある。ただ、そう思っているうちに試合は進みますし、中畑さんになんとか打席に立ってもらいたかったんです。

中畑 自分は出番がないと思っていたけど、シノが藤田監督に「中畑さんを使ってやってください」と直訴してくれたんだよな。「普通、選手が監督にそういうことを言うか?」って。それを目の当たりにしてしまったものだから、「ありがとう、シノ」っていう気持ちで、もう号泣だった。

 やっぱり戦友だしな。(6回表に6−2とリードを広げた場面で)代打で出て、試合展開としてはダメ押しのホームランを打つことができたんだけど、たとえその舞台が用意されなくても、シノのあの演出だけで十分だったね。本当に幸せな瞬間だった。

篠塚 監督ですし、言うのはためらいましたよ。ただ、同期入団で長年一緒にやってきた中畑さんの最後の試合でしたし、僕がセカンドのレギュラーになれたのも、中畑さんがケガで離脱して、セカンドだった原がサードへ移ったからですし。そういう恩返しのためにも(笑)、とりあえず藤田監督の頭のなかに入れておいてもらおうと思って言いましたよ。

【みんなが演出した、"私のための日本シリーズ"】

――篠塚さんからの直訴を受け、藤田監督の反応は?

篠塚 「うん、わかった」という反応でしたね。試合展開としても、代打を出しやすい流れになっていましたしね。

中畑 原がホームランを打って点差が4点に広がったんだよな。だから、原もひと役買ってくれているわけで。なんかうまくハマっちゃったんだよ。"私のための日本シリーズだった"みたいな、おいしいところだけ持っていっちゃってすみません(笑)。

――中畑さんのホームランは、スタンドにいるファンが呼び込んでくれたように感じました。

中畑 東京から自分の後援会の方たちが来られていて、ボールが落ちた場所がちょうどその方たちが陣取っていたところだったんです。神宮球場で打ったシーズン最後のホームランもそう。人間のつながりみたいなものを感じますよね。演出してもそうはいかないだろうという。

篠塚 ホームランボールは帰ってきたんですか?

中畑 ガラスのケースに入った状態で帰ってきました。

篠塚 ここ(自宅)に置いてあるんですか?

中畑 シノが野球教室で来てくれた、地元の(福島県)郡山に飾ってあるよ。

【プロフィール】

■中畑清(なかはた・きよし)

1954年1月6日生まれ、福島県出身。駒澤大学を卒業後、1975年のドラフト3位で巨人に入団し4年目から一軍に定着した。通算打率.290の打撃、ファーストでゴールデングラブ賞を7回獲得した守備で勝利に貢献。長嶋監督から調子を聞かれ、試合に出るために「絶好調!」と答えて「絶好調男」としても人気を集めた。1989年に現役を引退。2012年から4年間、DeNAの監督を務めた。また、2004年のアテネ五輪ではヘッドコーチを務めていたが、チームを率いていた長嶋茂雄氏が脳梗塞を患って入院したあとに監督を引き継ぎ、チームを銅メダルに導いた。

■篠塚和典(しのづか・かずのり)

1957年7月16日生まれ、東京都出身、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年を最後に現役を引退して以降は、巨人で1995年〜2003年、2006年〜2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。

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